Vox

番外編

あゆみのなかで

 夏梨の進級が決まったのは、五月の頭。
 五月晴れという言葉の通り、よく晴れた日のことだった。
 進級認定の一報を貰った朝、夏梨はその足で図書館に向かった。その足元には相棒たるロウも軽快な足取りでついて来ている。
 学年を越えてすっかり顔が広まっている夏梨だが、それはいつも一緒にいるロウも同じくだった。当初は外や部屋で待たせていたのだが、無害な可愛らしい子犬は夏梨がいてもいなくても非常に活動的であり、そこらじゅうを探索しては餌にありついて、遊んで貰ってと、ともすれば夏梨以上に周知されているかもしれなかった。
 おかげで院内に(はたから見れば)ペット連れでも何も言われない。教師に注意されたこともあったが、ペット禁止とは定められていないという正論だが屁理屈で押し通した。
 ロウは夏梨の唯一無二の相棒だ。いなくても確かに今は問題ないが、いてくれたほうが心強いに決まっている。何より人探しにロウは非常に役立つのだ。
「ロゥ」
 図書館に入ってしばらく。先に歩いていたロウが知らせるように鳴く。そのままついて行けば、過たず夏梨が図書館に来た目的であるその場まで連れて行ってくれた。
「時任先輩」
 小声で呼びかけると、本に目を落としていたその青年が顔を上げる。そして夏梨とロウを確認すると、あまり表情を動かさずに「よくここがわかったな」と呟いた。
 時任冬春。彼は現院生筆頭の実力者だ。夏梨とは入試以来の知り合いである。
 夏梨はその冬春の眼前に一枚の紙を差し出した。
「進級試験、受かりました」
「そうか。おめでとう」
 紙を受け取り目を通すと、冬春は感情の起伏の感じられない口調で、表情もほとんど動かさずに言う。だがそれは決して嘘ではないことを夏梨は知っていた。彼の表情の変化は非常に、とてつもなくわかりにくいのだ。
「先輩のおかげだよ。ありがとうございました」
 夏梨は心底そう思いながら礼をした。――実は、進級試験を受けたらどうだと持ちかけて来たのは冬春だったのだ。やる気があるなら、座学は見てやるというありがたい条件付きで。
 ここでの座学は現世のようなものではない。その分やりやすいものもあればよくわからないものも多かったりする。かと言ってそこまで総隊長に教わることもできないから、冬春の申し出は非常にありがたいものだった。
 そういうわけでここ二週間ほど、夏梨はみっちり冬春に座学を教えて貰っていたのだ。
 冬春は合格通知を返しながら言う。
「礼を言うのはまだ早い。……また三週間後に五年の進級試験を受けるんだろう」
「うん、受ける」
「その次は六年だ。……お前の場合、座学にさえ付いて来れれば実技に問題はないからな。普通ならば実技だけでも進級できるものなんだが」
「……山じいが許してくれないんだよねえ。あたしだけ」
「それだけ期待されているということだろう。心配せずとも、上がれば上がるほど新たに覚える量は減っていく。応用になるからな」
 ところで、と冬春は開いたままだった本を閉じながら夏梨に訊ねる。
「わざわざ、礼を言いに来たのか?」
 律儀な、と言いたげなそれに夏梨は頷いた。
「ちゃんと礼は言う主義なんだ。ついでに、次も宜しくってのもあるけどさ。あとね、真夜姉に聞いたんだけど」
 言いかけて、ふと夏梨は周りを見た。ここは図書館だ。長話には向かない。そう判断して、出てもいいかと冬春に訊くと、構わないと返って来たので、二人はひとまず図書館を出た。
 外に出ると、五月らしい清々しい空気が感じられて、思わず体を伸ばしたくなる。その欲求に従って空気を吸いながら思い切り伸びをすると、隣で冬春がごくわずかに笑った気配がした。
「……それで、話というのは?」
 訊ねられて、夏梨は答える代わりにひょいと冬春の顔の前に手のひらを突き出した。その上には、赤くて丸いものが乗っている。
「……りんご?」
 夏梨の手のひらの上にあるそれを見て、冬春は少し目を見開いた。
「先輩、明日誕生日だろ?」
 五月七日、と自分の誕生日の日付を口にされて、冬春はようやく思い至った様子で頷き、それから不思議そうな目で夏梨を見る。
「なぜ……」
「ナツルが言ってた」
 ナツルの名前を出すと、途端に無表情が微妙に険しくなったような気がする。だが構わず夏梨は続けた。
「りんご、好き?」
「ああ……聞いたのではないのか?」
「それはなんとなく。ナツルがりんご見ながら誕生日のこと言ってたから」
 すると冬春はしばらく黙ってりんごを見つめ、ため息をついた。
「どうでもいいことばかり覚えているな、あいつは」
 その呟きを、夏梨は聞こえなかったふりをした。やはり何かあったのだろうと以前から察しているが、まだ訊くつもりはない。どうしても気になるまで、黙っておくつもりだ。
「明日は会えそうにないからさ、今日渡しとこうと思って。誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
 夏梨の言祝ぎに、わかりやすく冬春が笑った。いつもの無感情そうな無表情はどこへやら、そういう顔もできるんじゃないかと思わず感心しそうになる。
 だがそれもわずかな間で、冬春はすぐもとの無表情に戻ってしまった。
 少しそれが残念だったが、口にはせずに「用はそれだけ」と伝える。そしてそのまま去ろうとすれば、冬春に呼び止められた。
「チビクロ。お前の好きな果物はなんだ?」
「え?」
「六年進級の試験に合格したら、祝おう。三つまで言え」
 それはどうやら、だから頑張れ、ということらしい。この間真夜が冬春は頑張っている者には優しい、と言っていたが、こういうところがそうなのかもしれないと思う。
 夏梨は迷うことなく答えた。

「苺と柚子と蜜柑!」



 後日談として、晴れて六年になった夏梨は、季節もばらばらな三つの果物で祝われた。真夜が「何なの、そのチョイス」と微妙な顔をしたが、気にしなかった。
 ちなみに、冬春たちが夏梨の誕生日を知って「早く言え」と怒るのは、丸々一年後の話になる。

冬春の誕生日:5月7日。夏梨の誕生日:5月6日。
夏梨は訊かれたら言うけど訊かれなきゃ言わない子だと思ってます。なにごとも。
……でも当日にちゃんと祝えた人も一名だけいるようです。誰かは、そのうち同じく番外で(笑)
ちなみに18〜19話の間の話。
[2010.09.06 初出 高宮圭]