かこーん、と庭の鹿威しが鳴る。
さらさらと水の流れる音が耳に涼しく穏やかだ。――だが、今この場でその雰囲気を楽しんでいる者など、おそらく一人しかいない。
差し出された茶を礼儀に気をつけて受け取った日番谷は、同時に出そうになったため息を全力で堪えた。
「全員に茶と菓子は行き渡ったかの」
のんびりとした口調で問うた、この場の支配者たる山本総隊長は、現存する護廷十三隊全隊長副隊長(代理含む)を見渡して、満足げに頷いた。
「では、茶会を始めるとしよう」
尸魂界、一番隊隊舎の一角。そこには、総隊長が直々に作らせた茶会用の和室がある。そこでは定期的に総隊長主催の茶会が催されるのだ。
そして本日は、全隊長副隊長強制出席の茶会の開催日であった。
欠席は暗黙の了解で決して許されず、出ない場合は必ず代理が出席せねばならない。そのせいで、十一番隊からは心の底から不本意そうに一角と弓親が出てきていた。
全隊長副隊長の揃い踏み。緊張感がないわけがない。それでなくとも総隊長主催ということで厳粛な雰囲気を醸し出されるのに、室内にはほとんど臨戦体勢のような空気があった。
(さっさと終わってくれ)
総隊長が長々した口上を述べ始めてすぐ、日番谷はひたすらそんなことを考える。日番谷だけでなく、おそらく総隊長以外の誰もが思っているはずだった。白哉の隣の恋次など、早くも正座の限界に達したのか、ほとんど青い顔をしている。
何しろ総隊長の茶会は長いのだ。ひたすら正座をしっ放しで、ひたすら総隊長の話を聞くに徹し、ひたすら睡魔と闘う。その話を聞くくらいなら頼むから仕事させてくれと言いたくなるような時間なのだ。
不謹慎ながら、いっそ何か事件が起こってくれればいいのに、とまで思ったりもする。
――そんなことを日番谷が考えていた、ちょうどそのときだった。
チャラランランピロリロリン。
厳粛なその場に非常にそぐわない、軽快な着信音が鳴った。伝令神機だ。
「……誰じゃ」
総隊長が低くしわがれた迫力のある声を、さらに低める。名乗り出たら即刻斬ると言いたげな雰囲気だったが、その場で名乗り出たのは、おおよそ意外な人物だった。
「私だ」
すっと伝令神機を取り出したのは、六番隊隊長の朽木白哉だったのだ。いつもの冷静極まりない表情に、その手の中で鳴る着信音はあまりに軽快すぎてミスマッチ感が否めない。だが本人は全く気にした様子もなく、何とその場で着信を取った。
おい、おいおい。
何と言う強者か、さすがは朽木家現当主。
などと日番谷が若干ずれたところで感心している中、白哉が持つ伝令神機からその声は響いた。
『白哉か!? 俺だ、黒崎一護だ!』
きょとんとしたのは、電話を取った白哉だけではなかった。隣の恋次もその他も、日番谷とて面食らった。
「……何故兄がルキアの番号でかけてくる」
『緊急事態だよ、仕方ねえだろ! ――おい、ルキア、大丈夫か!? ちくしょう、時間がねえ!』
「何があった」
どうやら義妹に何かあったと察して、白哉は途端に表情を更に厳しいものにした。
『やっかいな敵に囲まれてんだ。何だっけ……そう、ヘルリードとかいう虚に! ルキアが捕まって、それで俺が応援をって――くそっ足が……とにかく俺たちだけじゃ手に負えそうにねえ、誰か――』
しかしその言葉は最後まで言われることなく、ガツンという鈍い音で途切れた。どうやら伝令神機を弾かれるか落とすかしたらしい。同時に、白哉が立ち上がる。そして総隊長を見た。
「緊急事態です。行きます」
「隊長! 俺も一緒に……」
だが立ち上がった恋次をぐいと押しのけた者がいた。一角だ。
「朽木隊長! わざわざ隊長が行かれることないッスよ、俺ら十一番隊が行きます!」
しかしその一角の肩をがしっと掴んだ手があった。
「いや、待ってくれ斑目三席。朽木は十三番隊、俺の部下だ。ここは俺が……」
「やめときなよ、浮竹。キミはこないだまで臥せってたんだから、それならボクが」
「きょ、京楽隊長や浮竹隊長が行かれるなんてとんでもないですよ、それなら三番隊が出ます」
「いやいや待て吉良、三番隊だけじゃ心もとない。九番隊も……」
一角に続き、浮竹、京楽、吉良、檜佐木も立ち上がり、室内は一挙に騒然となる。
誰もがこの場から逃げたいと思っているのは明白だった。一護からの応援要請は、この場においてこの上なくありがたい口実であったのだ。
しかし。
「――開錠」
その声に、この場からの逃走を図ろうとしていた面々は一斉にそちらを振り返った。
視線の先では、縁側で日番谷がいつの間にやら用意した地獄蝶を傍らに、穿界門を開けていた。その後ろに、乱菊も控えている。そして視線に気づくと、非常に明るく言い放った。
「十番隊、行ってきまーす」
あ。
と、そんな口を挟む間もなく、穿界門の中に二人は消え、パタンと門が閉まる。
残された者たちは、ほとんど呆然と穿界門の消えた縁側を見つめていた。
逃げたな。
おそらくこのとき、総隊長以外の全員が、二人を限りなく恨めしく思った。
***
「くそっ、離れろ!! ――おい、ルキア! 大丈夫か!?」
「ああ、まだあと少しは持ちこたえられる。だが、早いところ援護がなければ……っ、蒼火墜!」
伝令神機を取り落とした一護は刀を、ルキアは下半身を固められ、ついに二人は活路を見失いつつあった。
ルキアが鬼道を打ち続けるのも、力ずくで振り払っている一護にも、限界が近い。いくら何でも霊体たちの数が多すぎた。
虚化するか、という考えが一護の脳裏を掠めた、ちょうどそのときだ。
――目の前に、唐突に障子戸が現れた。それは惜しみなく開き、奥からひらりと黒い蝶が舞い出る。
「霜天に坐せ」
蝶の背後から、凛とした声が少し反響して聞こえる。そして次に叫ばれた刀の名の一声は、声ですら武器のように、二人にまとわりついていた霊体たちを氷片に変えた。
「氷輪丸」
氷の龍が踊るように巡って、天へ昇る。それと同時に上空に暗雲が立ち込め、文字通り瞬く間に氷片と化した霊体を木っ端微塵にした。
しかし際限なく寄り集まってくるどす黒い霊たちは、それでもまだ蠢いていた。そこに追い討ちのように一陣の風が吹きぬける。それはただの風ではなく、細かな灰色の粒を孕んだ刃の風だ。その灰は、残った霊体たちを切り刻む。
そこで、どす黒い霊たちはぴたりと攻撃をやめた。どうやら分が悪いことを悟ったらしい。再び氷の龍が牙を向く前に、それらは逃れるようにして四散する。
霊たちの拘束から逃れた一護とルキアはそれを見て、少なからず安堵した。息を一つつくと、一護は助けてくれた見知った顔に「サンキュ」と声をかける。
「助かったぜ、冬獅郎、乱菊さん」
「ありがとうございます、日番谷隊長、松本副隊長」
ルキアも続けた礼に、日番谷は相変わらずの仏頂面で「日番谷隊長だ」と一護の物言いを訂正してから、刀を納めた。
「いいのよー、お礼なんて! むしろこっちがお礼言いたいくらいなんだし。ね、隊長」
機嫌の良い笑顔で応えたのは乱菊だ。それに一護とルキアがきょとんとするが、乱菊が恒例のお茶会についての苦言を呈す前に日番谷がそれを制した。
「余計なことは言わなくていい、松本。……それよりだ。今のは虚じゃなかったようだが、あれはなんだ?」
「あ……ああ。あれは虚の、ヘルリードの子分みてえなもんらしい。子供の負の霊の集まりなんだと」
それを聞いて、日番谷と乱菊は思い当たるところがあったらしい。あいつか、と日番谷が呟いて、しばらく黙ってから一護とルキアを見比べてぼそりと言った。
「……そうか。やはり黒崎と朽木の二人でも、無理だったか」
低めた声は落胆ではなく、どちらかといえば納得に近いような色を含んでいた。まるで予測していたとでも言うような物言いに、一護が眉間の皺を深める。
「なんだよ、それ。どういうことだ?」
「そいつが既に死神で四人の犠牲を出してるのは知ってるだろう。……今回、朽木と黒崎の派遣で難があるようならば、隊長格が出る予定が隊首会で決まっていた。――おそらく難があるだろうことも、予測としてあったんだ」
「ほら、触れられないってなると、一護は苦手でしょ。その辺り、朽木のほうのサポートで可能性はあるってことになってたんだけど……さすがに多勢に無勢だしねえ」
まさに敵に突かれたポイントを挙げられて、一護もルキアも思わず何も言えなくなった。お互いに気を配っていた割に、してやられたのは事実なのだ。
一瞬の沈黙が落ちた。ちょうどそのときを狙ったように――空気が、ずしんと揺れた。
「なんだ?」
日番谷たちが反射的に揺れの出所であろう方向に視線を向ける。そして、それを見た。
どす黒い子供の霊体の塊が、先程よりもはるかに肥大化して、少し先の空にあった。
宙で楕円を描いて留まったそれは、得体の知れぬ卵のようにも見える。大きさのせいか距離が上手くつかめないが、そう遠くはない。
まさか、と呟いたのはルキアだった。
「餌が完成したと言うのか……!? 莫迦な、こんな短時間でできるような反応などなかったはずだ!」
ルキアが慌てて伝令神機を確認し、やはりそのような反応が記録されていなかったことを見て取る。そして目を見開いた。
「一護ッ!」
「な、何だよ!?」
「すぐに行くぞ、あの餌がある場所は――貴様の家だ!!」
***
なんだかとても、息苦しい。
そんな感覚を覚えて、夏梨はやけに重たい瞼を押し上げた。けれども、何も見えない。確かに目を開けているはずだというのに、広がるのは黒一色のみだった。
途端に頭が混乱した。咄嗟に体が動こうとして、その瞬間に鈍い痛みが全身を襲う。
「いっ……」
思わず声が出た。それに被せるように、ぎしぎしと嫌な音が聞こえる。何がどうなっているのか、把握できない。このまま動かないほうがいいかもしれない、と頭では思うのに、わけのわからない状況でじっとしていることなど夏梨にはできなかった。
体をよじる。どうやら、腕は何かに挟まれたようで動かないが、足はそこそこ動く。それを認識するや、夏梨はともかく障害物らしきものを蹴りつけた。
がん、ごん、どん、と手応えは確かにあった。ぎしぎしと軋む音が大きくなる。がしゃん、とガラスが割れるような音がした。
蹴りつけながら、ようやく思考が追いついてくる。――そうだ。
(あたしは、部屋にいたはずなのに)
なんだって、こんなことになっているのか。幽霊の悪戯が度を越してきていた、それは覚えている。やたら攻撃的になって、身に危険を覚えるほどに変わったのだ。
部屋の家具の全てが浮き上がり、意思を持ったように夏梨に向かって飛んで来た。
そして。
「ジン太、ウルル……っ!!」
友達が、来てくれたのだった。きっとあんなことを聞いてしまったから。多少疲れていたのは事実だけれど、やはり言うべきではなかった。
なんだかんだで思いやりのある友人たちに心配をかけるのはわかっていたのに。
「ジン太、ウルルっ!!」
暗闇の中、自由のきかない体で叫ぶ。何度か声を張り上げて、応えがないことにほっとした。どうやらあの二人は巻き込まれるのを免れたようだ。
そこまで考えて、ふと冷静な思考が分析した。ということは、おそらく今夏梨がいるのは家具の下なのだろう。ベッドや机や本棚や。そう考えれば今体を押しつぶしている重圧にも納得が行く。どれもこれも、夏梨より大きく重い。
ガン、と足が痛むほど蹴りつけた頃、軋む音が変わった。ずるずると、こすれる音がする。どうやらどこかが崩れかけているようだ。それを耳に留めて、夏梨は痛む足を堪えて精一杯の力を込めた。
「動……けぇっ!!」
蹴り飛ばした次の瞬間、がらがらと大きな音を伴ってやっと視界が開く。
そしてその先にあったのは――絶望に身を浸した、おぞましい幾百の子供たちの霊の姿だった。
ぞくりと悪寒が背中に走る。光のないうつろな目と目が合った。まるで何も感じられない空虚なその目が明確な意思を持ったのは、そのときだ。
『ころしてやる』
何重にも折り重なった声が頭に響く。
ぎょろりと目玉ばかりが生々しく際立って、どす黒い体はまるで溶けたように線を失った。
「く……来る……なッ!」
『ころしてやる』
ずるずると霊たちが夏梨のほうへこぞって迫ってくる。殺意に満ちたその目玉は、ぎらぎらとして夏梨を見ていた。
がらがらと家具が一斉に音を立てる。すると体の上に圧し掛かっていた重みが一瞬消えた。家具がまた、浮き上がっているのだ。
見慣れた椅子が、机が。鋭利なガラスの欠片、電球、置きっぱなしだったコップ、ハサミ。それら全てがまた凶器となった。
咄嗟に逃げようとした。けれど体中に走った鈍痛が、それを許さない。そして霊たちが体に絡みついて、夏梨の動きを封じてしまった。
両腕、両足を縛り上げられ、まるで的のように宙に吊るされる。
「ッ!」
ゆらりと浮き上がったガラス片が頬を裂いた。一瞬焼けたような熱が走って、すぐずきずきという鈍い痛みに変わる。生暖かい感触が頬を伝った。
そしてそれはまるで前座だとでも言うように、今度こそ持ち上がった家具たちが、再び夏梨に降り注ぐ。
思わず目を閉じようとして、不意にどす黒い霊たちの向こうに、光を見た気がした。
青く透き通って輝く。刃に似た、鋭利な輝き。
どうやら、一部分だけ覗き穴のように透けた部分があった。その向こうに見えた姿に、場違いにも夏梨は少なからずほっとしてしまう。
オレンジ頭と銀髪の少年。あの二人がいるなら。
『ころしてやる』
凶器がまた降り注ぐ。けれど響いた声に、今度は夏梨は不敵に笑えた。
「残念だったな。無理だよ、絶対」
何しろどうやら、夏梨にとってのヒーローが二人、揃っているのだから。
[2011.01.15 初出 高宮圭]