日番谷は、痛みの中で目を覚ました。
頭が冴えていくと同時に、痛覚も覚醒するのか、鋭い痛みが体中を苛む。
どこが痛いのか、それすらわからない。叫び出したいほどに痛い。けれど喉は焼けたように熱くなるだけで、声が出ない。
声にならない声で叫び、痛みにのた打ち回りながら、日番谷はどこか切り離されたような意識で、ぼんやりと思った。
――こうして、死んでゆくのか。
敵に刃は届かず、守るべきものは守れず、無様を晒して。
なんてざまだ。
(ちくしょう)
守れなかったものが、走馬灯のように意識の中を駆け抜ける。
流魂街の祖母から始まるその記憶は、幼馴染や副官を含めた仲間たちが赤に屠られていくそれで終わる。
男は笑っていた。
護廷十三隊の隊長格を易々と屠り、しかし自らは手傷の一つも負うことはなく。
絶対的な力の差を見せつけ、けれど無力を味わい絶望するだけの命を残して。
――藍染は笑っていた。
この手で斬ると決めたはずのその男には、刀の先すら届きはしなかった。
日番谷が意識を失うその前に見たのは、砕けた氷塊すらも紅に染まる、ひたすらの赤だった。
痛みのせいだけではない叫びをあげたとき、どの感情のせいか、それとも生理的なものかはわからないが、眦を涙が伝った。
それを誰かの指が拭った気がしたのは、たぶん気のせいだろう。
***
目が覚めた。
それがわかったときに、日番谷は酷く困惑した。
(――確かに、死んだと思った)
それなのに、何故。
ほとんど無意識に体を動かそうとして、びりっと電撃でもあびたような痛みが全身に走る。それに思わず呻いたとき、傍らから声がした。
「動かさないで」
知らない声だ。痛みを堪えながら頭を巡らすと、枕元に立つ人影が見えた。
「やっと血が止まりかけてるんだ。傷が開くよ」
「お、まえ……」
誰だ、というのは痛みの呻きに取って代わられた。
傍らにいたのは、子供だった。背格好で言えば、日番谷と似たり寄ったり。まっすぐな黒髪と黒目の、女の子供。
「喋らないで。首にも傷があるんだ。そんなに深くないし、動脈はそれてるみたいだけど、まだ血が止まりきってない」
言いながら子供は血まみれの包帯を手早く抱えて置いていた袋の中にしまう。
その動作を見ながら、日番谷は子供が血まみれなのに気づいた。つけている前掛けも袖のあげられた腕にも、頬にも血の跡がある。傷を、と一瞬思いかけて、違うことはすぐわかった。
あれは返り血だ。たぶん、日番谷の。
「ここは病院だよ。……て言ってもちっちゃい病院だし、今医者は不在だけどね。あんたはさっき、ここにいきなり突っ込んできたの。何がどうなってんのか知らないけど、窓すり抜けてね。あたしだけでベッドに上げるの、大変だったんだから」
言われてようやく、ベッドにいることを知った。そういえば手も足も、体がうまく動かない。何だと思えば、どうやらベルトのようなものでベッドに体が固定されていた。
「ああ、ごめん。あんた酷く暴れたから、安全ベルトつけさせて貰ったの。もういらなさそうだね」
子供は手際よく繋いでいたベルトを外す。外しながら、絶対動くなという念押しも忘れなかった。
ようやく状況を飲み込みながら、それでも日番谷はまだ混乱していた。
病院、突っ込んできた、傷。――今の話だけでは、自分が今生きていることの説明にはならない。そんなもので生き残れるほど生易しい傷でなかったことは、自分だからこそわかる。
どうして。
だが、そんなことを考えるより先に、やることがあった。
子供がそばを離れたのを見計らって、無理やり体を起こす。とんでもない激痛が走って、叫びそうになるのを呻くだけでどうにか堪えた。
幸い、右腕は動く。左腕と胴体は深く切られているようだが、なんとか足も動きそうだ。
(生きて、いるなら)
やるべきことがある。倒すべき敵がいる。守るべきものがある。
(行かねえと)
刺し違えてでも、あいつを。
「――そんな傷で行って、何になるっていうんだよ」
淡々とした声が、背後からかかった。あの子供だ。
「……やることが、ある」
「死にに行くのが、やることかよ」
「結果的にそうなっても、俺は行く」
すたすたと近づいてくる足音がする。傍らでその音が止まったと思うと、唐突に右頬を叩かれた。
ほとんど痛みを感じない程に軽く。けれど乾いた音が、やけに耳についた。
「ふざけんなよ」
子供は震えを押し殺したような声で、言った。
「あんたら死神が外で何やってんのかは知らない。どんな事情があるかだって知るわけないよ。けどね、今のあんたが行っても死ぬだけだってことぐらいは、わかる」
「なん、だと……?」
日番谷は耳を疑った。この子供は、今死神と言わなかったか。
そうだ、そういえば町の住人は眠らされて全て尸魂界に送られたはずなのに――この子供は、いったい何故ここにいて、日番谷と言葉を交わせているのか。そして藍染に斬られた日番谷も、何故ここにいて、命をつないでいるのか。――これはおそらく、とんでもないことだ。
だが子供は日番谷の驚愕も戸惑いもお構いなしに、彼を正面から見据えて、言った。
「死ぬな」
「な……」
「死ぬなよ。……頼むから、お願いだから、そんなふうにしか戦えないって、思わせないでよ」
子供はすがるような声で言って、そして堪えるように俯いた。
日番谷は直感的に、泣く、と思った。
だが顔をあげた子供は、予想に反して泣いてはいなかった。ただ強い黒い瞳で、日番谷を見ている。
「あんた、死神なんだろ」
「……何で、知ってる。てめえいったい……」
子供は、簡潔に答えた。
「あたしは、黒崎一護の妹だ」
「黒崎の……!?」
だが、それで合点が行った。死神の日番谷と言葉を交わし、触れ合えるだけのその霊力の所以も、死神のことを知っているのも。
一護の妹は、ふと視線を窓に投げた。透明なガラスがはめ込まれているはずの窓だが、今は白く濁って外の一切が見えない。
「……今何が起こってるのか、あたしは知らない。親父はいないし、遊子は寝てて起きないし、外にも出られない。……でも戦ってるのは――苦戦してるのは、あんた見たら、わかる」
わけわかんないよ、と一護の妹は握った拳をそばの壁にぶつけた。がつん、と痛そうな音がする。
窓の外を見、霊圧を飛ばして、日番谷はすぐにこの空間が強力な結界に閉ざされた空間だと知った。外界から切り離し、完全に隠し切っている。
だが、そんなことをこの子供が知るはずもない。ずっと混乱と不安を持て余していたのだろう。きっと、今も。
「一兄は、何にも言わない――言ってくれない。だけどいっつもどこかボロボロになって帰ってくる。……今もきっと、どっかで戦ってるんだよね。あんたみたいに、命がけで」
その言葉の端々からは、押さえきれない悔しさが滲んでいた。中途半端にわかるからこそ、わけのわからない現実に翻弄される。この子供は、きっとそんな自分の無力さが許せないのだ。
そしてたぶん、怖いのだろう。
兄と同じ死神という名を冠す日番谷が死に瀕していることが。そうまでせねばならない状況にあるということが、怖いのだ。それは、今にも泣き出しそうな表情から伺える。
だが一護の妹は、泣かなかった。
「……見て」
彼女は壁にぶつけた拳を引いて、日番谷に向けた。力一杯ぶつけられた部分は、少し血が滲んでいる。――しかし、見るべきは、その傷に起こった変化だった。
傷が、見る間に治ってゆく。
日番谷は目を瞠った。それはまるで、井上織姫の使う『事象の拒絶』にも似た現象だった。
「お前がやっているのか?」
だとしたら、とんでもない力だ。そう思ったが、子供は首を横に振った。
「違うよ。あたしは何もしてない。何でこんなことが起こってんのかもわかんない。……でも、ここにいれば、傷はかなり早く治るはずだよ。――現に、これがなかったら、あんたは死んでた」
その傷で、生きてるほうが不思議なんだ。
一護の妹は、淡々とそう言った。子供らしからぬ言葉であるし、所詮子供の言うことだ。だが、日番谷も生きていることに疑問を覚えていたせいもあって、納得できる言葉だった。
「……わかった」
日番谷は頷いて、ゆっくりとベッドに体を横たえた。実際は、体を起こしているだけで息が上がりそうな有様だった。
それを見届けて、一護の妹はどこか安心したように息をついた。それから、横たわった日番谷の包帯だらけの体に布団をかける。
その、気後れなく労わるような動作に、日番谷は少し当惑する。
この子供は、日番谷を死神と知っている。いくら黒崎一護の妹と言えど、人間とは違う存在だと知っているはずなのに。ましてや、今、日番谷の霊圧は限定もされていない。
そういえば傷の手当ても丁寧にしてあった。とんでもない傷だったはずだ。それを処置してくれたその精神力は、並ではない。
「……怖くねえのか」
自由な身動きすらままならぬ傷のために、仰向けに寝たまま、視線を合わせずに呟く。
え、と一護の妹がきょとんとした声を出した。だが、しばらく逡巡するような間があってから、彼女はふと笑った。
「ばか言うなよ。死神でも人間でも、患者は患者だろ。傷も親父の手伝いしてるせいでそこそこ見慣れてるし。……だいたい、怖がってたらあんたが意識ない間の包帯の交換なんかできるわけないでしょ」
あんたの暴れ方凄かったんだから、と一護の妹は苦笑する。
「痛み止めとか、麻酔ができれば楽だったんだろうけど……医者がいないとできなくて、ごめん」
そう言う表情から心から申し訳なく思っているのが読み取れて、また反応に困る。彼女のせいではないだろうに。――だが一護の妹はそれに気づくことなく、日番谷の額に手を乗せた。
「もうちょっと、眠るといいよ。……きっと、大丈夫だから」
彼女は、何が、とは言わずにそう呟いて、日番谷の視界を手のひらでそっと覆った。
暗くなった視界の中で、ただその手のぬくもりを感じながら、日番谷は心の中で嘆息した。
(自分のほうが、不安だろうに)
それでも『大丈夫』を嘘偽りなく口にできるのは、子供ゆえの愚かさか、彼女ゆえの強さか。
何でもいい、ただ大丈夫な気がしてくるから不思議だった。絶望的な状況を知っている。けれど、それでも仲間たちは大丈夫だと、根拠もなく信じられそうな気がする。
一護の妹は、もう一度繰り返した。
「……大丈夫だよ。ピンチになったらヒーローが来るのは、お約束なんだから」
ピンチにならないと来てくれないのが、ケチなんだけど。
そんなことを呟く口調は、自分にも言い聞かせているようにも思えた。
ぼんやりと耳に障らないその声を聞いているうち、気のせいだろうが、痛みが少しずつ軽くなってゆく気がしていた。代わりに、柔らかい眠りが、意識を迎えに来る。
目を覆っていた手が、少し遠慮がちに離れて今度は頬に触れるのがわかった。
それにふと、痛みの中で涙を拭った感触を思い出す。――もしかしてあれは、気のせいではなかったのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、頬を撫でる指の感触が酷く安心できて、日番谷はしばしの休息に瞳を閉じた。
本誌原作捏造でした。
時間軸としては一護が虚圏から現世へ向かってる間。日番谷含む死神たちが藍染にかなりやられたと仮定してます。で、黒崎家は親父か誰かが成した特殊な結界に守られてて、ひっつんは偶然そこに瀕死の状態で斬られた勢いのまま突っ込んだ模様です。(作中で説明しなさい)
とりあえず原作に夏梨が出ない寂しさに耐えかねていつか書いてやろうと思いつつ放置、気づけば本誌で一護が現世に帰ろうとしているではないか! なんてこった急げ! ……と、思って書き出したのに、案外本誌の進みがゆっくりでいてくださったおかげで間に合いました(笑)
「妹」と「死神」という呼び方をさせたかったはずなのに、書き終わってみたら一回も呼んでないっていう……。orz
[2009.11.24 初出 高宮圭]