事の発端は夏梨の双子の姉、遊子のとある質問による。
「ねえ夏梨ちゃん、『ほーよ』って何?」
「……は?」
一瞬脳内でカタカナに変換されたその名の響きに、夏梨は新種のヨーヨーか何かかと思った。
だが続きを聞く限り、どうやら違うらしい。
「昨日やってたドラマでね、男の人が女の人に聞いてたの。『ほーよしてもいいですか』って。あたし、わかんなくって」
「……遊子、あんた何のドラマ見てんの?」
「土曜のお昼にやってるやつだよ。『復讐の女K』」
「…………悪いこと言わないから、やめときな、ソレ」
「えー、何で? 面白いよ」
小学生が昼メロドラマを見て面白いとはどうなのか。思わず半眼になりかけたが、この調子では止めたところで聞くまい。
「ホントはお兄ちゃんに聞こうと思ったんだけど……」
「一兄にもヒゲにも聞くなよ」
「へ? だめなの? てことは夏梨ちゃん知ってるの!?」
「知らないよ、そんなの。でも何となく、聞かないほうがいいと思う……」
実は兄も父も、あの時間帯のドラマはあまり見せたがらないのを夏梨は知っている。内容が子供向けではないのだ。となれば、その用語もタブーだろう。ここが食事の席でなくてよかったと夏梨はひそかに安堵した。
遊子は少し不満そうに口を尖らしたが、結局「わかった」と頷いた。
「じゃあ夏梨ちゃん、何かわかったら教えてね!」
「は?」
「だって聞いちゃダメなんでしょ? 自分で調べるしかないけど、あたしそういうの苦手だし……」
そう言って困ったように上目遣いで夏梨を見つめる。
リビングで二人しておやつを食べていたのだが、夏梨は食べかけのホットケーキと遊子を見比べて、がしがしと頭を掻いた。
きっと断れば、明日からのこの時間は拗ねた遊子の宥めすかしから始まるのだろう。ちなみに無断でおやつの席を欠席すれば、以降のおやつはいらないと見なされる。兄も父もこのルールによって排除された。
もっとも現役高校生や医者を稼業とする者に、遊子と夏梨が小学校から帰って来てからの、定期的なおやつの時間に来いと言っても無理がある。遊子もそれをわかっているから、いるときにはきちんと作ってやるのだけれども。
「夏梨ちゃん?」
逸れかけた思考がその声で引き戻される。
夏梨は深々とため息をついた。
「……わかったら、ね」
疲れたようにそう言えば、至極嬉しそうに遊子は元気よく頷いた。
***
かくして夏梨は、正体不明の『ほーよ』を調べることになった。
わかったら、などと遊子は言ったが、おそらくわかるまで聞き続けるだろうことは想像に難くない。
それならばさっさと済ましてしまおうというのが夏梨の結論だった。
まず、辞書で調べようと思った。だがそれを察した遊子がなぜか、「ロマンがない!」と意味のわからないことを言われてしまったのだ。
(何がロマンなんだよ……)
一番辞書が正確かつ早いと力説はした。だが遊子曰く、辞書は直接的すぎてかえってわかりづらいというのだ。直接的だからこそわかりやすいと思うのだが、どうしても人づてに聞きたいと言う。俗説がどうのとも言っていたが、いったい何のドラマに毒されているのだろうか。
だが、それによって飛躍的に難易度は増した。
まず、内容的に一番近場の大人には訊けない。父や兄が当てはまる。だがその周りの知り合いも、話が回る可能性が高い。たつきや織姫などがそれである。
「……ったく、面倒くさいな」
「何が?」
「うわあっ」
唐突に頭の上から降ってきた声に、夏梨は思わず反射的に後ろに飛びずさる。
「わ、反射神経いいね。さすが一護の妹」
「……って、水色くんか。びっくりした……」
「こんにちは、偶然だね」
にこやかに笑うのは、兄である一護の友人だった。年頃の男ながらに可愛いという形容詞に違和感がない容姿をしている。
朝、一護を迎えに来ることがよくあるから、自然と黒崎家の人間とは仲がいい。
「何してんの? こんなとこで。学校は?」
今日は平日である。普段ならばまだ一護は帰っていない。
その問いに、水色は苦笑がちに答えた。
「早退してきたんだ。ちょっと体調悪くて」
「風邪? そう言えばちょっと顔色悪いよ。うち寄ってく? それくらいなら友情料金無料で診てくれるよ」
「ありがとう、でも平気だよ。ちょっと貧血気味なだけだから」
だが、そう言った直後だった。唐突に前後不覚になった水色が、足をもつれさせたのだ。
倒れる、と夏梨が認識したときにはもう遅かった。
「わっ」
水色はがくんと地面に膝をつき、そのままぐらりと倒れかかったのである。
慌てて夏梨はほとんど反射的に手を差し伸べる。思い切り体重をかけて腕を引き、何とか地面に直撃しかけたのを阻止するが、おかげで水色の体重そのままが夏梨の体にのしかかってくることになった。
腕だけでは支えられないと判断して、体をつっかえ棒のようにして滑り込ませ、ほとんど抱きかかえるような姿勢で受け止めた。
「ちょ……っ、みっ水色くん!! しっかりしてって、ねえ!!」
よたよたしながら声を張り上げると、それで何とか水色は意識を取り戻したらしい。ずる、と体が動く。
「ごめ……ちょっとふらついた」
青いを通り越して真っ白な顔色で苦笑しながら、水色は夏梨に預けていた体を起こした。それを支えながら、夏梨はつい声を大きくする。
「ちょっとって、全然ダメじゃんか! 歩ける? ウチそこだから、早く行こう!」
「や、大丈夫だよ、ほんと」
「大丈夫じゃない!! いいから、行くの!!」
ぎゃんと叫んで、夏梨は水色の腕を引っ張る。すると結局水色は困ったような笑みを浮かべて、頷いた。
睡眠不足から来る貧血だな、と一心はたしなめるような口調で言った。
「ちゃんとメシは食ってるか? 若干栄養失調の兆しもあるぞ」
「……最近、ちょっと不規則だったかもですね」
「しっかり食えよ。次倒れたら問答無用で点滴だからな」
はい、と水色は素直に返事をして立ち上がる。だが彼はそのまま帰らせてもらえはしなかった。
「ああ、待った待った。ちょっとそっちのベッドで寝とけ」
「え……」
「夏梨が絶対寝かせって言ってたからな。それにその顔じゃあ、いつどこで倒れるかわかったもんじゃない」
そう言って一心はぺいっと水色をベッドのある個室のほうへ押しやって、ぱたんとドアを閉じてしまう。
一人部屋に残された水色は小さく息をついて、仕方なくベッドに歩み寄った。いくら言っても一心や夏梨が帰してくれるとは思わなかったのだ。
制服の上着を脱ぎ、ネクタイを緩めているところで、キイ、と音を立ててドアが開いた。それに気づいて振り向くと、ひょこりと小さな姿が覗く。
「お、ちゃんと寝ようとしてるな。よかった」
「夏梨ちゃん?」
思わず水色はきょとんとしてしまった。と言うのも、夏梨は柔らかなピンク色のナースキャップに、同じ色のナース服を着ていたのだ。
普段ほとんどパンツルックでいる夏梨がワンピースタイプのその服を着ている様は、珍しい。
視線に気づいたのだろう、夏梨は少し眉を寄せた。
「なに? 仕方ないでしょ、手伝い入ってくれって言われちゃったんだ」
動きにくいったらないよ、と服の裾を引っ張る仕草は服装とあいまっていつもより女の子らしく見える。
「そっか。でもそういうのもよく似合うよ」
世辞でなく水色がそう笑うと、夏梨は照れ隠しのようにわたわたと大股で駆け寄ってきて、水色をベッドへぐいぐいと押しやる。
「いっ、いいから、早く寝る!」
「はーい」
茶化すように返事をして、水色はベッドにもぐりこんだ。その布団を夏梨が慣れた手つきで直してくれて、よく手伝いをしているのがわかる。
清潔な布団の匂いを感じながら水色は息を吸う。ぽんぽんと仕上げのように叩いてくれた小さな手の感触に妙に安堵した。
「そういえば、夏梨ちゃんは遊びに行くところじゃなかったの?」
訊かれて、夏梨はようやくそれを思い出したらしい。あ、と呟いてがしがしと頭を掻いた。
「あー……まあ、いいんだ。遊びっていうか、ちょっと調べものだったし」
「調べもの?」
きょとんとして訊ね返すと、夏梨は言いにくそうに言葉を濁す。
しかしどうやら何か言いたげでもあるように見えて、水色は微笑ましく思いつつ言葉を重ねた。
「僕でよかったら、聞いてみて。大丈夫、誰にも言わないから」
「……ほんと?」
誰にも言わない、というのは魅力的だったらしい。夏梨はぱっと表情を変えた。どこか淡白な性格のこの少女も、やはりこういうところは子供らしいと思う。
「言わない。今日、助けてもらったお礼ってことじゃ、だめかな?」
そう押すと、夏梨は少し逡巡してから、頷いた。
そして水色の寝ているベッドの横に椅子を置くと、そこに腰掛ける。
「あのさ、遊子に聞かれたんだ。昼のドラマで男が女に『ほーよしてもいいですか』って言ってたけど、どういう意味だって」
わかんなかったんだけど、一兄や親父はあの時間のドラマ見せたがらないし。
そう困った風情で言う夏梨に、水色は一瞬何のことだと思ったが、すぐに理解した。
(わかったけど、遊子ちゃんはどんなドラマ見てるのかな)
思わずそう思ってしまうほど、このご時世ではあまり使わないその言葉に、苦笑する。
「わかる?」
重ねて問われて、水色はひとつ頷いた。夏梨の表情がまたぱっと変わる。純粋にそれは可愛いと思う。基本的にうるさい子供は好きでないほうだが、妙に冷めた性格の夏梨はそれに当てはまらない。
「それ、たぶん『ほうよう』のことだと思うよ」
「ほうよう?」
首を傾げる夏梨に肯定の返事をしながら、水色はゆっくり体を起こす。
「あ、起きたら……」
「ちょっとだから。それが何か知りたいんでしょ? 教えてあげるから」
「……そうだけど」
どこか釈然としない返事をする夏梨ににっこり笑いかけて、手招く。
夏梨は素直に立ち上がって、距離を詰めた。その小さな肩に手をかけて、もう一方の手を腰に回す。
本当に小さいな、と思う。年上の女性としか付き合ったことがないし、水色はそんなに背が高いほうではないからすっぽり包み込める大きさは新鮮だった。
そのまま引き寄せて、抱きしめる。
瞬間的に、夏梨が体を硬くしたのがよくわかった。
「なっ、ちょっみっ水色く……」
わたわたと腕で突き離そうとするのを力で押し込める。高校生と小学生ではその力の差は歴然で、抵抗を無にするのは容易かった。
そして耳元で言う。
「これが『抱擁』。……抱きしめること、だよ」
わかった? と力を緩めるや、夏梨は弾かれたように水色から離れる。距離を取って大きな黒い目を見開いているその顔は明らかに真っ赤だった。
「じっ……実際にやらなくて、いい!!」
「だって、わかりやすいでしょ」
何でもないように笑うと、夏梨はぱくぱくと意味なく口を開け閉めして、立ち尽くす。
それを何となく楽しんで見ながら、水色は曇りない笑顔で続けた。
「またわからないことがあったら、聞いてね」
「もっ、もういい! ありがとう!!」
言うや、夏梨はぐるんと勢い良く踵を返して、賑やかに部屋を飛び出して行った。
それを見送って、水色は布団にもぐり直す。
――抱きしめることくらい、どうということはない。
けれど自分でも意外なことに、小さな少女を抱きしめた感触は妙に体に染み付いた。
新CP開拓……? マイナー爆走ですみませんすみません、絶対需要がない←
2009Xmas〜年末年始10日連続更新九日目。
[2010.01.02 初出 高宮圭]