初恋連鎖

-春日遅遅-

12 : ゆるやかなひび

 空は晴天。春らしく少し雲に霞んだ蒼穹には、ぴーちくぱーちく鳴く鳥が無邪気に飛び回っている。
 一護は屋根の上でそれを見ながら、ほとんど無意識で呟いた。
「平和だな……」
 と、呟いたその直後にばふんと顔に何かがぶつけられた。
 思わず「うぶっ」と呻く。
「おお、すまぬ一護。あまり前が見えなかった」
 そう謝ったのは顔も隠れるほどの布団を抱えたルキアで、一護はそこでそういえば布団を干していたのを取り入れる途中だったのを思い出す。
 屋根の上にも関わらず危なっかしい状態のルキアを支えようかとは思ったが、余計なことをするほうが危険かと思い直して、あと二枚残るうちの一枚を取りに器用に屋根の上を歩いた。

 一護たちが現世――浦原商店に来てから早約半月。
 今は、すっかり増えた客用布団の日干しの取り込みを死神総出で行っている。もちろん干すのも同様のメンバーだったのだが。
 なぜそんなことをやっているのか。理由は簡単である。すなわち、やることがないのだ。

 一護がぱんぱんと布団を持ち上げてはたいていると、横にあった最後の一枚を同じく持ち上げた者がいた。
 その者に、一護は眼下に広がる平和な町並みを見ながら、話しかける。
「なあ、冬獅郎。……こんなヒマでいいのかよ?」
「日番谷隊長、だ。……いいことなんじゃねえか、大して何も起こってねえんだ」
 何でもないように答えながら、日番谷も布団をはたき、持ち運びやすいようにぱたぱたと折り畳む。
「前みたいに連日連夜戦闘漬けよりマシだろ。……まあ、このまま敵が動かないとなると、俺たちも手詰まりにはなるがな」
 日番谷も平和な町を一瞥し、楽しそうに走ってゆく小学生たちを視界に入れた。だがすぐに視線を逸らすと、布団を抱え上げて、窓から部屋に入るべく、歩き出した。


 ――『黒田ナツ』が夏梨だと判明したあの日を境に、虚の異常発生はぱたりと途絶えた。もともとようやくの減少方向にはあったものの、あまり倒さぬほうが良いなどの条件が加わってやり辛くなっていただけにありがたいことではあった。
 とは言え、必死に戦っていた一護たちにしてみれば、拍子抜けと言えば、拍子抜けだった。
 だがどうやら、このことは浦原の想定の範囲内だったらしい。
「夏梨サンが安定したからッスね」
 きょとんとする一護たちに、浦原はあっさりそう言った。
「言ったでしょ、夏梨サンの霊圧は虚を呼ぶ。ですが、いつでもってわけじゃありません。霊圧が不安定なときの波長が源なんです。だから安定してるときはほとんど問題ないと言って良い」
「……じゃあ何だ、こないだまでは不安定な時期だったってことかよ」
 憮然と一護が問うたのに、浦原は「いえいえ」と笑う。
「時期というより、状況ですよ。……別人のフリをしなきゃいけないわ、行方知れずだった兄がそこにいるわじゃあ、不安定にもなりますって」
 軽く言われた言葉だったが、一護は思わず息を詰めた。
「本当は、自分の家にいるのが一番落ち着けたんでしょうけどね。もしものときに対応が遅れちゃ、元も子もないんで、ウチにいてもらいました。――ですが、ま、もういいでしょう。てことで、今日から帰宅を許可しました」
 ぱんっと扇子を開いた浦原がそう言ったのは、夏梨たちが新学期だと登校して行った日のことだ。つまり、ナツの正体が知れたその翌朝である。
 てっきり今日も浦原商店に帰ってくるのだと思っていた一護たちはきょとんとした。
 その中で問いを発したのは、ルキアだった。
「良いのか? いくら少し回復したからと言って、そんな……」
「大丈夫ッスよ。昨日一晩四番隊の回復セット当ててたら、びっくりするくらい回復してくれましたし。敵方もあれだけ力を吸収していれば、しばらく襲いに来ることもないでしょう」
「びっくりするくらいとは……」
「文字通りだよ」
 何やら呆れたような口調でそう言ったのは弓親だった。その隣の一角も微妙な表情で頷いている。彼らは早起き組で、今朝夏梨たちと朝食を共にしたはずだ。
「こないだまでの大人しさはどこ行ったんだってくらい、元気だったね。黙ってれば美しいのに、アレじゃだめだ。元気どころかガサツ、乱暴、口が悪い。さすが一護の妹だよ」
「ああ。あいつは確かに一護の妹だ。間違いねえ。……また俺をぼーさん呼ばわりしやがって……!」
 何やら額に血管を浮き上がらせて一角が拳を震わせたが、弓親は盛大に噴き出していた。
 同じく朝食の席にいたはずの日番谷を一護たちが見やると、日番谷はいつもの仏頂面で端的に説明した。
「いつぞやの初対面のときに、あいつが斑目を坊主よばわりしたらしい。……ちなみに食事中、うるさいからと花刈ジン太を蹴り飛ばしてた」
「……か、夏梨らしいと言えば、まあ……」
 何気にバイオレンスだった黒崎家で育った夏梨だ。もともと運動神経はいいほうだし、そのうち空手も習いたいと言っていたから、習っていたのかもしれない。
 そんなことを考えながら一護は相槌を打つ。
 と、笑っていた弓親が、ふと笑いを納めて、今度は面白がるような表情を浮かべた。
「……けどまあ、女だてらにいい根性はしてるみたいだね。さすが今まで生き延びただけはあると言うか。あれで男なら、十一番隊の末席ぐらいにならいてもいいかな」
 ――などというお墨付きを貰えるくらいに、夏梨は回復していたらしい。
 ともあれ、昔からの馴染みのせいもあり、言わずもがなで帰りなどには顔を覗かせるらしいという話を聞いた。


 それから、一週間。
 現状は、死神総出で布団干しをできるくらい、平和である。
「そういえば隊長、中間報告とか、行かなくていいんですか?」
 布団の回収を終え、一護たちはなんとなく居間にいた。暇に任せて買出しを兼ね町に出ている弓親と一角はいない。浦原や夜一、商店の者たちもここにはおらず、雑用に借り出された恋次も不在である。平日の午後であるから当然学生たる夏梨たちもいないが、時間的にもうすぐ顔を覗かすかもしれない。
 問われた日番谷は、開けられた窓の外を眺めながら、何でもないように答える。
「報告はしなきゃならねえ。……だがまだ、報告書諸々ができていない」
「あら、仕事速い隊長が、珍しいですねえ」
「……まあな」
 わかりづらいため息と共に呟いた日番谷を見て、一護は眉をひそめた。
「何か考えごとでもあるのか? 敵のこととか」
「……それも、あるな。気にするな、松本と違って常に考えごとくらいはある」
「うわ、隊長酷いですよ。あたしだって考えごとくらい……って、そっかそっか、そういうことね」
 ぶー、と不満げな表情を作った乱菊だったが、すぐに何やら思い至った様子で勝手に納得する。一護とルキアは首を傾げた。
「何だよ、乱菊さん」
「気にしないで。……それより、弓親と一角遅いわねえ。どっかで迷ってんのかしら」
「……そういや、出てってからもう結構経つよな」
 さらりと問いが流されたことに、一護は若干眉を寄せたが、すぐに気にしないことに決めて、時計を見る。
 四時半を回ったところ。そろそろ学生の帰宅時間だ。
「どうせやることもないんだし、あんたたち見に行ってみたら? まーたこないだみたいに学生に絡んでるかもよ」
 乱菊が言うこないだとは、ほんとうに『こないだ』だ。三日ほど前だったか、町に出ていた一角が盛大に喧嘩を繰り広げたのである。
「……だな。ルキア、行くか?」
「ああ。日番谷隊長、松本副隊長。ついでに何か欲しいものなどはありませんか」
「はーい! あたし、ワイン飲みたい、ワイン!」
「聞くな、朽木。松本、てめえは昨日一升瓶空けたばっかじゃねえか」
 ルキアの質問に答えた乱菊に、にべもなく日番谷が切って返す。
「えー、いいじゃないですかあ。隊長だって飲むでしょ」
「なくても全く問題ねえ」
「そんなだから熱愛疑惑の一つも立たないんですよ、成長したのは見かけだけですか。中身はやっぱり小さいままなんですねっ」
「……よくわかった松本。お前だけ長期滞在手当てカットだ」
「きゃー! 嘘です嘘です、冗談ですって!」
 などと相変わらず賑やかな十番隊の二人を苦笑で見つつ、一護とルキアは弓親と一角を探すべく店を出て行った。
 少しがらんとした居間に残されてた日番谷と乱菊は、一拍前までの賑やかさはどこへやら、ふと黙り込む。
 ぱたぱたと軽やかな羽ばたきの音を残して、窓辺をツバメが飛んで行った。
「やっぱり、苦労性ですねえ、隊長」
「……何の話だ」
「わかってるくせに。……報告書、どう書くか考えてるんでしょう? あの子の記憶が守れるように」
 あの子、という代名詞が誰を指すか正確に理解して、日番谷は黙り込む。
 だが、しばらくの沈黙のあとに口を開いた。
「……元々は、こちら側の、死神側のミスだ。あいつが記憶を残していること自体は罪じゃない。とは言え、例外措置というのも難しい。あの記憶置換の例外措置は、記憶を残していて日常に支障がなく、有益だと判断された場合に下されるものだ。いくら黒崎の妹とは言え、有益と言えるほどの力はないし、既に日常に支障をきたしている。……今、ありのままを報告すれば、すぐさま記憶置換が行われるだろう」
 日番谷は淡々と、目前の事実を述べていく。乱菊はその後姿を眺めながら、言葉を返す。
「……そっちのほうが、あの子の体にとっては、いいんでしょうね」
「ああ。霊圧の安定は、精神の安定だ。十中八九、霊圧の不安定さは残った記憶が引き起こしたものと考えて良いだろう」
「でもあの子は、それを望んでない」
 日番谷は、一度視線を落としてから、また空に視線を投げた。
「……とりあえず、原因の解明はできていないと報告しておく。根本の敵の能力の解明はでききってねえんだ、あながち嘘にはならない。……だが、全てが解決すれば、自ずとあいつのことも報告しなきゃならなくなるだろう」
 だから、と日番谷は声を低めた。
「俺たちができるのは、この事態が解決するまでの間だけ、あいつの記憶を永らえさせてやることだ」
 解決したあとは。
 そんなことは、言わずとも知れている。
 だから乱菊は、それ以上問わなかった。ただ、少し寂しそうな微笑を、口の端に乗せた。
「……さっき言ったこと、ちょっと訂正します、隊長」
「さっき?」
「ほら、苦労性って言ったじゃないですか」
「ああ……」
 乱菊は、訝しげな表情を浮かべた日番谷に、変わらぬ微笑で言った。
「隊長は、優しいですね。……相変わらず」


 騒がしい足音が店に踏み込んで来たのは、その直後だった。
「だーっ! ちくしょう、腹立つ!! おい一護、てめえは腹立たねえのかよ!?」
「ちょっと落ち着けよ、一角。あんなガキの言うこといちいち真に受けてんじゃねえって」
「そうそう。ずいぶん的を射た悪口だったけどね。……ぶっ」
「オイ弓親ァ! 何また笑ってんだ、てめえ表へ出ろ!!」
「……何賑やかにやってんだ」
 ほとんど騒音になりつつあった三人の声に、日番谷と乱菊が出て行くと、店に入った辺りで一護と弓親、一角がいた。
「あら、早かったのね。……って、朽木は?」
 弓親と一角を探しに行ったのは一護とルキアだ。だがそこに一護の姿しか見えないことに、乱菊は首を傾げた。
「ああ、もうすぐ来るだろ。今夏梨たちと小学生のガキどもの相手してるから」
「小学生? ていうか、夏梨ちゃんたちと一緒だったの?」
 これには、一角が憮然とした表情で答える。
「偶然そこの公園で会ったんだよ。あいつらが学校帰りにガキの相手してて、俺らはそれに付き合わされてたんだ。そしたら一護たちが来た」
 なので、これ幸いと逃れてきたらしい。弓親と一角は頼まれていた買い物袋を適当に置くと、やれやれと言わんばかりに部屋に上がりこむ。
 それから間もなく、また今度は軽やかな話し声が聞こえてきて、一護たちの言った通り、夏梨と遊子、ルキアの三人が顔を覗かせた。
「こんにちはー。あ、乱菊さんだ。三日ぶりくらいだよね。えーと隣は、日番谷くんだっけ」
「あら遊子ちゃん。夏梨ちゃんもいらっしゃい。何だか一気に帰ってきたわね。お茶してく?」
 乱菊の誘いに、遊子は明るく頷いた。
 だが、隣にいた夏梨は慌てたように違う返事をした。
「あ、ごめん乱菊さん。あたし今日はパス。ちょっと約束あるから」
 ――正体がわかってから以後、今まで一護たちとあまり関わりを持とうとしなかった二人は、驚くべき速さで若干残っていた確執を取り払い、馴染んでしまった。これはもう、性格うんぬんと言うよりは、遺伝かと思うほどである。
 兄である一護も、不思議とどこへ行ってもあっさり馴染んでしまう特技のようなものを持っている節があるが、どうやらそれは妹たちにも通づるらしい。
「約束って? あ、もしかして男……」
「違うってば。そういうの好きだなあ、乱菊さん。ちょっと公園でね……あ、そだ」
 ふと思い立った様子で、夏梨はどこか悪戯っぽく笑って、乱菊から視線を隣にいた日番谷に移した。
「冬獅郎、今ヒマ?」
「……何だ、藪から棒に」
「ヒマならちょっと付き合ってよ。大丈夫、三十分もあれば終わるって」
「何で俺が」
「高台の公園で、小学生とサッカーすんの。あんた以上に適役、いないでしょ?」
 にっと笑った夏梨は、それ以上の返事を聞かずにさっさと店を歩き出してしまった。
 呆れたような視線でそれを見送った日番谷だったが、結局、ため息まじりに足を動かした。
「ったく……まだサッカーなんて言ってんのかよ」
「何か言った?」
「別に。おい、先に行くな。道なんて覚えてねえぞ」
 などと言いながら、日番谷と夏梨は夕焼けが落ち始めた町に出て行く。
 その二人を見送った面々の中、一護が何気ない口ぶりで呟いた。
「何気に仲いいのな、あの二人」
「ま、夏梨ちゃんが小学生だったときにもサッカーの助っ人とかしてたしね」
「え、小学生? あの人、夏梨ちゃんと小学生のときから知り合いなの?」
 きょとんとした表情で遊子が首を傾げる。乱菊は遊子に入れてきたお茶を差し出しながら頷いた。
「から、っていうか、そのときっきりで今に至るわけだけど。今と変わらず遠慮なかったわね。正面からあの隊長をバカ呼ばわりして黙らせたのよ。もー、面白かったったら」
 当時を思い返したように楽しげに笑う乱菊だったが、遊子は何やらきょとんとしたままじっとしていた。
「どうしたの?」
「あ、ううん。何でもないの。……そっか、小学生……」
 笑顔で首を振った遊子だったが、後半は独り言のように小さな声で呟く。
 だから乱菊は、そこから先を上手く聞き取ることができなかった。

「もし、そうだったら……。死神、なのに……。ダメだよ、夏梨ちゃん……」

[2010.01.10 初出 高宮圭]