闇が吹き付けてくる。
そんな錯覚を覚えそうになるほど、今夜の闇は深かった。今にも降り出しそうな雨雲に隠れて、星も月もないからだ。
ましてや、時間は深夜である。ほとんどの家の明かりは消え、ぽつりぽつりとある街灯のみが日番谷の走る道を照らしていた。
闇の中に隠れるように、日番谷の追う彼女は走っている。だが、確実にそのスピードは落ちていた。そこそこの時間差を持って追いかけたにも関わらず、後少しで追いつける程度には。
なぜ、逃げるのか。
その理由はわからない。ただ、できるだけ早く彼女の足を止めてやらねばならないことはわかっている。
ほんのひととき、店で見た顔色も、様々なデータから見ても、彼女に走れる体力は残っていないはずだ。意志の力でそれをおして動いてしまえば、体のほうが耐えられまい。
夜の静寂を裂くように、二人の足音が高く響く。
商店街を抜け、光から遠ざかるように彼女は走り続けた。
ようやく日番谷が彼女の腕を捕らえたのは、光源の何もない、高台の道筋だった。
「――おい」
彼女は、大きく肩で息をしながらも、全く日番谷のほうを見ようとしない。声をかけてもそれは変わらず、むしろ腕を振り払おうとするが、力が足りなくて適わない。
日番谷は逃すまいと思いながら、捕らえた腕の頼りなさに少し戸惑ってもいた。
女の腕が、男のそれより細いことは知っている。だが、今掴んでいる腕の頼りなさは、女だからと納得するには行き過ぎていた。病的なそれにさえ感じる。
「離して」
彼女は日番谷を見ずに、荒い息の狭間で、けれどしっかりと言った。
「断る」
「……なんで、追ってくるの?」
揺らぎを押し殺した声で、彼女は問うた。闇に慣れた視界の中で、背を向けた小さな体が、精一杯の拒絶を示している。
日番谷はそれに気づいても、捕らえた腕を離すことはしなかった。
「追う必要があったからだ」
「なに、それ。あたしは――あんたのことなんか、知らない」
やっと息が落ち着いてきたらしい彼女は、相変わらず淡白な口調で言った。日番谷はそれに少し眉をひそめたが、低く「そうか」と相槌を打つ。
「なら、こっちを向いて、もう一度言え。――言っておくが、俺はお前を知っている」
彼女の体が、驚きと緊張でびくりとしたのがわかった。そして日番谷の注文を拒むようにまた腕を振り払おうとするのを、少々強引に腕を引いて、日番谷のほうに向かす。
闇に紛れて、ほとんど表情は見えない。けれど、頑なに日番谷から視線を逸らしているのはわかった。
腕を捕らえたまま、正面から彼女を見た日番谷は、いつもの落ち着いた声で言葉を続けた。
「お前は、『黒田ナツ』じゃねえ」
「なに……言って……」
彼女の声が明らかに揺れた。精一杯逃げようと体を引こうとする。まるでその続きを聞きたくないと言うように、日番谷を見ようとしない。
「黒崎夏梨」
その名前を口にした途端、わかりやすく彼女の体が震えた。そして、思わずといった様子で上げた視線が合う。
日番谷はその瞳をまっすぐ見返して、繰り返した。
「お前は、黒崎夏梨だ」
「……なんで」
掠れた声が、か細くこぼれる。彼女は夜目にもわかるほどはっきりと、表情を頼りないものへ変えた。そうして、俯く。そのまま体は力をなくしたように、ずるずると地面にへたりこんだ。
どうやら、立っていられなくなったらしい。小さくだが不規則に肩が上下している。
「おい、」
「なんで、わかるんだよ」
日番谷の声を遮って、彼女はくぐもった声を出した。くぐもって聞こえるのは、彼女が深く俯いているからだ。
おそらくもう逃げはしないだろう。そう考えて、視線を合わせるように屈むと同時に腕をそっと離してやる。
「……俺のことを、覚えてるか」
彼女は答えない。
日番谷は続けた。
「お前に兄がいたことを、覚えてるか」
びくりとまた震える、わずかな反応が返る。けれどそれ以上はなかった。顔を俯けたまま、地面の上に縮こまって、日番谷を拒絶していた。――否、拒絶と言うよりは、怖がっているようにも見えた。
「――黒崎夏梨」
促すように、名を呼ぶ。それはどちらかと言えば問いに答えさせるための催促ではなく、それが彼女の名だと認識させるためのように、呼ぶ。
「夏梨」
繰り返される呼び声に、ようやく彼女は、ゆるゆると顔を上げた。その表情は、いっそあどけないほど頼りない。
「……なんで」
一言呟いて、また俯いた。
「一兄だって、わからなかったのに」
地面についた手のひらが、固く握りしめられているのを、日番谷は見た。体の疲労のせいだけでなく、その体が震えていることもわかった。
冷えた風が、二人の肩を撫でていく。四月に入ったとは言え、夜風は冷たい。まして、二人は温かみのないアスファルトの道路に座りこんでいる。
俯いたままの彼女――夏梨を見て、日番谷は黙ったまま羽織っていたジャケットを脱いだ。義骸の服を選んだのは自分ではないが、あってよかったと思う。何しろ夏梨の服装は、飛び出してきたせいで薄い室内着だったのだ。これでは体調が悪化しかねない。
できるだけそっと、細い肩にかけてやる。俯いてしまえば、彼女のその長い髪のせいで表情はほとんど見えない。けれど、わずかに顔を上げて、夏梨はかけられたジャケットの端を片手でぎゅうと掴んだ。
「忘れて、ない」
ゆっくりと俯いたままだった顔を上げながら、掠れた声で夏梨は言った。
「一兄のこと、死神のこと、――冬獅郎のこと、忘れてないよ……!」
ひどい痛みを伴った声だった。
――五年前。黒崎一護が正式に死神になるに伴い、例外を除き、現世で一護、または死神に関わった者すべての記憶が消され、置換されることになった。正確には知らないが、確かに例外はいる。だが、彼女がそれに含まれていないことは明らかだ。なぜなら、一護本人が、特に家族や親しい者たちから消してくれと望んだからだ。それは彼なりの思いやりだったのだろう。家族を大切にしているからこその申し出は、受理されたはずだ。
そうして、大規模だからこそ慎重に行われたこの作業に、失敗などなかったはずだ。
けれど。
「……ああ」
彼女の記憶は、なぜか消えなかった。原因はわからない。だが、消えなかったのは事実なのだ。
記憶が残っていることに日番谷が気づいたのは、夏梨が店を飛び出す直前だ。
彼女は日番谷の顔を見て、ひどく驚いた顔をした。日番谷のほうは、一瞬誰なのかわからなかった。だが、不意に揺らいで滲み出した霊圧に気づいた。一度は隠し抱え込んだこともあるその霊圧を、日番谷は覚えていた。そして何より、彼女は走り出す直前、唇だけで彼の名前を呼んだのだ。
――『とうしろう』
彼女も無意識だったのだろう。慌てて口を覆ってはいたが、至近距離にいた日番谷には、それがはっきりとわかった。
彼をそう呼ぶ者など、今の知り合いの中にはいない。過去呼んでいた一護でさえ、今では日番谷隊長と呼ぶ。
二重に驚いた。思わずとっさに体が動かなくなるくらいには。
まず、なぜここに、と一つの思考が動く。それから、なぜ名前を、と思う。記憶は、と考えかけたときに、一護が彼女のことを『黒田』と呼んだ。そして続いた浦原商店の面々の反応から、確信した。
――彼女は、一連の記憶を失っていない。そして、『黒田ナツ』でもない。
ぐらりと夏梨の体が倒れかかったのは、そうして日番谷が黙っていきさつを思い返していた最中だった。
意識を飛ばしかけたように、不意に横に体勢を崩し、だが倒れる寸前で持ち直す。
「おい!」
「……だい、じょうぶだって」
とっさに日番谷が伸ばした腕から逃れるように身を引き、夏梨は苦しそうな息をつく。
相当体力を消耗している。弱った体であれだけ走ったのだから当然だ。
「その様子で、何がどう大丈夫だって言うんだ」
「……しばらく、動かなかったら治るから、平気」
「倒れられたら困る。掴まれ」
手を出すが、夏梨はその手をどこか困惑したような様子で眺めるだけで、取ろうとしない。仕方なく日番谷から手を伸ばせば、今度はあからさまに逃げられた。
「……なぜ逃げる」
問うて、日番谷はそういえば店から逃げ出した理由も知らないことに思い至る。それも問いかけようとしたときに、案の定、また夏梨が意識を飛ばしかけた。今度は持ち直すこともできず、前に倒れる。
「言わんこっちゃねえ」
日番谷はぼやきながらそれを正面で受け止めた。その振動で、意識がまた戻ったらしい。日番谷の肩に埋まった夏梨の頭がもそりと動く。
「……あれ」
「あれ、じゃねえ。いいから、大人しくしてろ」
だが、手早く横抱きの姿勢を整えた日番谷の胸を、尚も夏梨は嫌がるように押し返した。
「自分で座れる」
「座ったまま意識飛ばされちゃ適わねえ。少々嫌でも我慢しろ」
日番谷のその言葉に、ふと夏梨の抵抗がやんだ。あきらめたかと多少ほっとしたが、何かいまいち釈然としない。
「……嫌ってわけじゃ、ないけどさ」
ぼそりと、小さな声が聞こえた。ふてくされたような、拗ねたような声音だ。
「じゃあ、なんで逃げる?」
「……嫌だったから」
「……お前な」
「あんたにも、わかってもらえないと思ってたから」
それで、日番谷は気づく。
一週間、彼女は実の兄と至近距離にいながら、全く気づかれていなかった。
「お前誰だって聞かれるのも、違う名前で呼ばれるのも、もう嫌だったんだ」
だいぶ体がだるいのだろう、話すうちに夏梨の体の力が抜けて、日番谷の胸に体を預ける。
自分で決めたのに、と小さく呟いて、息をつく。それに会わせるように、日番谷も息をついた。
「当たり前だ」
「え……」
「お前はお前以外の何者でもねえ。……嫌で、当たり前だ」
それに、夏梨は驚いたようだった。顔は見ていないが、気配でわかる。きゅ、と胸元の服が掴まれる感触があって、小さな声が「うん」と返事をした。
「悲しくて、当たり前だ」
「……うん」
「――だから、我慢してんじゃねえよ」
それに、返答はなかった。ただ、服を掴む手に力が入ったのと、押し殺した嗚咽が、わずかに聞こえた。
日番谷は座りこんで胸に夏梨を抱えたまま、ただ黙って闇を見つめていた。
どれくらいそうしていたか、嗚咽に紛れて、小さく名前を呼ばれたのに気づく。
「とう、しろう」
「……なんだ」
「ありがとう」
泣いているからか、まるで日番谷の知らない声の響きで、夏梨はそう言った。そこで今更、そういえば泣いたのを見るのは初めてだ、と思う。
「……いいから、好きなだけ泣いとけ」
淡白に返して、日番谷は自分より小さな体を抱え直した。
[2009.08.16 初出 高宮圭]