One day First

by episode132

中編

 翌日の夕方は、昨日と同じくよく晴れていて、夕日がとても綺麗だった。
 しかしそれも見ずに、夏梨は昨日と同じ場所を目指して走っている。理由は簡単だ。
 今日、練習場所に冬獅郎が来なかった。行くという確約も得ていないが、行かないとも聞いていない。となれば、冬獅郎には来る義務がある。少なくとも夏梨はそう考えた。
 そういうわけで、一人冬獅郎を探してここまで来たのだ。昨日彼がいた、あの道に。
「あ」
 夏梨の予想通り、彼はそこにいた。夕日で赤々と照らされた道で、ガードレールにもたれ掛かって携帯をいじっている。
(やっぱりここにいたか)
 何となく、冬獅郎は同じ場所にいるのではと思っていた。
「冬獅郎!」
 名前を呼んで駆け寄る。走りっぱなしだったから息が上がった。すると冬獅郎は相変わらず携帯をいじったまま、けれど軽く息が整うのを待つような間をおいて、「またお前か」と呟く。
「……なんで、練習来ないんだよ」
「俺はやるとは言ってねえよ。大体そんなに暇じゃねえ」
「小学生のくせに、何が忙しいんだよ」
「うるせえよ」
 にべもなく跳ね除けられる。けれど、腹は立たなかった。
「ねえ、なんであんた、ここに来るの? 家近いの?」
「別に」
 一言で切られる。けれど、そのまま黙っていると、冬獅郎は軽くため息をついて続けた。
「……ここが一番よく、空が見渡せるからな」
 その言葉はとても優しい響きを持っていた。大切な記憶をなぞるように、冬獅郎は夕暮れの空を見渡す。
「懐かしいんだ」
 そう締め括られた言葉に、夏梨は軽く相槌を打って、それからその言いようがあまりに年齢に似つかわしくないことに気づいた。
「……懐かしいって、いくつだお前……」

***

「てめえには関係ねえだろ」
 少女の質問に、冬獅郎は至極適当に答えた。
 言ったところで信用などしないだろうし、言えるはずもない。
 そろそろ帰るかと決めて、ガードレールをまたいで少女の立つ道路側に下りた。そのまま歩き出す。
 ピルルル、と電子音が鳴ったのは、ちょうどそのときだった。
 またも、虚出現の指令だ。だが冬獅郎が急いで駆け出そうとしたとき、不意に腕を引かれた。
「そっち行っちゃだめだ!」
「な……」
 思わず目を見開いて、引き止めた少女を見た。一瞬、単純に引き止めるためだけの行動かと思って振りほどきかけたが、子供の戯れにしては似つかわしくないほどの表情と強い力に、それをためらう。
 冬獅郎が足を止めると、少女は慌てて取り繕うように手を離した。
「あ……いや、その、そっちは何か、嫌な感じがするからさ」
 視線をあらぬ方向に飛ばしながら、言いにくそうに少女は言う。
 少女が行くなと言ったのは、虚が出現した方向だ。
(……まさか、わかるのか?)
 そういえば昨日も虚が出現したとき、この少女はそちらの方向を睨んでいた。それに思い当たって、眉をひそめる。
 虚を見るには、相応の力が必要だ。増してや姿の見えぬ虚の気配を感ずるには、相当の素質がなければ、ただの人間には不可能なことである。
(それがあるのか、こいつに)
 だとすれば、己とは違い、見た目相応の年数しか生きていない子供には、あまりにも過ぎた、危険な力だ。高い霊力を持つ者は、それだけ虚に狙われやすい。
 だとすれば、一人で置いていくのは危険か。思いかけた頃に、また電子音がした。
 見ると、どうやら他の誰かが倒したらしい。指令が消えていた。
「……あ」
 かすかに漏れたその声に視線を上げれば、少女はどこか安堵した面持ちで息をついていた。やはり、消えたことにも気づいたらしい。
(……やっかいなほど、強いな)
 下手をすれば、一応死神として名を連ねる下っ端の隊士たちよりも素質がある。
「冬獅郎?」
「……早く帰れ」
 言うなり、冬獅郎は背を向けて歩き出した。留まれば、彼女もまた留まるだろうことが何とはなくわ
かっていた。
「あ、おい! ……明日は、来いよな!」
 性懲りもなくかけられた言葉に、さあなと返して歩き行く。
 しばらく行ったところで角を曲がり、念のために気配を消してから、先程の道が見下ろせる高台へ跳躍した。
 少女はまだ、そこにいた。先刻の冬獅郎と同じように、沈み行く夕日を眺めている。
 その表情はやはり歳不相応にどこか切実で、ひどく痛そうなそれを浮かべている。それから、彼女は一度俯いた。
 懐かしい記憶にある幼なじみの少女とその動作が被り、冬獅郎は確信を持って、今から泣くな、と思う。
 ――だがその確信は、すぐに否定された。
 視線の先にいた少女は、泣く素振りなど何も見せずに、ただ顔を上げて走り出したのだ。意表を衝かれた冬獅郎が驚いている間に、何かを振り切るように、どんどんと加速していく。
 やがてその姿が見えなくなるまで見送ってから、冬獅郎は軽く息をついた。
(……どいつもこいつも、思い詰めた表情ばっかしやがって)
 別に、冬獅郎にあの子供を気にかけてやる義理などない。
 けれど、薄くとも縁のできた者を捨て置くことができないというのは、昔からの彼の性分だった。



***



「たーいちょっ」
 かけられたのんきな声に、即座に面倒臭いことになったと感じたのは、今の冬獅郎の行動が、いかにも彼女が好きそうな状況にあったからだ。
「松本……」
「何してるんですかぁ? こんなとこで」
 唐突に現れたのは、冬獅郎の部下である松本乱菊だ。元はと言えば、副隊長である彼女が現世にどうしても行くと言って聞かなかったために、冬獅郎が引率を引き受けることとなったわけであるから、現在の苦労の元凶であると言って良いだろう。
 だがそれを今更言ったところで仕方がない。ため息を飲み込みつつ、「ちょっと気になることがあってな」と返す。
「気になること?」
 乱菊はきょとんとして冬獅郎の視線の先を追う。今冬獅郎は屋根の上にいたために、自然、その下にある公園を見ることになった。そこにはもっぱら小学生やそれ以下の子供たちが平和に遊び回る光景があり、彼が何を見ているか、一瞬乱菊にはわかりかねた。だが注意深く冬獅郎の視線を追えば、その先に一人の小学生の少女がいることが判明する。
「……ええ!? 隊長ってば、現世の女の子に興味あるんですか?」
 冗談めかして言ったが、実際意外だった。こちらに来た折に、現世の者と関わるなと言い置いたのは彼である。
「違う」
「照れなくてもいいですよぉ」
「違うって言ってんだろうが! もういい!」
 噛み付くように言い返して、冬獅郎は不機嫌そうにその場を去った。彼がこの手の話を嫌うのは乱菊も承知しているが、楽しいのだから仕方がない。
 しばらく冬獅郎の背中を見送っていた乱菊だったが、ふと視線を公園に戻して、冬獅郎の見ていた少女を見た。
 ざっくりと切り揃えた黒髪と、喋り方を聞いていれば、男勝りな性格だとすぐにわかる。口でならば冬獅郎と渡り合えるかもしれない。女の子らしい動きではないが、動きは悪くないだろう。
 だが、しばらく見ていると、冬獅郎が気になると言った理由に見当がついた。少女は時折、あらぬ方向を見ては、他の子供とは違う表情をする。
(……そういうこと)
 不安定なその様子は、ただの無邪気な子供ではないことだけは感じられた。



***



 じくり、と傷が痛む。傷だけでなく打ち付けもしたのか、左膝は赤紫に腫れ上がっていた。
「大丈夫か、黒崎!」
「ちくしょう、中学生の奴ら、ひどいことしやがって……」
 気遣うチームメイトの声を、夏梨は地面に倒れたまま、痛みを堪えながら聞いた。
 ――あの日から一週間経った、土曜日。夏梨たちは約束通り、中学生との勝負に臨んでいた。
 結局冬獅郎は一度も練習に来ず、誰も助っ人を見つけることもできなかった。それでも、夏梨にあきらめるつもりはない。試合開始から持ち前の脚力で主導権を握り、好プレーを見せた。
 だが、それを邪魔に感じた中学生たちが、わざと夏梨を蹴り飛ばしたのだ。今も地面に転がった夏梨を見ては、にやにやと笑っている。
「……どうってことねえよ、こんなの」
 いつまでも倒れているのは癪で、夏梨は無理やり立ち上がった。
「でも、黒崎……」
 心配そうに、明らかなあきらめを見せて言う男子たちに、夏梨は声を張り上げる。
「大丈夫ったら、大丈夫だ!」
 それを証明するように踏み鳴らす。――これがいけなかった。どうやら骨までとはいかずとも、かなり深くまで至ったらしい打撲に、その衝撃はあまりに痛かった。
「……大丈夫、だ」
 それでも奥歯を噛み締めて、泣きそうになるのを堪える。
「あたしたちは、負けられねえんだからさ」
 タイム終了の笛が鳴る。ずきずきと断続的に続く痛みは消えてくれない。
(ちくしょ……)
 痛い。それでも、あきらめられない。
 走り出すと、痛みは刺すようなそれに変わった。動きが鈍った夏梨をいいことに、中学生たちは次々とシュートを決めていく。
 そして途中、夏梨は膝の痛みについに足を止めてしまった。
 ――ちょうどそのときだ。コートに近づいてくる人影に気づいたのは。
(……あの、バカ野郎)
 心中で罵倒したのは、中学生のことではない。頬が緩む。心のどこかで、やはりと思っていることに気づいた。来てくれると、どこかで思っていたらしい。
「タイム!」
 夏梨は審判に告げると、コート際まで来た彼のほうへ駆け寄った。
「遅えよ、冬獅郎」
「約束した覚えはないからな。見に来ただけだ」
 相変わらず冷静に否定した冬獅郎に構わず、夏梨は声を上げた。
「反撃はこれからだ、みんな!」
 声を受けたチームメイトが色めき立つ。その奥で中学生たちは嫌な笑みを浮かべたままでいる。それを夏梨は睨み付けた。
「頼んだぜ、冬獅郎!」
「頑張ろうぜ、冬獅郎!」
「おい、ちょっと待て、誰がやると……」
 やんややんやと担ぎ上げる男子たちに辟易した様子で逃れようとした冬獅郎だったが、ふとその言葉を止めた。
 すいと表情が険しくなって、夏梨に向けられる。
「……怪我、してるのか」
「え、ああ……こんなの、どうってことないけどな」
 強がってみたが、実際には相当痛かった。冬獅郎はしばらく夏梨を見つめて、それからため息とともに、小さく呟いた。
「……仕方ねえな。勝てば、いいんだな」
「――うん!」



[2010.07.25 初出 高宮圭]