「はい、お疲れさん」
ひょいと目の前に差し出された缶コーヒーに、日番谷は目を瞬かせた。
差し出した夏梨は、きょとんとして動かない日番谷の手にコーヒーを転がす。
「小学生の相手、さすがにあの人数はあたし一人じゃ手に負えなかったからさ。お礼」
そして、日番谷が座っているベンチの隣に、拳二つ分の距離を空けて座った。
辺りはすっかり薄暗い夕闇に包まれている。ベンチの横に街灯があるおかげで明るいが、目前に広がる公園の景色はよく目を凝らさねば見えない。
「……ったく、三十分で終わるんじゃなかったのかよ」
日番谷が呆れた口調でそう言って、夏梨はう、と言葉に詰まった。
夏梨が日番谷を小学生の相手に引っ張り出したのは一時間と少し前のことだ。完全に暗くなる前にと小学生たちを帰らせたのはついさっき。――つまり、一時間はしっかり遊んだのである。
「悪かったって。あ、コーヒー微糖にしたけど、よかった?」
「ああ。別にこだわりはない」
言いながら日番谷はコーヒーを開けた。夏梨も手にあるココアを開ける。
春とは言え夜はまだ少し寒い。ホットにしてよかったと取りとめもないことを考えながら、夏梨は息をついた。
「……お前、いつもガキの相手してんのか?」
のんびりした沈黙を挟んでかけられた問いに、夏梨は一瞬きょとんとして、そして頷いた。
「いつもっていうか、そんなに頻繁じゃないけどね。何回か相手してたら懐かれたみたい」
言いながら、いつも寄って来る子供たちを思い出す。学年は様々だが、全員が小学生だ。大半が男子で、たまにちらほらと女子もいたりする。
「子供は嫌いじゃないよ。悪ガキもいるけど、根はみんな素直でいい子ばっかり」
「……なるほど、どっかの誰かみたいにひねくれたガキはいないわけだ」
「……その言葉、そっくりそのまま返す」
「俺はガキじゃねえ」
「見た目はガキだったでしょ」
お互い淡々とした口調で減らず口を叩き合う。そして吐息か声かわからぬほどの小さな笑いをこぼした。
笑った自分を自身のことながら少し意外に思いつつ、日番谷は何とも言えぬ既視感を感じていた。同じことがあったわけではない。だが、同じだ。八年前と変わらず、何も気負うことも気張ることもなく、ただそこにいられる気安さが。
幼馴染や、馴染みの者達といるときに感じるそれとはまた違う。一番近いもので言えば、家族である祖母といるときに似た、何も着飾らなくていいときに感じる安堵にも似ている。
実際に関わったことなど、数えて見れば他愛もないというのに、不思議なものだ。
日番谷は缶コーヒーを傾けながら、視線だけを夏梨のほうにやった。夏梨は気づいた様子もなく、自分のココアを飲んでいる。
一護は現世を離れて五年。つまり家族と別れたのも同時期である。だが、日番谷はほぼあの対破面戦以来であるから、夏梨とこうしていることはもちろん、現世にいるのも約八年ぶりだ。
だというのに、何の違和感もなく隣にいる。
――時間の壁だけではない。
人間と死神。兄と記憶。虚に追われ続けた数年間と、未だ続く脅威。
それらは日番谷のみならず他の者達とも、確執を築くには十分すぎる理由になる。
けれど夏梨は、他人との間に確執を築くこともなく、自分を保ってここまで来た。それがどれだけ精神の強さを必要とするか、正直なところ想像もつかない。
と、そんなことを考えていたせいか、それとも元からか、だいぶ気難しい顔をしていたらしい。缶を両手で包むように持った夏梨が、訝しげな視線を向けた。
「……さっきから、何で睨んでるの?」
「睨んでない」
「嘘だ、そんな顔して」
「生まれつきだ」
「……ま、確かに昔からそんな顔だったね」
へっ、と夏梨は鼻で笑う。日番谷が「あ?」と声を低めたが全く気にした様子もない。
日番谷は一旦コーヒーを膝の横に置いて、一つ息をついた。夏梨が視線を向けてくるのがわかる。だが、あえてそちらを見ずに、薄闇に溶けかけた遊具を眺めつつ呟いた。
「髪、本当に伸ばしたんだな」
夏梨が驚いたように一瞬体をぴくりとさせ、口元に寄せていたココアを下ろす。
「……あんたが伸ばせって言ったんだろ」
「覚えてたのか」
「こちらこそだよ。……ホントにそんなにでかくなって。あんまり伸びなかったあたしへの嫌がらせか」
「だから伸びるっつったろ。……確かにお前、背のほうはそんなに伸びてねえな。チビ」
「うっさい元チビ」
「元言うな。だいたい――」
日番谷はすいと視線を夏梨に戻して、言いかけていた言葉を止めた。
それと同時に、夏梨の体がずるりと傾ぐ。そして寄りにもよって日番谷とは反対方向に倒れようとした。
日番谷はほとんど反射で、夏梨の腕を掴んだ。コーヒーを惜しみもなく投げ捨て、肩を掴んでベンチから落ちかけた体をなんとか引き戻す。
「おい!」
「……ぅあ」
強く呼びかけて、そこでようやく夏梨の意識が戻った。
「いきなり意識飛ばしてんじゃねえ。大丈夫か」
「……ああ、うん、平気。ごめん、疲れるとたまにこうなるの」
いつもは立ちくらみくらいなんだけどな、と夏梨はあっさりした口調で何でもないように言う。その言葉は本当のようで、慣れた様子で夏梨は何とか落とさずにすんだココアを持ち上げる。
だが日番谷は、黙ったままそのココアをひょいと取り上げた。
「……なに?」
夏梨があからさまに不審そうな目を向けてくる。だが日番谷はそれにも構わず立ち上がり、隣にあったもう一つのベンチにココアを置いた。
そして戻って来ると、きょとんとして座ったままの夏梨を見下ろして一言。
「寝ろ」
「は」
「そんな青い顔してる奴の平気なんて信じられるか。お前のサイズなら納まるだろ」
日番谷が指すのは夏梨が座っているベンチだ。横に大人一人分ほどあるそれは、平均より小柄な夏梨なら楽に寝転べる。
「青い顔って、それ周りが暗いからじゃ……」
「つべこべ言ってんじゃねえ」
「……わかったよ」
夏梨は渋々と言った様子で、ベンチに体を横たえる。平気だ何だと言っていたわりには、横になった途端に、安堵したような息をついた。
日番谷は出そうになったため息を飲み込んで、夏梨の頭のほうに当たる、隣のベンチに腰を下ろす。そこでようやく、だいぶ肩に力が入っていたことに気づいた。どうやら無意識に体が緊張していたらしい。
(――調子が狂う)
日番谷はがしがしと頭を掻きながら足を組んだ。
瞬間、脳裏に閃いたのは今日相手をした、元気よく駆け回る子供たちの姿だ。
(昔は、こいつも)
あれだけ元気に走り回っていた。今日よりもっと無邪気に、無鉄砲に。ケガこそすれ、病気などとは無縁のようにも見えた。――それなのに。
あのときも、思った。
あの夜。浦原商店を飛び出した夏梨を追いかけたとき。
掴んだ腕の細さに驚き、病的なまでの体の華奢さをいっそ訝しくさえ思った。見たことのなかった弱々しさと、表情に戸惑った。けれど変わらぬ心根とその芯の強さに、妙な安堵も感じたのだ。
(勝手な話だ)
自分たちの都合でこの町に来て、関わって。また自分たちの都合で記憶をいじり、町を去った。
振り回したのは、日番谷たち死神のほうだ。
だというのに、――変わらないものがあることに、安堵する。
一護に、現実から目を背けるなと言ったのは日番谷だが、少し関わった程度の日番谷でさえ感じるのだ。人間として家族や友人とこの町で育った一護にそれを言うのは、実は酷な話だろう。
「……冬獅郎?」
考えに没頭していたからか、日番谷は呼ばれた声に必要以上に驚いた。その拍子に動かした足が、ベンチの下にある何かに当たって、それを持ち上げる。
それは、紺色のスクールバッグだった。
「この鞄、お前のか?」
「え? ああ、うん。持ったまま来たの」
答えを聞いて、日番谷はふと思いつく。
「お前、タオルか何かいれてねえか」
「タオル? ……ああ、うん。入ってるよ。開けたらすぐわかると思うけど」
「開けるぞ」
一言ことわって、鞄を開ける。すると確かに教科書やらが入っている上に、ブレザーと赤と白のボーダー柄のタオルがあった。
それを取り出して、適当なサイズに折り畳む。
「おい、頭上げろ」
「へ?」
「何か敷いてたほうが楽だろ」
「……ありがと」
夏梨は小さく笑って、少し頭を上げる。日番谷はそこにタオルを差し込んで、ついでに突っ込んであったブレザーを出すと、夏梨の上にかけた。
手を引きながら座り直しつつ、訊ねる。
「めまいだけか? 頭痛は」
「ん、ない」
そう答えた夏梨は何やら楽しそうで、口の端にも笑みが乗っている。
「何笑ってんだ」
「だって、変なの。……あのときと、逆じゃん」
あのとき、と言われて、日番谷もすぐわかった。夏梨から少し視線をずらして、頷く。
「……ああ」
すると、意外そうな声が返った。
「覚えてたの?」
「お前な、俺はそんなに記憶力悪くねえぞ。お前が覚えてんなら、覚えてるに決まってるだろ」
「……そっか」
夏梨は今度こそ楽しそうにくすくすと笑った。視線を戻すと、手持ち無沙汰だったのか頭にあるタオルを握っている。
「あのときは、びっくりしたなあ。だって、まさか死神が熱中症で倒れるなんて思わなかったもん」
「……悪かったな」
憮然と答えると夏梨はますます楽しげに笑う。それは別に馬鹿にしたような笑いではないとわかっていたから、腹立たしさはなかった。
あのとき。――まだ夏梨が小学生で、日番谷とひょんなことから知り合ってしばらく。夏の終わりとはいえまだ炎天下が続いていた日中。夏梨に巻き込まれて、日番谷はサッカーをし、ものの見事に倒れたことがあったのだ。
そのときは、今の夏梨と同じように日番谷をベンチに寝かし、夏梨が看病した。
まだ笑っている夏梨を日番谷はじと目で見て、ふと言った。
「そのタオル」
「え?」
「まだ使ってたのか。……あのときと同じ柄だろ」
すると何故か、夏梨は一時停止して、それからほとんど上半身を起こして勢い良く反論した。
「ちっ、違っ……いや違わないけど、同じのじゃなくて、あっ新しいのだし! 偶然だし!」
「おい、起きるなって。……そうなのか」
「そ、そうなの!」
「別にそれはいいが、何慌ててんだ」
「慌ててない!」
ぎゃんと叫んでまた起きようとした夏梨の頭に、日番谷は今度はべしっと手を置いて再び寝かせる。
「だから、いきなり起きるな!」
「……、……ハイ」
夏梨は渋々大人しくなって、長々と息をついた。
ため息をつきたいのはこっちだと日番谷は思うが、結局夏梨は何を慌てたのかはわからない。まあいいかと思い直して、何となく乗せたままだった夏梨の頭をぐしゃぐしゃとする。
「……ちょっとあんた、何してんの」
「何となく」
「何となくで女の頭乱すなっ」
と言いつつも手を振り払わないのをいいことにひとしきりぐしゃぐしゃにしてやる。そういえばこんなふうに他人に触れるのは久しぶりだった。わりかし遊ばれるほうだ(という自覚はある)が、同じように他人にしたことはほとんどない。
「……なるほどな」
確かに少し、面白い。かもしれない。
「……何がなるほど」
少々むくれたような声と表情で夏梨が言って、日番谷は少し笑った。
「何でもねえよ」
言って、手を離した。
駆けて来る足音がしてきたのは、ちょうどそのときだった。
「夏梨ちゃんっ!」
「え……遊子?」
ぱたぱたと急いた様子で公園に駆け込んできたのは遊子だった。
遊子はベンチに寝ている夏梨と、隣にいる日番谷を見て、すぐ状況を把握したらしい。
「なかなか帰って来ないから、心配したんだよ。また貧血起こしちゃった?」
「あ、うん。でも冬獅郎いてくれたから、大丈夫だったよ」
言いながら、夏梨は遊子の手を借りてゆっくりと起き上がる。
遊子は夏梨を支えたまま、じっと日番谷を見た。だがそれは、ただ見るにしては強かった。
「……日番谷くん、だよね。えと、ありがとう」
遊子は日番谷をじっと見たまま、にこりともせずに礼を言う。そしてすぐ、夏梨に視線を戻した。
「じゃ、夏梨ちゃん。早く帰ろう?」
「うん。……じゃあ冬獅郎、今日はありがと。いろいろ助かった」
夏梨はブレザーを着込み、鞄を肩にかけて立ち上がる。その間に遊子は少し先に歩き出していた。
そしてひらひらと手を振って、明るく笑う。
「またな! あ、ココアもう冷めてると思うけど、残りあげる。コーヒーだめになっちゃっただろ」
そう言い置いて夏梨はすっかりよくなった顔色で遊子に追いつくために小走りで駆けていく。
その姿がいつかとまただぶって見えて、日番谷は内心で少し笑んだ。
二人の姿が一度闇に紛れて、今度は出入り口の近くにある電灯に照らされてまた浮かび上がる。そしてその姿が見えなくなる直前、遊子がこちらを振り向いた気がした。だがすぐに闇に紛れてしまう。
(何だ?)
日番谷は訝しく思ったが、考えても仕方ないので自分も帰ろうと立ち上がった。そしてふと視線を落として、今度こそ笑った。
「……ったく、またかよ」
夏梨の寝ていたベンチに、赤と白のボーダー柄のタオルがいつかと同じく、置き去りにされていた。
タオルを片手で拾い上げて、もう片方の手で置いていたココアの缶を取る。
歩き出しながら地面に転がっていたコーヒーの缶を蹴って、歩みと一緒に進めた。
公園の入り口付近にある自動販売機のそばまで来たところで、ごみ箱にコーヒーの缶を蹴り入れる。だが日番谷はあやまたず決まったそれを確認もせず、片手にあった残り少ない冷め切ったココアを飲み干した。
「甘……」
呟いた日番谷は、空き缶になったそれもごみ箱にぺいっと投げ入れて、すたすたと公園を後にした。
人っ子ひとりいなくなった公園で、風に揺られたごみ箱の中にいる、二人の飲んだココアの空き缶が、からんと良く響く音をたてた。
[2010.01.14 初出 高宮圭]