寒蝉が鳴いている。もうすぐ、夏も終わりだ。
例年ならば、夏梨はいつもその鳴き声に耳を傾けていた。短くなる日を惜しんで、暮れるまで遊び倒していたはずだ。
けれどこの夏ばかりは、違う音に耳を傾けていなければならなかった。
一日で最も気温が高くなる昼頃。丁度よくある木陰に腰掛けて、夏梨は弁当を食べていた。
夏梨は昼を食べ終わり、タイミングよく差し出された竹筒をありがたく受け取って、冷たい水で喉を潤す。
「おいしかった、ですか?」
おそるおそる、けれどとても期待を孕んだ問いかけが隣から降って、夏梨はこくりと頷いた。
「うん、今日もおいしかった。ありがとね、すみれ」
「い、いえ! 私は、ただ、やりたくてやってるだけで……。夏梨さんとこうやってお昼を一緒にできるだけでも、嬉しくて」
すみれと呼ばれた少女は肩の前に流した二つのお下げを揺らして至極幸せそうに笑い、夏梨の食べ終えた弁当をぱたぱたと片付ける。いつも自分でやると夏梨は言うのだが、すみれがやると言って聞かないのだ。
彼女は、丹銘(たんめい)すみれと言う。現役の霊術院生一年で、最近夏梨によく弁当を作ってくれる人だ。
というのも、死神として仮入隊を果たした夏梨たちは一応全隊所属の補充要員という名目ではあるが、ナツルの言葉通り、『全隊共通ナンデモ雑用係』となってしまっているのが現状である。そのため、決まった時間に休憩が取れないこともしばしばで、うっかりすると昼食などを食べ逃しがちなのだ。
それを知ったすみれが、決まって昼休みに手作りの弁当持参で夏梨の元にやって来るようになったのはここ最近のことだった。一応正規の昼休みではあるので、やって来られては仕事をさせていた隊員も休むなとは言えない。そんなこんなで、夏梨は最近きちんとした昼食にありつけている。
いつも同じところにいるわけでもないのに毎日現れるものだから、すみれが来ると「来たぞ、弁当」などと言われるようになりつつあった。
「……にしても、あんたもマメだよね。まだあのこと、気にしてるの?」
夏梨が首を傾げると、すみれは突然声を張って切り返した。
「まだ、なんて……私は一生、あのご恩は忘れません!!」
「大げさだなあ……もうお礼なら十分なのに」
「いいえ!! 十分なんてそんなの、そんなことないんですっ!」
すみれは基本的に大人しくて礼儀正しい。けれどこだわることにはこだわり尽くすようだ、と夏梨は見ている。
夏梨より年上なのに敬語なのも、さん付けなのも、お弁当も。全ては、とある二つの事件が根底にあった。
一つ、霊術院の入院ノ試しのときのこと。夏梨はドジをして転んだすみれを助けた。
二つ、巨大なひずみが院に現れたときのこと。夏梨は恐怖にすくんだすみれを穿界門に放り込み、断界で手を引いた。
一度ならず二度までも助けられたのです、と深々と頭を下げて礼を言われたときは、夏梨は正直どちらの記憶も薄くてどうしようかと思ったものだ。こんなに恩に着られるなんて思いもよらない。
しかも彼女はどうやら夏梨をだいぶ美化して憧憬の念を抱いているようで、少々困ったりするときがある。
ついでにやっかいな認識がもう一つ。
「チービちゃん、暇だね!」
がさ、と音がしたと思えばひょっこり茂みの後ろから現れた顔見知りに、夏梨は我知らずため息をついた。同時にすみれが途端に冷え切った声音で現れた人物に言う。
「夏梨さんは現在一切暇じゃありません。即時帰還してください御堂筆頭」
「わー、何か今日もうるさいのがいる。ねえ、さっき通りすがりの浮竹隊長に甘味貰ったんだけど、食べない?」
「ちょっと、私と夏梨さんの間に割り込まないでくれません!?」
「うるさいな。だいたい、君が余計なことするから食堂でチビちゃんがご飯食べなくなっちゃってるんだよ。非常に邪魔だね、今もいつでも」
「あーもう、やめてよ二人とも。ナツルもちょっとは遠慮しろ」
せっかくの休憩なんだからと夏梨がため息をつけば、すみれはすぐ小さくなって「すみません、つい」と言うが、ナツルに向ける視線は相も変わらず敵意が剥き出しである。
そう、やっかいな認識とはこれのことだ。すみれはやたらナツルを敵視している。
ナツルが夏梨に構って来るのはいつものこととして(これでも夏梨が院生のときよりは格段に減った)、それをすみれはよしとしないのだ。ナツル曰く、夏梨と二人がいいんだろうとのことだったが、そんなにこだわることでもないだろうと夏梨は思ったりする。
だがまあ、すみれがナツルを私怨じみたそれで目の敵にする要因は察せられなくもない。
そしてナツルは今日も今日とて、それを口にした。
「はい、じゃあ丹銘すみれ。筆頭権限に置いてこの場から今すぐ立ち去ることを命じる。以上」
「ちょ……っ!! またですか!? いい加減にしてくださいよ、御堂筆頭ッ!! 職権乱用も甚だしい、元筆頭に訴えますからね!」
「ご自由にどうぞ? 僕は今、君がいなくなればそれでいいから」
にっこり笑ってナツルはすみれに毒を吐く。性格がひん曲がってるなと思うのはこんなときだ。ナツルはいつもこうしてすみれを追い払うのである。
すみれは育ちが良く基本的に礼儀正しい。ただし好きなものに対しては熱が上がるとやたら盲目的になるという重大な欠点も持ち合わせているが、理性が残っている限りは秩序を守るのだ。だからこそ、院生筆頭という立場にいるナツルの命令には強く逆らえない。
それを知った上で、ナツルはすみれに命令している。
夏梨はため息をついて、気にしなくていいと口を開こうとした。だがすかさず器用に甘味を口に突っ込まれて息を詰めてしまう。言わずもがな、ナツルの仕業だ。
呆れた視線をナツルに向ければ、ナツルは悪びれた様子もなく、渋々立ち上がったすみれにぱたぱたと手を振っている。
「……言っておきますけど、夏梨さんは御堂筆頭のものじゃありませんからね」
「君のものでもないけどねえ」
「……ッ、失礼しますっ!!」
すみれは憤りもあらわにしながらも、きちんと頭を下げてからぱたぱたと駆け去った。その辺りは育ちの良さを垣間見れる。
それを甘味(どうやら羊羹だ)をもぐもぐとしながら見送るはめになった夏梨は、少々気の毒な気もしながら、半分はほっとしていた。どうにもすみれは苦手なのだ。ああも憧れられるようなことはしていないと思う。
「あ、この羊羹おいしいねえ」
「……で、あんたは何しに来たわけ」
のんびり羊羹を頬張るナツルに羊羹を飲み下してから切り出すと、ナツルはやはり食えない笑みを浮かべて「わかってて訊いてるでしょ」と言う。まあ確かに、見当はついているのだが。
「『夏祭り』についてね、今日から本格的に合同練習、始めることにしたから。参加してね」
「正式に召喚されてません」
「今からしますー。冬春と同じこと言わないでよ」
どこか拗ねたように言って、ナツルはごそごそと細長い三枚の板の綴りを取り出す。板にはそれぞれ小さな鈴と組紐が短い尻尾のごとく付いていて、ナツルはそのうち一本の紐を引いた。するとそれまで微塵も音を立てなかった鈴がリンリンと鳴る。
それと同時に、カラカラカラ、と下駄を鳴らすような乾いた音が耳に届いて、夏梨は自分の腰にぶら下がったひし形の板綴りを見る。すると今まで『空』と書かれていた板がくるくると勝手に回って、『院』と書かれた板に代わった。
「……黒崎夏梨、霊術院に召喚されました」
「はーい。院生筆頭御堂ナツル、確認しました」
定められた文言を言えばナツルも定められた文言で返す。
これで、午後からの夏梨の行動は少なくとも三時間は決定した。
夏梨が常に気に留めていなければならない音とは、この十五枚の板が綴られた『召喚証』の音のことだ。
腰にさがっている十五枚の板綴りは薄く軽く、動いても全く音を鳴らさない。けれど仕事を知らせるときにだけ、今のようにカラカラと音を立てて板は勝手に回り、仕事のある隊もしくは霊術院を示す。
これは全隊に共通して所属する夏梨・冬春・真夜の三名にのみ渡されており、三人はこれに従って呼ばれた隊に行き、任務を行うのだ。
呼ぶほうの板は『呼び鈴』と称され、三人の名がそれぞれ書かれた細長い板についた紐を引くことで呼ぶことができる。
呼び鈴はそれぞれの隊の隊長もしくは副隊長、あるいは席官に渡されている。霊術院にも所属しているため、うち一つを筆頭たるナツルが持っているというわけだ。
ちなみに召喚証は休憩中など、仕事がないときは『空』となり、護廷十三隊と霊術院、合わせて十五枚となるわけである。
「真夜姉と冬春は?」
「召喚済み。明日の昼からの予約は入ってる?」
「待って、確認する。……ん、大丈夫だよ。そろそろ忙しいのも落ち着いたし、明後日の遠征終わったらしばらく呼ばれることもないんじゃないかな」
予定の確認を終えて伝令神機をしまいつつ、夏梨は若干の願望も混ぜてそう口にした。
原則として、補充要員は一度呼ばれると最低三時間はそこで任務をする。その間は他から呼ぶことはできず、三時間経過後に呼ばれた場合は他へ行く。
だが予約も可能で、予約の場合は最長で三日ひとつの場所に留まることができる。つまり三日以内ならば好きなだけこき使えるわけで、主に遠征に行くときなどに行使される。
多忙極まりない時期には予約をやたらめった入れられて文字通り目が回る思いだった。これは夏梨のみならず、冬春や真夜たちもである。
まだ補充要員となってから約ひと月ほどだが、冬から長期に渡って続いた慌しさは、夏の終わりを目前にしてようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
「だったら、僕も嬉しいんだけどなー」
などとナツルは楽しげに笑う。遊ぶために呼ばれるんじゃないぞと釘を刺せば、わかっているのかいないのか、微妙な返事が返って来た。
例外として、霊術院に召喚された場合は最長の制限がない。仕事がない場合は勉強に励めと、そういうことらしかった。
「チビちゃん、最後の一切れあげる」
「じゃあ貰う。……ところでナツル」
羊羹も残り一切れとなって、それを夏梨はかじりながら、ナツルを横目に見た。するときょとんとした目と視線が合う。なんとなく気まずくなって上にずらすと、ナツルの癖のある茶髪が視界の中央に来た。そういえば、院生筆頭となってから髪型を変えて、首の後ろでくくっていたのを今の夏梨と同じくポニーテールでまとめている。
「いい加減それやめない?」
「何が?」
「その『チビちゃん』ていうの」
名前知らないわけでもなし、と結局周りの景色に視線を逃がしながら言えば、「ああ」と言われて初めて思い至ったと言うような声がした。
「名前呼んでほしいの?」
「いや別に」
「……即答しなくても」
「あんたが聞いたんでしょ。呼び方なんてどうでもいいし」
ただ、と夏梨は淡白に続ける。
「あたしはちゃんと呼んでるのに、そっちが呼ばないのは気に食わない」
するとしばらくの間があった。その間に夏梨は残りの羊羹を口に放り込んでのんびり租借する。
ナツルが口を開いたのは、羊羹を飲み下した頃だった。
「……ねえチビちゃん、それもしかしなくても冬春に言った?」
「え? ああ、うん」
冬春も最近まで夏梨のことを『チビクロ』と呼んでいた。だが今はきちんと名前で呼ぶようになっている。
「さすがにもう覚えてるでしょって言ったら、『いつ変えるべきかわからなかった』だって。冬春らしいよね」
生真面目な冬春は、意外なことに人の名前を覚えることがとことん苦手だ。だが代わりに一度覚えると決して間違えない正確さを誇るという。
「なるほどねえ。じゃあ僕呼ばない」
「……は?」
にこにこといつもの笑みを浮かべたナツルは、明るく言い切った。夏梨は思わずナツルの顔を凝視する。
「冬春とお揃いなんて、ご免被るよ」
「お揃いって、あんた……。冬春とは仲直りしたでしょ!?」
「だってつまらないよ。僕は僕の理由で変える。というわけでそろそろ行こうか、チビちゃん」
「ちょっと、ナツルっ」
立ち上がってすたすたと歩き出したナツルを慌てて追う。追いつくと何でもなかったような顔で「そういえばロウは?」と訊かれて、夏梨は本気でナツルが言っていることを悟った。
ナツルはこういうところで妙に頑固だ。それを今までの付き合いで理解していたから、夏梨はひとつため息をついただけで、それ以上を口にはしなかった。
「ロウなら十二番隊に取られたけど」
「……え、それ大丈夫なの?」
「ま、大丈夫なんじゃない? ネムさんに頼んであるから。菓子折りつきで」
「チビちゃん、なかなか上手くなったよねえ。世渡り」
くすくす笑いながらナツルが言うのに、夏梨は代わらぬ淡白さで答えた。
「ま、誰かさんに教えてもらったからね」
丹銘すみれ*たんめい=オリジナルキャラ
召喚証*しょうかんしょう/呼び鈴*よびりん=オリジナル設定
本来は31話冒頭に組み込むつもりが、冒頭だけでとんでもなく長くなったので番外になりました。
本編に濃く繋がるからちゃんと入れたかったんだけども。ちなみにすみれは初期からずっといて決まってたんですが、今回ようやく名前出せました。満足←
[2010.11.21 初出 高宮圭]