「おーい、一護ー。ちょっといいかい」
相変わらずのほほんとした声で一護が呼ばれたのは、ちょうど鍛練場で一角と手合わせを行っているときだった。
両者一歩も譲らずの拮抗した仕合にはあまりにそぐわぬ呼び声だったが、聞こえてしまえばその声を無視することはできない。何しろ呼んだのは、一護の上司である。
「……行ってこい。続きは後だ」
舌打ちをしつつも、一角は刀を納めた。荒くれ者でありながら、しかし自分の上司を尊敬する一角は、その辺りをしっかりわきまえている。
「ああ」
一護も刀を納め、肩口で頬の汗を拭いつつ、声の主を振り返った。
「今行きます、浮竹隊長!」
「現世?」
「ああ。ちょっとやっかいなことが起こってて、現世をよく知ってる者に行ってもらいたいということになったんだ」
「そりゃ俺はまあ、一番詳しいだろうけど……いいんスか?」
呼ばれて行った先、十三番隊隊舎で茶を片手に話を聞いて、一護は珍しく口ごもった。
その反応に、浮竹は苦笑を浮かべる。
「確かに、君が正式に死神となり、この十三番隊副隊長の任に就くとき、現世とは極力関わらぬようにと厳命が下った。……けれど、今回の命を出したのは他でもない、その厳命を下した山本総隊長なんだ」
「え……」
一護は軽く目を見開いて、浮竹を見た。
現在一護の上司である彼は、そうでなかったときと全く変わらぬ微笑みで、穏やかに言葉を紡ぐ。
「副隊長となってから五年……尸魂界ではたいしたことのない年月かもしれないが、君にとっては長かっただろう?」
――五年前。一護は高校を卒業すると同時に、正式に尸魂界の死神となった。
六年前に終結した、破面と死神の前面戦争によって度重なった戦いで、一護は隊長格――ともすればそれ以上の実力を身に着けた。それほどまでに強い霊圧を持つ一護が、これ以上現世で留まるのは危険と判断されたことが、理由の一つだ。強い霊圧には虚が集まってきやすく、周りの人間にも影響を及ぼしてしまう。
そして何よりも、尸魂界で持たれた隊首会で、一護の力を捨て置くにはあまりにもったいないという意見が一致したからだった。
一護はこの話を持ち掛けられた折、しばらく迷ったものの、結果として死神となる道を選んだ。
今まで自分の霊圧が与えた周りへの影響、そして戦いの中で仲間以上の絆を結んだ彼女の存在を鑑みて、決意したのだ。
だが正式に死神になるとなれば、今までのようにあくまで死神代行の人間として、『黒崎一護』が現世に生きることはできない。例外を除き、関連した人間全ての、一護と死神に関する記憶を消去することが決定された。
この決定に、ルキアや恋次は反対の意を唱えてくれたが、それを止めたのは他でもない一護だ。
――いきなりいなくなって、悲しませるよりはいい。
それはまぎれもない本音だった。
親しい者がいなくなる、喪失の痛みと悲しみを、一護は知っている。それを、今まで共に過ごしてきた大切な者たちに味あわせたくはなかった。
一護は『例外』が誰であるか詳しくは知らない。
だが共に戦った、茶渡、雨竜、織姫はそれに当てはまることは聞かされた。
――みんなが黒崎くんのこと忘れちゃうのは、悲しいね……。
そう言って、織姫は泣いた。周りが忘れた者のことを覚えているというのは、彼らにとっても苦痛かもしれない。けれど彼らは案ずる一護に「頼まれても記憶の消去は受け付けない」と言い切った。
そして、大規模な記憶の消去と置換が行われて、五年。
一護の影響で霊圧を増した者たちの力は徐々にもとに戻り、虚に襲われる危険性は減ったらしい。
「……確かに、現世の奴らがどんなになったか想像できないくらいには、長かったかな」
回想を打ち切り、ため息と苦笑を混ぜて吐き出せば、浮竹はひとつ頷いた。そしておもむろに一枚の紙を一護に差し出す。
「今日が何の日か、覚えているかい?」
「……今日?」
「ああ。三月二十九日。……わかるだろう?」
日付を口にされて、ようやく一護は浮竹が言いたいことに気づいた。
「五年前……俺が正式に死神として尸魂界に入った日……」
「そうだ。――そして今日、この命が下った」
浮竹は差し出した紙を示すと、一護に手渡す。そして一護がそれを読むのに会わせるように声を出した。
「『十三番隊副隊長、黒崎一護。その任に就いてより今日、隊首会は死神として堅実なるこの者の働きを認める。よって副隊長就任の際に下した厳命を、下命より千八百二十五日の本日を持って撤廃とす』」
読み終わると同時に、一護が勢い良く顔を上げる。視線を受けた浮竹は相変わらず穏やかに微笑んでいた。そしてさながら自らの息子に言うかのように、一護の肩をひとつ叩いて、言う。
「行って来るといい。かつての友人たちとは語らえないが、元気な姿は見れるだろう?」
「……ありがとう、ございます!」
***
厳命撤廃の決定、そして現世急行の命を受けたその日、一護に十番隊隊舎へ集合がかけられたのは夕方すぎだった。
よっぽど急ぎの件なのか、即日現世に向かうことが決定されたらしく、詳しい説明と面子が知らされるらしい。十番隊隊舎ということは、おそらく十番隊のあの二人も行くのだろう。
一護が集合場所へ赴くため、この五年で慣れた道のりを辿っていると、途中で見知った顔と合流することになった。
「なんだ、お前も現世行くのか? ルキア」
同じ道を辿っている様子のルキアに一護はこともなげに訊ねた。
意外そうな顔をしたのはルキアのほうだ。
「お前も、とは……まさか、貴様も行くのか!? 厳命は……」
「きっかり今日で撤廃だとよ。で、隊長が行けって言ってくれたんだ」
「そ、そうなのか……。私はてっきりまた命令違反をしでかすのかと思ったが――よかったな」
「おい、人が命令違反ばっかしてるみたいな言い方すんな」
せっかくいい気分だったのに、と不本意そうに一護が反論すると、ルキアは呆れたように返す。
「しておるではないか。この間もその前も、つい昨日も」
「してねえ! ちゃんと違反ギリギリ寸止めしてるだろ!」
「たわけ! 胸を張るな!」
いつものごとく、ぎゃんぎゃんと喚き合いになりかける。そこに割って入ったのは、さも面白そうな馴染みある声だった。
「相変わらず仲いいわねえ、あんたたち」
その声に二人同時に視線をやれば、相変わらずスタイルのいい十番隊副隊長がいた。
「松本副隊長」
「はあい朽木、昨日ぶり。一護は三日ぶりだっけ? 夫婦漫才してないでちゃっちゃと来なさいよ」
「してねえよ! ……それより、どうしたんだ? 集合の時間までにはまだ余裕あるだろ?」
乱菊のからかいを一蹴し、気を取り直して訊ねる。乱菊は若干つまらなさそうにしたものの、時間がなかったのかあっさり引いた。
「まあね。でも、もうみんな揃ってるから、残りさっさと呼んでさっさと行こうってことになったのよ」
言うと、乱菊はせかすように手招いて先導しだす。
それに遅れぬようについて行きながら、一護は訊ねた。
「みんな揃ってるって、そんなに人数いるのかよ?」
「いるわよ。何しろちょっとやっかいそうな任務だもの。ま、現世に慣れた人っていうので選ばれてるから、馴染みはありすぎるほどあるわよ」
「やっかいとは、また空座町に何か……」
だがルキアの問いは最後までなされることはなかった。それより先に、目的地に着いたのだ。
そこには乱菊の言った通り、馴染みのある面子が揃っていた。
「遅ぇじゃねえか、一護、ルキア!」
「待ちくたびれたよ。まったく、厳命撤廃なんて、隊首会も甘いね」
「さっさと来い! さっきの手合わせの続きは帰ってからにしてやる」
並んだ面子を確認し、なるほど、と一護は思わず苦笑する。
恋次、弓親、一角。確かに馴染みある、現世に慣れた顔ぶれだ。そしてその奥には、難しい表情のまま腕組みをして立っている銀髪の青年が一人いる。
彼は一護たちを視界に入れると、ひとつ息をついて言った。もともと低めだったその声は、五年前に比べ、さらにいくらか低くなったように思う。
「始めるぞ」
――この五年。まず一護は慣れぬ副隊長業務をこなしつつ、尸魂界のことを学ばねばならなかった。夜一や浦原に多少教わっていたとは言え、それは最低限に過ぎない。ルキアや恋次、たまに浮竹を交える面々から教わり、暮らすうちに早五年。
周りの面々の様相は、少しずつ変わった。ルキアは少し髪が伸びたし、恋次の髪も伸びた。一護自身も身長が伸び、やちるの身長も少しだけ伸びた気がする。
だが中でも一番変わり、様々な意味を含んで伸びたのは、間違いなく十番隊隊長、日番谷冬獅郎だと、一護は思っている。
「……というわけだが、おい、聞いてるか黒崎」
「は? あ、ああ……要するに、何だか知らねえけど最近やたら空座町に虚が出没してるから、その原因解明と虚退治に行くってことでいいんだろ?」
我に返ってとりあえず要点をまとめてみたが、そこで訂正箇所に気づいて直す。
「いや……いいんスよね、日番谷隊長」
死神代行であった頃、一護は頓着なく誰にも彼にも普通に話していた。だが護挺十三隊に席を置く以上、最低でも任務のときはそれを改めねばならなかった。それをやたら気持ち悪がった十一番隊やその他例外は別として、少なくとも隊長には敬語を使うようにしている。とは言え、うっかりすると戻ってしまうのだが、あまり周りは気にしていないらしい。それでも心がけるのは、単なるけじめだ。
日番谷は一護の確認に「そうだ」と首肯した。
その背丈は、一護よりは低いものの、五年前に比べれば格段に高くなっている。もともと鋭かった瞳は一層鋭さを増し、幼さ余って可愛さが残っていた顔つきは今や見る影もない。男ながらに「綺麗」という表現に違和感なく当てはまる、確実に少年から青年となった日番谷は、当然のようにその力も増した。ついでに、ファンもさらに増えた、というのは副隊長乱菊の証言だ。
急激と言えば急激だが、歳相応の成長だと言えば、そうでもある。もっとも死神に歳相応という言葉が相応しいのかどうかは疑わしいところだが。
「で、今回の現世への引率も日番谷隊長なんスか?」
「前回であんたたちの扱いには慣れただろうってことらしいわよ」
恋次の問いにいかにも楽しげに答えたのは乱菊だ。やたら嬉しそうなのは任務とは別のところ(例えば買い物や娯楽)に期待しているからに違いない。
「相変わらず貧乏くじ……」
ぼそりと一護が呟いた言葉に、日番谷は幾分かあきらめたような眼差しで「うるさい」と覇気なく言った。
それからざわついた場を仕切り直すように声を張る。
「とりあえずだ。お前たちは現世に着き次第、まず浦原商店へ行く。浦原はこちらより情報を持っているだろうから、それを聞いてまず原因の解明に当たることになるだろう。平行して虚退治もしなきゃならねえが、各自限定霊印の存在を忘れるな。――注意事項はこれくらいだ。質問がないなら、行け」
「……ちょっと待ってくれ」
ふと違和感を感じて、一護は声をあげた。
「なんだ」
「日番谷隊長は引率なんだろ? 今、お前たちは、とか、行けとか言った気がしたんスけど」
「……ああ、お前らが来る前に一度話してたから、言い損ねたか。今回俺は後から合流することになってる」
日番谷は事もなげに言って、訝しげな表情を浮かべた一護とルキアに説明する。
「今回の件は急を要するらしいというのは言ったな。だがまだ何がどう急を要するか、それははっきりしてねえんだ。……何しろ、現世にいる浦原からの一報だったんでな。方法は正規でない自己流で、最低限のことしか伝わらない。あげく何か霊波障害が起こってるのか、こちらからうまく連絡がつかねえ。……だが技術開発局が以前から察知してた異常と合致したことで、死神の派遣が決まったんだ」
「浦原さん? 以前からの異常って……」
「『虚の異常発生、集合、消滅。人命に関わる。至急死神派遣要請』。――これだけが浦原から送られてきた一報の内容だ。浦原は破面の一件以来技術開発局とは定期的に連絡を取り合ってたらしいんだが、最近はそれも途絶えてたらしい。途絶えた頃から頻繁に空座町に虚が異常に増えたり減ったりするのが観測されていた」
一護はそれに息をのんだ。藍染率いる破面の脅威が去った今、漠然とした安心感を覚えていたが、虚がいなくなったわけではない。
生まれ育った町にまた異変が起こっていると聞いては、落ち着かない気分になってしまう。
「とは言え、こちらの情報が足りていないのは事実だ。俺は今まとめられてる情報の完成を待って、現世に向かう。俺が合流するまでの指揮権は松本に譲渡する。短期間の予定だが、一応現世に着くと同時に技術開発局から義骸が転送されるから、拾っていけよ。……以上だ。質問は?」
日番谷は改めてしばらく間を置き、誰からも質問の声が上がらないことを確認してから、後方に控えていた乱菊を振り返る。
「開けろ、松本」
「はーい」
何とも緊張感に欠ける返事をした乱菊は、しかし真剣な表情で斬魄刀を抜くと、それをかざす。現世と尸魂界をつなぐ穿界門を開くのだ。
その間に一護たちは己の地獄蝶を確認し、移動の準備を整えた。
厳命の関係上、一護が正式な穿界門を通るのはこれが初めてのことだ。
「開錠!」
声と共に門が開く。
乱菊を先頭に、一護たちは門へ足を踏み入れた。
穿界門がよくわかりません。正式なでっかい門使ったり自分で開けたりしてるのはなぜに。
というわけで今回は自分で開けて頂きました。
[2009.07.23 初出 高宮圭]