拍手御礼・弐

-氷-

07 : 『彼女』

 夏梨が公園から駆け去ってしばらく。姿も足音もすっかりなくなってから、一つの足音が日番谷の背後に近づいてきた。
「ばっかですねえ、何やってんですか、隊長」
 遠慮もなくかけられた呆れ混じりの声に、日番谷は不機嫌な表情を繕いもせずに振り返る。
 そこには彼の副官である乱菊がいた。
「戻ってきてたならさっさと来い。なんでわざわざ隠れてた」
「だって、お取り込み中っぽかったじゃないですか」
 悪びれずに乱菊は言って、日番谷の隣に並ぶ。
 もともと、今回は日番谷と乱菊の二人で現世に来ていた。現地調査の指令もあって一人では時間がかかりそうだったし、何より残してきても乱菊が仕事をするとは思えなかった。
 そして調査を乱菊に頼んで、日番谷は今回の要であるこの公園にいたのだが、そこに夏梨がやってきたという状態だったのだ。
 途中から乱菊が戻っていることは気配でわかってはいた。
「あんな言い方しなくても。結構今更じゃないですか」
「今更とか、そういう問題じゃねえ」
「泣きそうな顔してましたけど? 何だかんだ言っても、あの子、子供ですよ」
「……わかってる」
 低く答えて、日番谷は夏梨が走り去った方向に視線をやった。だがすぐに気を取り直した様子で、乱菊を見る。
「それより、結果は」
「あ、はい」
 と乱菊は答えようと口を開けかけて、途中で微妙な顔つきで日番谷をまじまじと見だした。
 ずい、と覗きこまれて日番谷は若干体を引くが、乱菊は一向に構った様子もない。
「隊長、今日以外、最近現世になんか来てないですよね」
「は? 当たり前だろ、この忙しい時期に来てられるか。任務ならともかく」
「ですよねえ、あたしも隊長がどっか行ったのなんか見てないし」
 ならどうして、と乱菊は一人ごちる。
 事情のわからない日番谷は、とにかく眉をひそめて続きを促した。
「いえ、虚の霊圧が残ってるところを調べたんですけど……隊長と似た霊圧も残ってて、それが倒したみたいな形跡があって」
「なんだと?」
「それも一つじゃなくて、いくつか。……心当たりとか、あります?」
「いや……」
 答えて、日番谷は少し考え込むように視線を下げ、すいと公園を再度一瞥してから乱菊に言った。
「その場所に連れて行け、松本。――少し、気になることがある」


***


 公園を飛び出した夏梨は、公園から十分遠ざかった今でも走っていた。
 家に帰る道ではない。そんなことはわかっていた。ただやたらに、走っていたかったのだ。

 ―― 『どれだけヒトと似ていても、存在する場所が違う』

 頭の中で、先程聞いた日番谷の声が重い響きで繰り返される。
(そんなの、わかってる)
 わかっていたはずだ。だから、見えようが何をしようが信じなければいないのと同じだと自分でも言っていたのに。
 それを肯定されたことが、今、とても腹立たしくて、悔しくて、――悲しい。
 鼻の奥がツンとして、熱が目頭に集まる感覚に、夏梨は慌てて走るスピードを上げた。
 そしてほとんど前も確認せずに闇雲に走り続ける。
 周りの景色は、どんどん馴染みのないものに変わりつつあった。住宅街を抜けたようだ。滅多に行かない、人気のない町外れを夏梨は走った。
 頭の中で、ぐるぐると日番谷の声が回る。氷の姿が脳裏に映る。
「……っ、とう、しろうのっ……バカ……ッ!」
 走っているせいで荒い息の狭間で、声を絞り出す。
「ひょう、の……ッ!!」
 名前を口にしたら、余計なものまでこぼれそうになってぎゅっと目を瞑った。さらに走るスピードを上げる。
 そしてありったけの声で、叫んだ。

「勝手に、いなくなってんじゃねえよ、バカ氷――っ!!」

 ――その声が高らかに響くのと、目の前の障害物に夏梨が気づかず突進するのは、ほとんど同時だった。
「いっ!!」
 力一杯ぶつかって、夏梨は呻いたし、跳ね返りもした。だが、そのまま地面に転がらなかったのは、ぶつかった障害物たるそれが、受け止めてくれたからだ。
 未だ衝撃でくらくらする頭で、夏梨は状況を把握できぬままに、降ってきたその声を聞いた。
「……済まぬ」
 低い、空気に沈むようなその声。ここ一ヶ月ですっかり耳に馴染んだ声。
 久しく聞いていなかったその声に、夏梨は目を見開いて、がばっとぶつかった障害物を見上げた。
 そこにある、銀色の瞳。青緑の髪。包み込む、冷えた、けれど優しい気配。
「氷……?」
「ああ」
 瞳に苦笑を映して、氷は答えた。そして、少し遠慮がちに夏梨の頭を撫でる。
 夏梨は、氷の腕の中にいた。というのも全く気づかずに突っ込んだせいなのだが。
 身長差があるため、夏梨は氷の胸に突っ伏すような形で、彼に支えられていた。
「あ……っ、あんた、何で!! 今までどこに、――あたしが、どんだけッ!!」
 一気に色々な言葉が押し寄せてきて、上手くまとまらない。
 結局声を詰まらせて、とりあえず両手で氷にしがみついた。
 それを宥めるように受け止めてくれる感触にやけに安心して、夏梨は長い息を吐く。
 すると頭の上から、苦笑の滲んだような声がした。
「……済まぬ。本当は、もうお前の前に現れるつもりはなかった」
「え……」
「だが、久しぶりにお前を見て、声を聞いて。……泣いたかもしれぬと思ったら、来てしまった」
「どういう、こと……なんだよ、それ! ていうか、見たって……」
 ばっと体を離して、氷を見上げる。氷は相変わらず変化の乏しい表情で、しかしどこか困ったような顔をしていた。
「……先程、公園で。我も、あの場にいた」
「嘘だ、だって、あんたの気配はどこにも……」
「お前は気配に聡い。……だが、だからこそわからなかったのだろう。我と主の霊圧は似ている」
 夏梨は眉をひそめた。
「主?」
 氷は頷く。
「言ったろう。我は、普通の霊ではない。――我は、主・日番谷冬獅郎の斬魄刀だ」
 夏梨は、目を見開いた。
 ざんぱくとう。それはいつかも聞いた響きだ。そして氷が言った主の名は、夏梨もよく知っている。
 混乱しそうになる頭を必死で動かして、夏梨は自分でももどかしいほど揺らいだ声で返した。
「じゃあ、あんたも……死神……?」
 しかし、氷は首を横に振った。
「違う。我は斬魄刀。――死神の持つ、半身たるその刀だ」
「かた、な……」
 思わず言葉を噛み砕くように反芻させる。だが上手く意味は飲み込めない。
 しかし氷は、そのまま言葉を続けた。
「だから先程も、主の刀の中で、共にあった。……夏梨」
 氷は、少し沈んだ声で夏梨を呼んだ。
「済まぬ。……本当は、我と、お前の霊圧に惹かれて、虚が集まりつつあるのに、以前から気づいていたのだ。離れるべきだとはわかっていたのだが、――また今、会ってしまった」
 そして氷は、一歩夏梨から距離を取る。
「本当に、これが最後だ。……本当は、この言葉を言いたくなかったのだが」
 その口元が、「さ」の形を作りかける。だがそれが音になる前に、夏梨は声を張り上げた。
「――わけ、わかんねえ!!」
 氷が、驚いたように少し目を瞠った。
 夏梨はそれに構わずそのまま続ける。
「わけわかんないよ、もう! 一気によくわかんねえこと言うな!」
 そしてびしっと氷を指差した。
「もういいよ、あんたが何者とか、正直もうどーでもいい。あんたは氷だ。あたしの中ではただの氷で、あたしの友達だ! それじゃ、ダメなのかよ」
「……だが、我は」
「どうしても会えないなら、無理しなくていいよ。――でもだからって、あたしとさよならする必要なんか、ないじゃんか」
 今度こそ、氷は驚いたらしい。「必要ない?」と呟く。
 夏梨は頷いた。
「だって、もう絶対二度と会えないわけじゃないだろ。それに、友達はさよならしたからって終わらないよ」
「……そう、なのか?」
「そうだよ」
 夏梨は、ぐいと氷の手を取る。
「だから勝手に、何も言わずにいなくなるな、バカ!!」
 正面から怒鳴りつけると、氷はほとんど呆然としたように夏梨を見返してきた。
 手を握ったまま睨み付けていると、何やらやけに氷の顔が情けなく見えて、夏梨は思わず噴き出す。
 笑いを引っ込めようとはしたが、上手くできなくて、夏梨は肩を震わした。
「……怒っていたのではなかったのか」
 憮然としたような、困惑したような声で氷が言って、夏梨は笑ったまま顔を上げる。
「怒ってたよ。でももう、何か、いいや。……だってあんたは今ここにいて、さっき謝ってくれたじゃん」
 そして、落ち着くために一度息を吐いてから、改めて氷を見た。
「だから、許す!」
 夏梨がそう宣言すると、氷は一瞬きょとんとしたような顔をして、小さく笑った。
 それから握られている夏梨の手を握り返すと、胸の辺りまで持ち上げて、静かに一度目を閉じた。
「――ありがとう」
 声と同時に、ごうと風が唸った。かと思うと鋭利なまでの冷気が吹きつけて来て、夏梨は咄嗟に目を瞑った。
 やがて風が止んで、目を開ける。
 ――目の前には、巨大な氷の龍がいた。
 透き通った青色の氷体は、夕日を浴びてきらきらと光る。ルビーのように赤い目をした、翼を持つ氷の龍。それはまるで、おとぎ話の一場面のようだった。
 夏梨はしばらく、目も口も開いたまま、その龍を見上げていた。
 だが、ふとその表情をいつもの勝気な笑みに戻すと、口を開く。
「……それが、あんたのホントの姿?」
『――いかにも』
「かっこいいじゃん」
 そう言って、屈託なく笑う。そして、ふと思い付いたように問いかけた。
「ねえ、氷。名前、聞いてもいい?」
 すると龍は、いつもより低く響く声で、肯定を返す。声が響くたび、鋭利な冷気が空気を揺らした。
『我が名は、氷輪丸』
 だが、と龍は続ける。
『……お前の前では、ただの氷だ』
 また、風が唸る。冷気が周囲を通り抜けて、柔らかな風に戻った。
 風がやんで、目前に立った男を、夏梨は見る。
 ぶつかった視線は、双方ともどこか楽しげだった。
 夏梨は笑って、すいと手を差し出す。
「わかってんじゃん。氷」
 すると氷も、薄く笑って、その手を握った。
「……我は、お前の友人だからな」



***



 よく知った気配が、傍らに立った。
 それをそちらに視線をやることもなく認識して、日番谷は目を伏せたまま口を開く。
「……ようやく戻ったか、氷輪丸」
「勝手な行動をした。済まぬ、主よ」
 日番谷は相変わらず、問題の公園にいた。乱菊も共にいる。件の調査も終え、その正体も突き止めて来た後である。
 日番谷は、鋭い視線を人の形を取った氷輪丸に向けた。
「それは、今のことを言っているのか。――それとも、今までのことを言ってるのか」
 調査の結果、虚を倒していたのは間違いなく氷輪丸である、ということが判明した。そして原因もまた、氷輪丸だ。つまり夏梨が関わったのも、彼である。
 彼がどうして現世に来、人間と関わったのか、それはわからない。だが、斬魄刀反乱の事件以後、ある程度自由に行動することができるようになった斬魄刀たちが、多かれ少なかれ個々で動いているのはもちろん知っていた。氷輪丸には今までなかったことだが、だからこそ何か理由があるのかもしれぬと、先程日番谷から離れたときも、あえて好きにさせた。
 氷輪丸は感情の伺えない表情で、「どちらもだ」と答える。
「なぜ、こんなことをした」
 日番谷の声を低めた問いに、氷輪丸も真剣な表情で、答えた。
「芋づる式だ」
「……、……は?」
 これに思わず間の抜けた声を出したのは、日番谷のみならず、近くにいた乱菊もだった。ぱちくりと目を瞬かせて氷輪丸を見ている。
「主と似た容姿年齢の子供を知ろうとしていたら、いつの間にか色々と」
 実に興味深かった。
 いっそ堂々と、氷輪丸は言い切った。
 日番谷は半ば呆然としつつ、眉間に皺を寄せる。
「……つまり、何だ。……遊んでたのか、ただ」
「うむ」
 至極真面目に氷輪丸が頷いた。と、日番谷の隣からもう我慢の限界とばかりに大きな笑い声が弾ける。
「あははははははっ!! ウッソ、隊長、今まで何があったのかって本気で悩んでたのに無駄でしたねアハハハ!!」
「笑うな松本!!」
 怒鳴りつけると乱菊は必死に声を押し殺して笑う方法に切り替えたらしい。それはそれで腹立たしいが、今は置いておく。
「そうだ、主」
 じゃあ何だもしかしなくても始末書は俺か、俺の監督不行き届きで始末書なのか、などと悶々としていると、氷輪丸がひょいと袂から何か小さな袋を取り出した。どうやら、現世の店の袋らしい。
「……何だ、それは」
「我が友人からだ」
「友人?」
「夏梨だ」
「か、」
 あっさり氷輪丸がその名を呼び捨てたことに、一瞬日番谷は動揺しそうになる。それをどうにか抑えて、表情を繕った。
 しかし氷輪丸が更に続けた言葉に、今度こそ動揺を隠せなくなった。
「主、あの娘はいい女になるぞ」
「は」
「早めに捕まえておくと良い。すると我も都合が良い」
「何言ってんだテメエ!! てか都合がいいって何だ!」
「いらぬのか、嫁に」
「いるか!! 第一考えてものを言え、あいつは人間だ!」
「……そうか、案外主は、弱気と見える」
 そう言って氷輪丸は、珍しいことに口元に笑みを浮かべた。

「では、我が出張っても問題はないな。……十年後が楽しみだ」

 一瞬、耳を疑った日番谷と乱菊が動きを止めたその隙に、氷輪丸はひょいとその姿を刀の中に隠してしまった。
「――お、おい! 氷輪丸!」
 日番谷が呼ぶが、氷輪丸からの応えはない。日番谷が舌打ちをしてガシャンと刀を鳴らすのを見ながら、乱菊が明らかに楽しそうな口調で声をかけてきた。
「あちゃー、言い逃げってヤツですね。ていうか宣戦布告? どーするんですか、隊長っ」
「……なんでテメエはそんなに楽しそうなんだ」
「だーって絶対滅多にないですよう、自分の斬魄刀からの宣戦布告! さすが斬魄刀、好みも主に似――」
「帰るぞ」
 強引に乱菊の話を打ち切って、日番谷は踵を返す。
 話を遮られた乱菊は不満そうな表情になったが、ふと何やら企んだ笑みを浮かべて、日番谷の背中にわざと低めた声をかけた。

「……『あの娘はいい女になるぞ』」
「――松本ォ!!」

 彼の言葉が本気か否かは、彼のみぞ知る。

予想外に長くなっちゃった『氷』シリーズ、なんとか完結です。
最初は一話だけ、とか思ってたのが……。
趣味に走ってますが、案外好評で嬉しい限りでしたv斬魄刀ネタは楽しいので、またやりたいなあ。
[2010.01.25 初出 高宮圭]