初恋連鎖

-悲哀連鎖-

10 : 沈めたもの

 ――『自分を置いて行く周りの変化から、目を背けるな』

 言葉が、巡る。映像が、記憶が過ぎる。
 日番谷がナツを追って行った後、一護はひたすら混乱する頭を抱えていた。
 人一人分空けた隣にはルキアが黙って座っていて、向かいの壁際には恋次、窓辺に乱菊、戸口寄りに一角と弓親がおり、ふすまのほうには夜一と浦原もいる。
 だが、それだけの人数がいる部屋にしては息が詰まるほどの沈黙があり、誰もそれを破ろうとはしない。
(背ける?)
 壁に背中を預けて、言葉を反芻させる。
(背けてなんか、いねえ)
 受け入れたはずだ。ずっと大切にしてきた故郷を失うことも、そこに住む人々の中から自分が消えることも、自分が人でなくなることも。
 それで守れるものがあると思った。死神になることで、永遠に近い時間を得ることで、大切なものたちを守れると思ったのだ。
 けれど。
 旧友が、家族が。変わってゆくことを本当にわかっていたのだろうか。
 永遠の意味を、履き違えてはいなかったか。
 人は変わって行く。死神よりももっと早く、成長し、老いて行く。そして老いた先に、死んで行く。そういうものだ。
 わかっていたつもりだった。
「俺は、」
 掠れた独り言が、喉から漏れる。
 わかっていたつもりで、――本当はわかりたくなかった。
 だから、変わらない旧友たちを見て無性にほっとしたし、町の風景にささいな違いを見つけるたび、寂しくなった。
 自分だけが、死神として別の時を生きるというのは、それまで一緒だった人々に置いて行かれるということだ。
「……わかってなんか、なかったのか……?」
 記憶では幼いままだったジン太やウルルが様変わりして成長していて、何よりも気になっていたはずの家族を見に行くことをためらった。自分の知らぬ間に成長し、老い、そして自分を忘れた家族を見ることを恐れた。

 忘れることを恐れた。

 唐突に、頭に浮かんだ自分の考えに、一護は目を瞠った。走ってもいないのに、嫌な緊張で心拍数が上がる。
(今、何を考えた)
 過ぎったのは、家族の顔だ。五年前で止まってしまっている、かけがえのない大切な記憶。たとえ彼らの中からそれが消えても、どんなに時間が経っても決して忘れることはないと、誓ったはずの。
(そうだ。忘れてなんか、ねえ)
 覚えている。今でも鮮明に思い出せる。
 だがそこで、一護は一瞬全ての動きを止めて、呆然とした。
 ――忘れてなどいない。覚えている。『五年前の姿』を、今でも、鮮明に。
 中学に上がる直前だった妹たち。その娘たちに構いたがる父親。その中にいて、日常を過ごした自分。その記憶は、薄らぐことはない。
 けれど、あれから五年を数えた今、家族たちがあのままでいるわけはないのだ。
 そう思い至った瞬間、一護は唐突に理解した。
 『彼女』に感じた、あの既視感の正体は。
「――くそっ!!」
 毒づいて、壁に拳を思い切り叩きつける。一度では足らずに、力任せに何度もそれを繰り返した。
「一護!」
 半分悲鳴のような声とともに拳が止められたのは、打ち付けすぎた拳に血が滲みだした頃だった。
 腕に感じる重みに、一護は我に返る。見ると、ほとんど腕に抱きつくようにして、ルキアが拳を止めていた。
「もうよせ、一護! 一体どうしたと言うのだ!?」
「ルキア……」
 一護を正気に返すようにルキアは声を張り上げる。それでようやく、一護は腕を力なく落とした。
 ルキアは心配そうにしながらも腕を離し、周りにいた乱菊たちも、一護の行動に驚きを隠せない様子だった。
「……悪い、もう、平気だ」
 ずるりと拳を引き寄せ、抱える。打ち付けすぎたせいか、しびれて感覚はない。滲んだ血が手首辺りで止まっていた。少し痛むが、手当てを拒むように握りしめる。
 そして、嫌な緊張に満ちた沈黙を、低い声で破った。
「わかったんだ」
「……何がだ?」
 伺うように、ルキアが相槌を打つ。誰もが耳を澄ましているのが感じられた。
「『黒田ナツ』を、見たことがある気がした理由」
 現世に来たあの日、一護はナツを見て、妙な既視感を感じた。けれどどうしても、その正体を見つけることができなかった。――けれど、今ならばわかる。知っていた。一護は確かに、彼女を知っていた。
 そしておそらくは、彼女も一護を知っていた。
「黒田は、夏梨だ」
 傷ついた拳に構わず力を込めて、一護はその名前を口にした。
 ルキアが、乱菊が、一護の呟きに耳を疑ったかのように動きを止める。
 一護は骨が軋むほどに拳を握りしめて、叫んだ。

「あいつは、俺の妹だ!」

 今なら、わかる。
 あのとき。彼女がふすまを開いて、その姿を見せたとき。
 本当は、わかっていたのだろう。――わかったのだ。彼女が『黒崎夏梨』であることが。けれどそれを、認めることができなかった。無意識が、認めることを拒んだ。
 それがなぜかも、わかる。怖かったのだ。記憶置換が行われ、一護の知らぬ時を生き、成長した妹の中に、兄はいない。一番近しかった家族に忘れられている現実を、置き去りにされた時間を、一護は無意識に拒んだ。
 そうして、自ら防衛線を張ったのだ。
 ――『お前、名前は?』
 そう訊ねた一瞬に歪んだ彼女の表情は、覚えていない。ただ、その次に訊ね返された言葉に、自分がひどく安堵したのは覚えている。
 ――『あんた、誰?』
 自らも知らない、相手も知らない。ああやはり別人だと、そう自分に自分で錯覚させたのはあのときだ。
 だが今なら、一護はその錯覚が間違いだったとわかる。
「なんでだよ……」
 絞り出すように声を震わせて、一護は吐き出した。
「何であいつ、俺のこと覚えてるんだよ!?」
 彼女は、一護のことを覚えている。その確信がある。でなければ。
「何で……別人のフリなんか、するんだよ……!」
 自分は『黒田ナツ』だと名乗ったのは、紛れもなく彼女だ。
 これに答えたのは、それまでひたすら沈黙を守っていた浦原だった。
「――そういう約束だったからですよ」
 声に、一護はばっと顔を上げる。浦原は一護の視線を正面から受け止めて、続けた。
「『自分からは決して名乗らないこと。わかってもらえない場合は別人として対応すること』……それが、アタシたちが彼女に黒崎サンたちと会うにおいて与えた条件です」
「どういう……ことだよ……」
 一護のみならず他の面々の視線も集まる中で、浦原は座したまま説明を始めた。
「五年前の記憶置換は、かなり大掛かりなものでした。だからこそ、ミスは許されなかった。けれどなぜか、彼女は記憶を失わなかった」
 もちろん、と浦原は続ける。
「夏梨サンは記憶置換の『例外』ではありません。アタシたちも、三ヶ月前、例の虚に襲われてる彼女を保護するまで、記憶は消えたものだとばかり思ってました。――でも実際は、彼女はわけもわからないまま、周りの人間全てがなぜか消えた兄を忘れた状態の中で、一人その記憶を抱えて生きてきた。更には、虚にも狙われ続ける日々を過ごしていました」
「そんな……」
 乱菊が言葉を失って、瞠目する。一護も誰も、同じように何も言えなかった。まさか、子供にそんな日々が耐えられるとは思えない。
「……彼女なら、アタシたちなら記憶を失っていないだろうことに気づいていたはずです。虚のことも、自ら言って来ることもできたはずだ。けど、見つけるまでの五年間、彼女は一人で耐え続けた。なぜそんなことをしたか、わかりますか?」
 これは、答えを期待していない問いだった。言い聞かせるようなその問いを、隣にいた夜一が引き取る。
「夏梨は、儂らが一番最初に保護しようとしたとき、真っ先に逃げた」
「……逃げた?」
「ああ。すぐに捕まったがの。捕まってまず、あやつが言った言葉はこうじゃ。――『消さないで』とな」
 一護は、また瞠目する。夜一は一護を見つめて続けた。
「その時点で、あやつは既にかなり衰弱しておった。じゃが、全てそっちのけで懇願したのは、おぬしの記憶を消さないで欲しいということじゃった」
 記憶が失われていないのが見つかれば、自分の記憶も消されてしまうだろうと、夏梨は考えたらしい。それを嫌がった夏梨は、たった一人でそれを抱え、虚に襲われながらも生き延びたと言う。
 夜一の言葉を聞きながら、一護はゆっくり視線を落とす。
 我慢強い妹であることは、知っていた。けれど、それは、ただ『我慢強い』という言葉だけでは終わらせることはできない。何より、それならば、夏梨に酷な我慢をさせたのは、一護のせいだ。
「儂らは、記憶を消さぬことを約束して、夏梨を保護した。……じゃが、もしこのことが尸魂界に伝わった場合、問答無用で記憶置換が行われる可能性は高い。それを隠すために、融通のききそうなおぬしらを呼び、夏梨には偽名を使わせたのじゃ。これならバレてもバレずとも、問題はない」
 もっとも、と夜一は続けた。
「本当は誰とも知らぬ死神を呼ぶほうが、バレない確率が高かった。それでもあえておぬしらを呼んだのは、夏梨の希望じゃ。――兄に会いたいという、な」

 戸口が開く音がしたのは、ちょうど声が途切れたそのときだった。一護たちは揃って戸口のほうを見やる。
 まだ開けられていないふすまの向こうからは、二つの足音がしていた。
 帰ってきたのだ。
 それがわかって、思わず一護は立ち上がる。だがそこで、動きを止めた。
(会って、どうする)
 今まで散々、無意識とは言え、実の妹を傷つけてきたことには変わりない。やっと気づいたからと言って、どんな顔で会えるだろうか。
 まずは何を言えばいい。謝罪か、それとも。
 だがそうして一護が動けないでいるうちに、ふすまが開いた。
 現れたのは、紛れもなく夏梨だった。『黒田ナツ』では、ない。
 その後ろから、日番谷が入ってくる。
 ふすまが閉められて、夏梨が目の前に立ち、まっすぐに見据えてきてもまだ、一護は動くことができなかった。
 何を言っていいかわからない。だが、黙ってもいられない。――しばらくの逡巡の後、何とか、名前を呼んだ。
「……夏梨」
 一護が呼んでからしばらく、夏梨は微動だにしなかった。だがふと背後にいた日番谷に促されるように背を押されて、日番谷を振り返り、目を合わせて表情を変えずにこくりと頷く。
 そうして一護をもう一度振り返り、まっすぐに見つめて直して、呼んだ。

「一兄」

 ――酷く懐かしい響きが耳に届いたその次の瞬間、一護のみぞおちに、それは見事な回し蹴りが決まった。

[2009.08.27 初出 高宮圭]