初恋連鎖

-春日遅遅-

11 : 見失っていたパズルのピースを見つけ出す

「おぶッ」
 一護は飛んだ。
 それはもう、飛んだ。
 鳩尾に手加減なしの回し蹴りをまともに受けて、部屋の中央から壁まで勢いよく。
 反動でよろけた夏梨を、背後にいた日番谷が何食わぬ顔で軽く支える。
 夏梨は支えを軽く借りて立ち直ると、壁際で壁に突っ伏した一護のほうへすたすたと近寄る。そしてやっと顔を上げた一護を冷ややかに見下ろした。
「なっなにす……かり……」
「――今のは、あたしの分」
 低い声が一護の呻きを遮る。
 そして、夏梨は再び足を振り上げ――不意を衝かれてひっくり返った完全に無防備な一護の背中に踵を落とした。
「いっ……だっ!!」
 完全に決まった。一護は今度は咄嗟にそれ以上を避けようと転がりざまに体勢を整え、夏梨と距離を取る。
 正面に立つ夏梨は、ほとんど無表情で一護を見ていた。だが、わかった。――何かとても、怒っている。
 夏梨はまた一護に近づいてきながら、淡々とした声で言う。
「今のは、遊子の分」
「え……」
 一護は瞠目した。だが頭が夏梨の言葉を理解しつくす前に、近づいてきた夏梨にぐいと腕を引かれて立たされる。
 一護が立っても、夏梨は掴んだ腕から手を離さなかった。
 至近距離で強い意志の宿った黒目を見て、一護はようやく蹴られた意味にはっとした。その、次の瞬間。
「――これは、お母さんの分!」
 一護の腕を掴んでいるその反対の右手で、夏梨は一護の横面を手のひらで殴り飛ばした。
 バシッと乾いた強い音がして、その音は一護の頭の中でこだまし、五人を越える人が集まる室内にも関わらず静かだった部屋に響いた。
 力一杯頬を張り飛ばされた一護はよろけた。けれど、倒れることはなかった。夏梨が腕をつかんでいたからだ。
 夏梨は俯いて、軽く肩で息をしていた。そのまま、頭を一護の胸に押し付ける。
 服を掴んだ手が、力の込めすぎで白くなっていた。けれど夏梨は力を緩めない。細い肩が、ようやく息切れから落ち着きを取り戻す。
「一兄の、ばか。大馬鹿兄貴……っ!」
 震えの混じったくぐもった声で、夏梨はバカ、と言い続けた。
 一護はただ黙って、その声を聞いていた。
 そして夏梨の声が途切れた頃、少しためらいがちに夏梨の肩に触れた。もう片方の手で、頭に触れる。どちらも、一護が知るより成長していて、ずっと大人びていた。
「……ごめん」
 一護は小さく、けれど確かに聞こえるように夏梨に呟いた。
「ごめん。……覚えててくれて、ありがとう、夏梨」
 夏梨からの返答はなかった。ただ、両手でしっかりとしがみついてきた。自分に比べて小さな、けれど五年前よりずっと成長したその体を、一護はしっかりと抱きしめた。

 と、実に深刻で複雑な兄妹の再会――だったのだが、それは夏梨が「ああっ!!」と唐突に声をあげて一護を付き飛ばしたことで、あっさり終わった。
「か、夏梨……?」
「一兄、邪魔! ウルルっ今何時?」
 しみじみ浸っていた一護は、アレ? とでも言いたげな表情をするが、邪魔の一言でばっさり切り捨てられる。
 夏梨は慌てた様子でウルルに問いかけ、ウルルは素早く夏梨のそばに来ると「深夜二時四十分です」と告げる。
 夏梨が思いきり苦い表情をした。
「……約二時間遅れか……怒ってる、よね……」
「で……でも、夏梨ちゃんが出てってすぐ、一時くらいにジン太くんが様子見に行って……」
「戻ってきてない?」
「……うん」
「まずいな……ジン太生きてるかな」
 夏梨とウルルは一護たちにはまったくわからない、けれど不穏な会話をする。だがそれを訊ねる前に、それはもう賑やかに出入り口が開かれる音がした。そしてずかずかと進む足音がして、スパーンと襖が開けられる。
 そこにいたのは、息を切らしているユウだった。
 だが、ユウを見て夏梨は瞠目し、呟く。それに一護はまた驚くことになった。
「ゆ、遊子? あんたなんで……」
「うわーん! 夏梨ちゃんだあっ!!」
 ユウはがばっと夏梨に抱きつく。それでなくとも体力が落ちている夏梨は受け止め切れずに派手にユウに押し倒される格好で倒れた。
 一方で一護は夏梨が口にした名前に内心で驚きと納得を味わっていた。
 夏梨はユウを遊子と呼んだ。つまり彼女は遊子で、一護が彼女に感じた既視感も、それゆえだったのだ。
 だが、疑問も残る。彼女たちは夏梨が正体を隠している間、当たり前のようにお互いに「ユウ」「ナツ」と呼びあっていたのだ。――まさか。
 だが一護の混乱もよそに、二人は周りそっちのけの空間を作り出していた。
 夏梨に抱きついたままユウ――遊子は、鼻をぐすぐすと言わせ出した。
「よかったあ……夏梨ちゃんだ、元気な夏梨ちゃんに戻った……っ。ずっと心配だったんだよ。死神とか偽名とかもうわけわかんないし、この人たち来てから夏梨ちゃん元気になるどころかどんどん元気なくなっていくし……っ」
「遊子……」
 しがみつかれて動けなくなった夏梨は、かろうじて自由な右腕で、ぎゅっと遊子の頭を抱きしめる。そして離すと、遊子はぐしぐしと涙を拭いながら起き上がって、夏梨も起き上がり、二人して座り込んで視線を合わせると、こつんと額をぶつけた。
 涙に潤んだ遊子の瞳を、夏梨は小さく微笑んで覗き込む。
「心配かけて、ごめん。もう大丈夫だから。……ありがと」
「……うん」
 遊子は心底ほっとしたように嬉しそうにふわりと笑って、そしてぱたっと倒れた。
「ゆっ遊子?」
 慌てて夏梨は呼びかけるが、それを「心配ねえよ」とジン太の声が遮った。
 視線をあげると、やたら疲れた様子でジン太が部屋に入ってくる。
「様子見に行って、いつもの電話がないのは店飛び出したからだって言ったら、あんまりお前が心配だって聞かなかったんだ。とりあえず明日まで待てって店長特製の睡眠薬飲ませたんだが。……どうにも気合でそれの効果ふっとばして、しまいにゃ飛び出してさ。今安心してようやく効いたんだろ」
 呆れた風情で言うジン太は、安らかに眠った遊子を見、夏梨を見て深々とため息をついた。何気に頑固な遊子を止めるため、相当頑張ったのだろうことがその表情から伺える。
 夏梨はそれに表情を崩して、くすくすと笑った。するとそれにウルルがぱあっと明るい表情になり、泣きそうな顔で笑って、遊子を抱える夏梨の手をぎゅっと握った。どうやら夏梨が笑ったのが嬉しいらしかった。
 その手を夏梨が握り返したところで、夏梨もウルルも遊子まで含めて、まとめてがばっと抱きしめた人がいた。夜一だ。
「仲良きことは美しきかな、じゃが、どうにも儂らその他が置いてけぼりじゃぞ、混ぜろ混ぜろ」
「うわっ夜一さん、こそばっ……ひゃあっ! ストップ、ギブアップギブアップ!!」
 夜一の腕の中から何とかウルルと遊子共々逃げ出した夏梨は、まだくすぐられた感覚が残っているのか、ウルルとしきりに笑い合って、そしてふとそれを納めると、目の前のウルル、眠った遊子、ジン太、夜一、浦原を順に見た。
「――ありがとう」
 夏梨に見つめられた誰もが驚いたような表情になる。それに、夏梨は言葉を重ねた。
「わがままきいてくれて、ありがとう」
 それにしばらく言葉もなく夏梨を見ていた夜一たちだったが、その沈黙はすぐに終わった。ジン太がわざとらしい咳払いをして、夏梨が抱えていた遊子を荷物よろしく抱き上げたのだ。そしてキッと夏梨を見る。
「バーカ! 礼言われるようなこと何にもしてねえっつーの! 俺は遊子寝かしてくるから、てめーは風呂にでも入ってろ!」
 そして、ずかずかと奥の部屋に進んでいく。わかりやすい照れ隠しだった。
 夏梨がそれにウルルと顔を見合していると、「でもま、そうですねえ」と浦原が寄って来て、ぽすぽすと夏梨の頭を撫でた。
「夏梨サン、体冷えてるでしょう。日番谷サンは厚着ですからマシでしょうが、シャワー浴びてきたほうがいいッスよ。その間にアタシらは、死神の皆さんにいろいろお話しときますんで」
「一護なんぞ、『理解不能』と書いてあるような顔をしておるしのう。それ、入ってこい。何ならウルルと行くとよいぞ」
 浦原と夜一に勧められて、夏梨は頷いた。冷たい夜風に長時間あたっていて、体が冷えているのは確かだったからだ。
 だが、ウルルを誘って風呂場のほうへ踵を返そうとしたところで、ふと夏梨は何かに気づいた様子で足を止めた。
「どうしたの?」
「忘れてた、これ」
 その場で、夏梨は無造作に着ていた上着を脱いだ。そして周りがきょとんとしている中で、それを黙って成り行きを見守っていた日番谷のところまで持っていく。
「冬獅郎、ありがと」
「ああ」
 日番谷が上着を受け取ると、夏梨は周囲が注目していることなど意にも介さず、あっさりウルルのところへ戻った。
「行こう、ウルル」
 それきり、二人は風呂場のほうへ姿を消す。
 残された死神組は、日番谷を除く誰もが何とも言えない表情をしていた。
 中でも一番困惑顔だったのは、一護である。
 彼の頭の中には、もう整理しきれない疑問が渦を巻いていた。
 まず。

「……冬獅郎、お前ら、知り合いなのか?」

 一度に色々と事実を知って、一護の頭は彼の生涯史上まれに見る大混乱であった。


***


「――つまり、遊子までみんなグルで、最初から俺らが死神だってことも知ってて、かつ俺が知らない間に夏梨と冬……日番谷隊長は知り合いだったってことか?」
「ま、そういうことッスねえ」
 浦原に話された説明をまとめて、一護は頭を抱えたくなった。
 死神代行をしていた高校生時代。その頃小学生だった夏梨は、知らない間に一護が死神だと知り、さらに日番谷たちとまで知り合っていて、しかも浦原商店の面子と一緒に虚退治もしていたなんて――全く知らなかった。否、死神だと知られていることはわかっていたけれど、ここまで深く関わっていたなどとは思っても見なかった。
「じゃあ、遊子は……」
「遊子サンは、あなたのことは覚えていませんよ。もっとも、どこかで忘れていないような節もありますが……表面的には覚えていない。でもウチの子たちと幼馴染みたいなもんなんで、今じゃそこそこ事情も知ってます。死神、虚、夏梨サンが狙われていること。……あんまり深くは話してませんがね」
 そんなわけでどうやら、遊子とは毎晩電話で連絡を取り合っていたらしい。今日はいつもの時間に連絡ができなかったから、夏梨は遊子が心配しているだろうと慌てたのだ。ちなみにジン太は心配性の遊子の性格を知っていたから、心配しすぎて家を出ないように様子を見に行ったらしい。
「ま、まさかナツが夏梨だったとは……」
 信じられない、とでも続けたそうに一人ごちたのはルキアだ。彼女も何だかんだと長らく黒崎家に居候していたのに、気づけなかったのが衝撃的だったようだ。ルキアのみならず、恋次たち他の面々も、微妙な表情をしていた。
「仕方ないわよ、あれだけ変わってたら。あたしも一応知ってたけど、全然わからなかったし。けど……」
 乱菊がため息混じりに呟いた。そして、彼女たちが囲んでいる机の輪には入らず、壁際に座っている日番谷をちらりと見る。
「何で隊長はわかったんですか?」
 それは一護も疑問だった。いくらサッカーの助っ人だ虚から守っただで顔見知りだったとは言え、たったそれだけのことだ。
 日番谷は感情の読み取りにくいいつもの仏頂面で顔を上げ、そして息をつきざまに答えた。
「霊圧だ」
「霊圧?」
 一護は首を傾げる。日番谷は頷いた。
「さっきの話で、俺たちが虚の大群に追われたあいつを助けたってのは聞いただろう。あのとき、不安定になったあいつの霊圧を、諸々の事情で俺の霊圧に隠す術を使ったことがある」
「あ、ありましたねそんなの。隊長、それであの子の霊圧、一時的に抱え込んでましたっけ」
 乱菊が思い出したように手を打つ。一護は目を丸くした。
「それで覚えてたってことかよ?」
「俺としては、仮にも死神なら妹の霊圧くらい覚えとけと言いてえんだが」
 低く言われて、一護は言葉に詰まる。共に戦っていた者たちの霊圧ならともかく、家族やその他の霊圧などほとんど気にしたことがなかった。
「まあ、その類が苦手な一護にそれをしろと言うのも無理な話じゃな。それでなくとも今夏梨はほとんど無意識で霊圧を消しておるし、よく気づいたもんじゃのう、日番谷」
 夜一がしみじみと感心した様子で言って、日番谷はふいと視線を逸らす。
 だがその逸らした視線の先で、日番谷をそれはもう見つめている人影があった。
「……なんだ、てめえ」
 思わず日番谷が顔をしかめて身を引くほどじいっと、けれど気配もなく日番谷を見ていたのは、テッサイだった。いかつい体格と顔をしているから、距離はあるのにかなりの迫力がある。
 テッサイは日番谷が声をかけると、体格には似合わぬ俊敏さで日番谷の目前に迫った。そしてドスの効いた声で問うた。
「お聞きしたいことがあります」
「何だ。……答えるから離れろ、近い」
 日番谷がさらに身を引くと、テッサイは「失礼しました」と距離を適切に取り直す。そして改めて、日番谷を見た。
「一時間三十分」
「あ?」
「一時間三十分、外で何をしておられたのでしょうか」
 唐突な意味の掴めない質問に、日番谷は面食らって少し戸惑う。だがその後ろから、「なるほどなるほど」と浦原ののんきな声がした。
 視線をやると、愛用の湯飲みを片手に浦原が言葉を続ける。
「さすがテッサイさん、どうやらアタシと同じこと気にしてたみたいッスね。――日番谷サン、つまりテッサイさんが訊きたいのはこういうことです。『夏梨サンを追いかけてってから帰って来るまでの一時間三十分、彼女にいったい何をしたんだ』ってね」
 一瞬、沈黙が落ちた。
 そして部屋中の視線が日番谷に集まる。
 言われて見ればそうだ。一時間三十分。それは弱った夏梨を捕まえるのに要した時間としては、あまりに長い。
 ならば捕まえたあと、二人は何をしていたのか。
「……おい、てめえら何か勘違いしてねえか」
 低い声で日番谷が言うと、明らかに疑いの眼差しを日番谷に向けている一護たちの中で、からからと浦原が笑った。
「ヤダなあ、そういう意味じゃないッスよ。……アタシたちが訊きたいのは、あの状態の夏梨サンを捕まえるのは簡単だったろうに、何で二時間もかかったのか。いえ、――たった一時間三十分で、どうやって彼女をあそこまで回復させたのか」
 その問いに、一護たちはきょとんとし、日番谷は納得した様子で肩をすくめた。補足するようにテッサイが続ける。
「夏梨殿は店を出る前から既にかなり衰弱していました。だというのにあの体で走って、持つわけがないのです。まず動けなくなるでしょうし、気を失ってもおかしくはない。だというのに、彼女はどうやら自分で歩いて帰って来た。そうですな?」
 テッサイの確認に、日番谷が頷く。
「しかもどうやら見たところ、寝たきりになってもおかしくない程度から、日常生活に支障がないくらいには体力を取り戻しておられるようです。――いったい、何をされたのです?」
 言われて見れば、確かに店を出る前より夏梨の様子が楽そうになっていた気はする。少なくとも、真っ青なあの顔色ではなかった。
 日番谷はジーパンのベルトに手をかける。そして小さなポシェットが五つついていたそれを全て外して、テッサイに無造作に渡した。
「これは?」
「四番隊特製救急セットだそうだ。……浦原、てめえが頼んだそうだな」
 すると、浦原はそれだけで納得したように「はいはい、なるほど」と頷く。だがテッサイには伝わらなかったらしく、一護たち共々説明を求めるように浦原を見た。
「万が一、夏梨サンの容態が深刻になったときのためを思って、アタシが頼んでたんスよ。ウチにも色々ありますが、あっちは本業ですからね。で、日番谷サン、何を使ったんです?」
「霊圧の補助増幅剤、あとは回復用の完全遮断領域陣だ」
「……それだけッスか?」
 浦原がきょとんとした様子で瞬く。
「そうだが」
「それで、あんなに回復したんですか? あんなに?」
 どうやらだいぶ意外らしい、繰り返し問われて、日番谷は若干うるさそうに眉をひそめた。
「あとはあいつが寝たから、起きるまで放ってただけだ」
 何気ない付けたしだったのだが、これには浦原のみならず、テッサイ、夜一も目を丸くした。そして三者は意図せず声を揃えて、
「寝た!?」
 と、日番谷に詰め寄った。
「寝たって、日番谷サン。それはつまり、夏梨サンが自力で普通に寝たってことッスか?」
 何とも濃い三人に詰め寄られた日番谷は、思わず逃げるように立った。
「自力も何も、寝るっつったらそれしかねえだろうが。静かになったと思ったら、もう寝てたぞ」
「何をしたのじゃ、おぬし」
 夜一がさらに詰め寄ってきて、日番谷はさらに襖のほうへ逃げる。
「だから、何もしてねえ! おおかた、泣き疲れただけだろ」
 すると詰め寄っていた夜一が静止して、ぽかんとした。同時に日番谷はしまったという表情になる。彼女が泣いたことは言うつもりはなかったのに。
 その間に机を囲む面々――主に乱菊から非難の声があがる。
「ええっ隊長、女の子泣かせたんですか!?」
 もうこうなっては仕方がない。自身にため息をつきながら、訂正を入れる。
「泣かせたんじゃねえ、泣いたんだ」
「同じことですよ、さいてーい!」
「てめえ人の話を……」
 日番谷が眉間の皺を深くしたところで、静止したままだった夜一がふっと柔らかく笑うのが視界の端に留まった。それはとても優しい、安堵した表情に見えた。
「――そうか、泣いたか」
 夜一は一言呟いて、そうかそうかと口の中で繰り返す。それがやたら年寄りくさい動作に見えたのは、言わなくて正解だったろう。
「じゃが、そういうことなら納得じゃな。――誰しも睡眠が一番の体力回復になる。元からの力もあって、あやつの場合はそれが顕著じゃからのう」
 夜一の言葉に浦原もテッサイも納得した様子で、浦原は日番谷から受け取った救急セットをしまいに、テッサイは皆の飲み終わった湯飲みを回収して席を立つ。
 そんなときだ。
 夏梨とウルルが消えた風呂場のほうから、何やらやいやいと賑やかな声がする、と思いきや、ぱたぱたと軽く走る足音が一人分近づいてきた。
「上がったようじゃな。……じゃが、何を急いで……」
 夜一が呟くと同時に、日番谷の背にあった襖が開いた。風呂場から一番近いのは夜一がいる出入り口だ。だから回り込まねばならないこちらは開かないと思っていたばかりに、反応が遅れる。
 咄嗟にどき、振り向くとそこにきょとんとした風情で立っている夏梨と目が合った。しかも夏梨は日番谷を認識するや、うげ、とでも言いそうな表情になる。
 だが日番谷はもっと微妙な表情になった。それは、夏梨の格好のせいだ。
 襖が開く音に視線をそちらにやっていた部屋の中の面々も、一瞬ぽかんとした。
「おま……なんつー格好……っ」
 日番谷は思わず呟いてからばっと体ごと視線を逸らす。
 何しろ夏梨の格好は、半袖の白シャツ一枚だった。どうやら大きめのようで太もも下辺りまでは隠れているが、そこから覗く湯上りらしい少し紅潮した肌色の足が妙に艶めかしい。
 夏梨は眉をひそめてやや開けた襖を若干閉めつつ、隙間から頭だけを覗かした。
「よりにもよって何でこっちに……ああもう、いいや。夜一さんいる?」
「なんじゃ、どうした」
 夜一が足早に寄ってきて、夏梨がほっとした表情になる。どうやらわざわざ遠回りの出入り口を選んだのは人目につかないためだったらしい。残念ながら思惑は外れ、返って目立つことになってしまったけれども。
「いや、上がったはいいけどあたしもウルルも着替えの存在をすっかりさっぱり忘れてて。とりあえず今は風呂場に一枚だけあった店用のシャツ着てるんだけど」
「ああ、なるほどのう。……ということはお前、今真実それ一枚だけなのか?」
「うん」
 あっさり夏梨は頷いた。夜一は途端に夏梨の肩を押して部屋を出ると、スパンっと襖を閉める。だが声はほとんどそのまま聞こえた。
「年頃の娘が風呂上りに下着もなしに歩き回るなといつも言っておるじゃろうが!」
「いや、夜一さんだってしょっちゅうじゃ……それに今日はタオルじゃなくてシャツだし」
「余計際どいわ! いつもならともかく、今は店に男がたむろしておるのを知っておるだろう」
「あたしに発情するような男いないじゃん」
「花も恥らえ十七歳!」
「しょっちゅう素っ裸で歩いてる夜一さんに言われてもなあ……」
 ――などという会話がその男性陣に丸聞こえでは、恥じらいも何もないというものだ。
 それでも部屋の中で、何ともはやな会話にコメントが許されたのは、空気的に女性陣だけだった。
「……まあなんて言うか、アレよね。子供っていうか、女の成長は早いっていうか」
 乱菊は賢明にも沈黙を貫く、けれどおそらく確実に夏梨を見た男性陣を一瞥し、どうやらぽかんとしたまま戻ってきていないルキアに嘘偽りない、しかしだからこそ容赦ない言葉をかけた。

「女としての色気なら、朽木より上よねえ」


***


 とりあえず夜一に連れて行かれた夏梨たちはそのあと無事に着替えを済ましたらしい。だがそのあと一護たちの集まる部屋に姿を現すことはなかった。
 疲れているので休ませたと、帰って来た夜一が説明した。
 かくして、状況をひっくり返した長い夜は終わりを告げ、まだいまいち治まらない気分を持て余しながらも、一護たちもあてがわれた部屋で休むことになった。

 そして翌朝。
 彼らはばたばたという騒がしい足音と、「いってきます!」と言う若々しい声で目をさました。
「あっ待って夏梨ちゃん、現国のノート……」
「現国くらいノートなくてもなんとかなるって、行くよ!」
「むむっ、夏梨殿、あまり走ってはいけませんぞ」
「わかってるって。ほら、遊子! どうしてもならあたしの貸すから、行くよ!」
「しんどくなったら、帰って来てね」
「ありがと、ウルル。……じゃ、今度こそ行ってきます!」
 賑やかな声と、騒がしい足音が勢い良く店から飛び出していくのがわかる。
 寝ぼけた頭でのそのそと起きて行った一護は、のんびり食事する浦原と、片付けをするテッサイと顔をあわせた。
「何だぁ……?」
 ふあ、と大きなあくびをしつつ訊ねていると、同じく起きたらしい恋次がぬぼっと部屋に出てきた。
「おはようございます、黒崎サン、阿散井サン。松本サンと朽木サンがまだですが、ご飯食べちゃってくださいよ」
「他は?」
「早起き組は、夏梨サンたちに合わせて先に食べましたよ」
 ようやく眠気を振り払いながら、一護は訝しげに首を傾げる。いつもはそんなに早くなかったはずだ。
「何であいつらそんな早いんだよ?」
 すると浦原はあっさり笑ってみせた。
「ヤダなあ、もう忘れちゃったんスか。――夏梨サンと遊子サンは、学生ですよ? さて、今日は何月何日でしたかね」
 回りくどい言い方をされて、けれどすぐに一護は理解した。
 カレンダーを見ると、今日は四月九日。
「新学期、ってことか」
 なるほど、道理で今までゆっくりしていたはずだ。何も思っていなかったが、春休みだったのだ。
 ご名答、と浦原は茶をすする。
「お二人とも今日から高校三年生ですよ。時間ってのは早いもんですねえ」
 しみじみと響いたその声に、一護もまた、ほとんど無意識にしみじみと頷いた。
 本当に、なんて時間は早い。
 容姿的に、五年前とほとんど変わらない自分。
 他人と紛うほど、成長し変化した子供たち。
「……ちゃんと、しねえとな」
 ――もっとちゃんと、護ってやりたい。護れる今だけでも、確実に。

 誰にともなく呟いたその声は、平和な朝日が差し込む、夏梨たちが出て行った店の戸口に少しだけ響いた。

「春日遅遅*春の日の暮れることが遅いこと。春の日がうららかでのどかなさま。(goo辞書)」
[2009.11.18 初出 高宮圭]