One day First

by episode132

前編

 ざりざりと乾いた音がする。靴をアスファルトに擦りつけるように足を引きずって、のろのろと歩く。
 平和が憎いなんて、そんな大それた図々しいことは思いもしない。
 仰いだ先の空にあるのは、突き抜けるような青と、混じりけのない白い雲の平和な二色。
 誰が見ても気持ちの良い天気だと言うに違いないそれが、今の夏梨には鬱陶しいものでしかなかった。
(一兄)
 夏梨の兄、黒崎一護が唐突に姿を消してから、もうかなりの日数が経つ。
 高校生は親に言えないくらいの青春をすべきだと言って憚らない父親は、学校を無断欠席、無断外泊――軽く行方不明の息子の現状について何も言わない。能天気に見えて何気に聡い父親のこと、何か感づいてはいるのだろうが、夏梨はそれについて問いただす術を持ってはいなかった。
 ――教えてよ、一兄の悩み。
 そう兄に問うたのが、ずいぶん前のことに思える。
 ――あたし、知ってるんだ。一兄が、死神だってこと!
 夏梨が叫んだ直後、一護はあの『虚』と呼ばれる気配に感づいて、飛び出して行った。あの黒い着物をまとい、抜け殻と化した体を残して、行った。
(一兄は、きっと今もどこかで)
 あの化け物と命がけで戦って、そうして守ってくれているのだろうか。
 夏梨たちの知らない、どこかで。
「――くっそお!」
 毒づいて、肩に背負っていたネットに入ったサッカーボールを道に叩きつける。
 ただ無性に悔しかった。何も知らないままに守られる自分が、たまらなく腹立たしい。
 叩きつけるだけでは収まらず、そのままボールを蹴り飛ばす。
 ネットに入ったそれは、だが夏梨の予想に反して、勢いづいてネットを飛び出した。
「あっ」
 まずいと思った頃にはボールはアスファルトが敷かれた道の横の土手を、下の道路めがけて転げてゆく。
 夏梨は慌ててその後を追った。途中までは整備された階段を使っていたが、まどろっこしくなって手すりを飛び越えて土手を下る。
 けれど加速したボールには追いつけず、ボールが車の行き交う道路に出た。
「やべ……」
 半分忘れかけていたが、これから夏梨は友人たちとのサッカーの練習に行くところなのだ。ボールは夏梨持ちであるから、まさかボールを失うわけにはいかない。
 だが、ボールは歩道を越えて車道に出るところで、その動きを止められた。
 はたとして、夏梨は足を止める。
 偶然通りかかったらしいその少年は、足でボールを止めると、器用にそのまま手元へと落とした。
 その動作を眺めつつ、夏梨は何より、少年の容姿に目を奪われた。
(銀髪……)
 年の頃は、夏梨と似たり寄ったりで、小学生だろう。けれどその髪の色は、夏梨と正反対と言ってよかった。そして、ボールに次いで向けられた鋭い緑の瞳が、ひどく印象的だった。
 けれど不思議なことに、異質だとは感じなかった。えも言われぬ不可思議な感覚を感じこそすれ、それは決して嫌なものではない。
「……お前のか?」
「え、あ……うん」
 話しかけられて我に返り、頷く。常に眉間に皺が寄っているのが、無性に兄を連想させた。
「危ねえだろ、気をつけろ」
 銀髪の少年はそう言うと、慣れた様子でボールを蹴り上げ、ちょうど夏梨の手元に収めた。思わずその動きを追った夏梨は、拾ってくれた礼を言おうと顔を上げる。
「あれ?」
 しかしたったさっきまでいたはずの少年は、そこにはいなかった。辺りを見渡しても、それらしい姿はない。
 夏梨が目を離したのは、わずか数秒だ。どんなに足が速くとも、まさかその間に隠れる場所のない道路で姿を消すのは不可能だ。
「……ま、いいか」
 考え込む一歩手前で、夏梨はそれを放棄した。
 もともと幽霊が見えるという特異な体質に生まれたせいで、多少の不思議には耐性ができている。
(また会ったときに、お礼言うか)
 そう思考をまとめて、夏梨は待ち合わせの場所に向かってまた歩き出す。
 何の根拠も意識すらなく、あの少年にまた会うことを確信していたことに、夏梨は違和感さえ覚えなかった。



***



「どうすんだよお、黒崎〜……」
 情けない声を出すのは、夏梨のサッカー仲間の男子たちだ。
 おしとやかで女の子らしい双子の姉である遊子とは正反対に男勝りな性格の夏梨は、もっぱら男友達との付き合いが多い。今日も今日とて同学年の男友達四人とサッカーの練習をした。――と言うよりは、しようとしていた。
「何情けない声出してんだよ、勝てばいいんだろ、勝てば」
「だって、負けたら鼻からスパゲティだぜ?」
「無理だよ、だって相手中学生だしさあ……」
 夏梨の台詞に返される情けない声に、ため息をつく。
 今日、夏梨たちはとあるサッカーコートを正規に予約し、使用する予定だった。しっかりしたコートだけに予約制が取られているのだが、さすがにその交代を見張るまでのことはない。それをいいことに、夏梨たちの前にコートを使っていた中学生たちが、時間を過ぎてもコートを譲らなかったのだ。
 理由は曰く、「小学生のくせに生意気に予約しやがって」とのことだった。
 もちろん、これに黙っていられる夏梨ではない。兄も似た性質を持っているが、基本的に売られた喧嘩は買う性質なのだ。
 結局、口には自信がある夏梨が中学生相手に散々言い合った挙句、来週の土曜に試合をして、勝敗を決することになったのである。
「黒崎があんな勝負受けたりするから……」
「なんだよ、お前らあんなに言われてそのままでいいのかよ」
 帰り道を辿りながら、夏梨は眉をひそめて言い返す。
 しかし既に敗戦ムードの漂う男子たちには何を言っても効果がない。
 すると一人が、起死回生の策を思いついたとばかりに声を上げた。
「なあ、黒崎の兄ちゃんに助っ人入ってもらうってどうだ!?」
 男子四人の先頭を歩いていた夏梨は、それに固まるように足を止める。けれどその様子に気づかぬ男子たちは、その提案に色めき立った。
「そっか……そうだよ、相手中学生なんだから、小学生の助っ人に高校生いたっていいよな!」
「なあ、黒崎、頼んでくれよ!」
 そう勢い込んで言われた言葉から、夏梨は逃げるように目を逸らした。
 ――浮かぶのは、死神として大きな刀を背負って行く兄の後ろ姿ばかりだ。
(今も、)
 それを思えば、まさかこんなことは頼めない。それ以前に兄が今どこにいるかすらわからないのだ。
 夏梨は力なく、首を横に振った。
「……ごめん、うちの兄貴、今旅行に出ててさ。いつ帰ってくるかわからないんだ」
「えええ!!」
 すると揃って絶望的な声を上げた男子たちに、また敗戦ムードが戻る。
 慌てて夏梨は言葉を足した。
「そんな顔すんなよ、他にサッカー上手い助っ人いないか、あたしも探してみるからさ」
「他って、誰かいるのかよ」
「……たぶんいるよ!」
 半ば投げやりに言ってのんきにカラスの鳴く夕暮れ空の下をまた歩き出す。
 しばらく歩くと、町を一望できる道沿いに出た。ずっと続く白いガードレールの先にある人影を見つけて、ふと夏梨は目を凝らす。
 ガードレールの甲斐もなく、その外側に出て、もたれ掛かった体勢で携帯をいじる銀髪の少年には、間違いなく既視感があった。
(あいつ、昼間の……)
 確信すると同時に走り出す。背後で友人が呼び止めるのも構わなかった。
 そばに辿りつくまでに、そう時間はかからなかった。足音に気づいた銀髪の少年が、顔を上げる。そこに見えた明らかに面倒くさそうな色を、夏梨は全く無視した。
「あんた、ボール拾ってくれただろ」
「……ああ」
 思い出したらしい。またすぐに携帯に視線を戻してしまう。
「ありがとな」
 構わずに礼を言う。きちんと礼を言えなかったことは、夏梨の中で引っかかっていたのだ。
「どういたしまして」
 いかにもおざなりに返事を返されたが、やはり構わない。
 面倒そうにしているが、きちんと返事をしてくれる。兄に似たその応答が、気に入った。だが次の質問で、少年はあっさりこちらを向いた。
「ねえ、あんた、どこの学校の子?」
「ああ!?」
 明らかに不本意そうなその声に、夏梨はきょとんとする。
「どこの学校でもねえよ! 俺は忙しいんだ、あっち行ってろ!」
 どうにも年上じみた言い方をするが、どう見ても同じ小学生にしか見えない。よって、その発言も無視することにした。
「あんた、サッカーできるだろ」
「……さあな」
「今度、フットサルの試合があるんだ。一緒にやらねーか?」
 それは純粋な興味だった。ボールを拾ってもらったときの足さばきに、夏梨は密かに感心していたのだ。
 だがこれに一番反応したのは、後から追いついてきた男子たちだった。
「ちょ、ちょっと待てよ黒崎!」
 思い切り腕を引かれて、銀髪の少年から離れた輪の中に連れ戻される。
「何だよ?」
「何だよじゃねえよ、何考えてんだよ! あんなの助っ人なんかなるわけないだろ!」
「そうだよ、銀髪だし……染めてるぜ、あれ絶対」
「変な雰囲気あるし、目つき悪いしさあ」
「……だから、何?」
 髪の色が、まとう雰囲気が。
 そういうもので人を判断しようとする奴らが、夏梨は嫌いだ。容姿が何だ、雰囲気が、目つきが。生まれ持ったそれに文句など、誰もつけようがないというのに。
「くだらねえだろ、そんなの」
 ――けれど、もし。もし、この友人たちが夏梨の体質を知ったなら、果たして同じように言うのだろうか。
 そんな考えが頭を掠めて、慌てて振り払う。チームメイトを疑うなんてことは、したくない。
 男子たちは悪意なく続ける。
「だって、それに、チビだしさ」
「誰がドチビだ、こら!」
 向こうから少年が吠える。意外にも少年まで聞こえたらしい。それとも「チビ」の単語に敏感なのか。
「ドチビとまでは言ってないよ」
 夏梨が苦笑しつつ振り向くと、どうやら気分を害したらしい。銀髪が遠ざかって行くところだった。
「おい、待てよ!」
 夏梨が呼びかけても、何の反応も返さない。
「……それなら!」
 安くあきらめるにはもったいない。それに未だ気にかかった不可思議な雰囲気は、そのまま引っかかっている。
 それらをひっくるめて、夏梨は肩にあったサッカーボールをネットから落としざまに思い切り蹴った。シュートには自信がある。
 銀髪の後頭部目がけて勢い良く飛んだボールは、一瞬ののち、それ以上のスピードで、夏梨のそばを通り抜けた。
「へ……」
 男子たちがいっそ青くなって言葉を失っている。一人は顔面にボールを受けてノックアウトだ。
 それを気にした様子もなく、少年は何食わぬ顔で、すたりと地面に降り立った。――というのも、彼は飛んできたボールを空中で背中から回り、蹴り返したのだ。
「――よっしゃあ!」
 男子たちがまだ固まっている中で、しかし夏梨はガッツポーズを決めた。なぜなら狙い通り、彼はずば抜けて良いプレーヤーだというのが証明されたからだ。
 案の定、男子たちはすぐにすごいすごいと色めき立って、少年に群がる。
「なあお前すごいな! ほんとに小学生かよ!」
「助っ人なってくれよー!」
「お前名前は!?」
 矢継ぎ早に飛ばされる言葉に、少年は半分困惑した表情を見せつつ、勢いに押されて渋々名乗る。
「……日番谷だ。日番谷冬獅郎」
 男子たちの後方で名乗りを聞いた夏梨は、これはまたえらく古風だと思ったが、口には出さなかった。――それよりも気になることがあったのだ。
(……まただ、この変な感じ)
 風が妙な動きを見せ、鳥が静まり、そして嫌なそれを感じる。気配、と呼ぶのだろうか。近頃頻繁に感じるそれが、今感ぜられた。これを感じたときは必ず、あの『虚』というものが出る。
 東の空の方だ。ここからはそう遠くない。
 鳥肌が立つ。恐怖というより、それは嫌悪だった。
(一兄が、戦っているもの)
 あれたちのせいで、兄は帰ってこないのだろうか。今このときに、戦っているのだろうか。そればかりが思考を占めて、夏梨は冬獅郎の視線が自分に向けられていることに、全く気がつかなかった。



***



 ピルルル、と電子音が耳をつく。ポケットに突っ込んだままだった伝令神機――こちらでは携帯電話と言うものに酷似したそれには、虚出現の指令が送られてくる。
 名前を教えた途端に呼び捨てで名前を連呼する子供たちを無視して、冬獅郎は指令を開いた。
(デミクラスか……ここから東に二霊里程度)
 指令にざっと目を通し、閉じる。まだうるさい子供たちは無視したままだ。外見は近けれど、実際の歳では桁が違う。
 どうやら、現世に駐在する死神の中で今一番近くにいるのは日番谷のようだ。となれば、これ以上子供などに構っていられない。
 だが、顔を上げたところで、ふと子供の中の一人の様子がおかしいことに気づいた。
(あの女……)
 冬獅郎に容赦ないボールを見舞った女の子供だった。あれだけ最初は言って来ていたくせに、今はどこか違う場所――東の空を険しい表情で睨んでいる。
 奇しくもそちらは、現在虚がいるところだ。
(まさか、あいつ……)
 だが考察する前に、急かすようにまた電子音が鳴る。舌打ちをして、冬獅郎は踵を返した。
「あ、冬獅郎!」
 子供の声が追ってくる。どいつもこいつも何も言わないのをいいことに勝手に呼び捨てだ。だがまさか隊長だ、などと言えないために仕方なく黙認する。
 女の声はしない。ちらりと見ると、何か言いたげな表情でこちらを見ていた。
「急用だ。悪いな、力になれなくて!」
 だがまだ声は追ってきた。毎日高台の公園で練習をしているから、明日から来いというものだった。
(誰が行くか)

 何だって好き好んで小学生の助っ人をしなければいけない、と思いつつ、とりあえず練習と試合の場所だけは記憶に残った。


[2010.07.25 初出 高宮圭]