夏が終わる。
寒蝉が鳴く。ひまわりは種を付け始めた。体感できないほどにゆっくりと日は短くなり、夏は確実に秋へと歩みだしている。
日番谷の中で、寒蝉が鳴く声は、その指標のひとつだ。
ツクツクボシ、と一定のリズムで鳴き続ける寒蝉の声を聞きながら、日番谷は熱を持て余して公園にいた。
今日は夏特有のうだる暑さが顕著な日のようで、木の上の陰にいて風を受けているにも関わらず、一向に涼しくない。
山か森か、そういう所に行けば多少はましだろうが、任務で現世にいる今、そんな所に行く余裕などありはしなかった。
「そっち行ったぞー!」
元気のいい子供の声が聞こえる。
暑いのが苦手な日番谷にとっては信じられないことだが、目下の公園では小学生の子供が炎天下をものともせずに走り回っていた。
見ているだけで暑い。だがせめて室内――居候の部屋に帰りたいと思いつつ、何となく子供たちを眺め始めてかれこれ一時間は経った。我ながらどうして帰らないのか、不思議でならない。
「おい黒崎ー! 無理すんなよ、お前まだ怪我……」
「へーきだってば! ホラ、行ったぞ!」
黒崎、という声に半ば無意識で視線が行く。
そこには男子に一人混じってサッカーをし、男顔負けの蹴りを繰り出す、黒髪の女の子供がいる。
黒崎夏梨。日番谷とは最近若干の縁ができた、少々変わった子供だ。
「……あ?」
そこで、ふと日番谷は自分の思考に疑問を覚えた。
――あっさり、名前が出てきた。
黒崎夏梨は、今では尸魂界で重要人物となった死神代行黒崎一護の妹だ。兄同様強い霊力を持つ彼女は、先日、ひょんなことから日番谷が死神であることを知った。日番谷もその時に彼女が黒崎一護の妹であることを知ったのだが、以来、彼女のその子供の身に余る強い霊力を危惧して、こうしてたびたび様子を伺っている。
名乗られたのは一度きりだ。
それまで見知ってから何度か話し、目の前で虚から守ったにも関わらず、日番谷のほうは結局名前を聞かず、黒崎一護の妹としか認識していなかった。
それにはさして気に留めていなかったのだが、何度目かの様子見のときに、知られるつもりもなかったのに、存在に勘よく気づいた彼女が日番谷をつかまえて名乗ったのだ。
―― ねえあんた、あたしの名前知らないだろ。
―― ……黒崎一護の妹。
―― それは名前じゃねーだろ!
―― 問題ねえだろ。
―― ある! 助けて貰った奴に名乗らないのはあたしの主義に反するんだ! 覚えなくていいから、とりあえず聞いとけ。
―― 覚えねえなら名乗る意味ねえだろ。本当に言っても覚えねえぞ。
―― いいんだよ。あたしが覚えてりゃ問題ない。
確か、そうして名乗られたはずだ。
言葉通り、日番谷は覚えたつもりはなかった。様子見以上関わるつもりはなかったからだ。
だというのに、どうやら覚えていたらしい自分に少し驚いた。
もともと物覚えはいいほうだと思っているが、必要ないものは忘れることができる。自分はそういう淡泊さを持った人間だと知っていたのに。
要因を考えていると、不意に耳に届いた声があった。
「いるんだろ、冬獅郎!」
同時に体を預けていた木が何か衝撃で揺れる。突然のことに体勢を保てなくなって、日番谷は仕方なく木から飛び降りた。
降りた先には観察対象だった黒崎夏梨が、跳ね返ったサッカーボールを足で止めていた。どうやら先程の揺れはボールが蹴り付けられたことによるものだったらしい。
「何すんだ、てめえ。人がいるってわかってんなら蹴るな」
「いいじゃん。空中でボール受けれる奴が、木から落ちて怪我するわけねえだろ」
あっけらかんと言われる。それは、そうだが。
というより、またも存在に気づかれてしまったのはなぜなのか。
だが夏梨は日番谷が眉を寄せるのも気にせず、ぐいとその腕を引いた。
「そんなことよりさ、サッカーやろうぜ」
「……は?」
「暑さで何人か参っちゃってさ、人数足りないんだ。これでラストゲームだから、頼むよ。二対二で五点先取で勝利。わかったな!」
言うだけ言うと、夏梨は返事も聞かずに日番谷の腕を引いたまま駆け出した。
「おい! 俺はやるとは……」
「人数足りた! 始めるぞ!」
明らかに意図して日番谷の声を聞き流そうとする夏梨に苛立って声を出すが、夏梨はふと振り返ると、にやりと笑って見せた。
「負けるからって逃げんなよ、冬獅郎」
「……安い挑発だな」
「じゃ、小学生くらいあしらって行きゃいいだろ。簡単なことなんじゃねーの?」
「何でそんな面倒しなきゃならねえんだ」
心底面倒臭そうに顔をしかめれば、夏梨は憎たらしいほど子供らしくない、策にはまった獲物をからかうような顔で言い切った。
「オトナは子供の相手、する義務があるだろ!」
――安い挑発だ。
わかってはいたけれど、そのあまりにも子供らしくない彼女の表情に、妙に苛立つ。気づけば、口が動いていた。
「――上等だ」
「暑いの苦手ならそう言えよ。……だったら無理やりさせたりなんかしなかったのに」
呆れたような、けれどそれ以上に心配そうな声で、夏梨は日番谷を覗き込んだ。
「うるせえ……」
日番谷は公園の日陰にあるベンチに横たわり、腕で目の辺りを押さえてめまいを堪えていた。
暑いのは苦手だ。けれど日番谷自身、まさか自分が熱中症で倒れるとは思いもしていなかった。この程度の暑さには耐え得るだけの体力は優にあるつもりだったのだが――義骸であることを失念していた。技術開発局の無駄なこだわりのせいで、今の体は限りなくただの人間なのである。何も事細かにこんなところまで一般化してくれなくていいものを。
まさか小学生と一時間弱サッカー勝負をしただけで倒れるとは予想外のことだった。
だが、予想外といえば、もう一つある。
「お前が素直にボール取らせてりゃ、あんな長時間走らなくて済んだんだがな」
「それじゃ勝負になんないだろ。お前だって大人気ないくらい遊んでたじゃねーか」
毎日やっているとあってか、夏梨は日番谷の想像以上にサッカーが上手かった。――というよりは、頭がよかったと言ったほうが正しい。相手の次の行動を予測することを怠らず、持ち前の反射神経でそれに対応する。しかもあきらめることを知らないと来れば、敵に回すと少々やっかいだったのだ。
とは言え、確かに少々遊びすぎた感も否めない。
「黒崎ー! 頼まれたもの持って来たぜー!」
声と共にばたばたと騒々しい足音が近づいてきて、日番谷の足元のほうで止まる。見ずとも夏梨とサッカーをしていた男子たちだとわかった。静かだと思っていたら、何か頼まれていたらしい。
「お、ありがと。そっち置いといて。……じゃあ、あんたたちもう帰って良いよ、あたし冬獅郎うち連れてくから」
「え、でも……手伝うぞ?」
「いいよ、平気。早く帰りなって、もう五時だぞ」
「え! や、やべ! おい、帰ろうぜ、また怒られる!」
「お、おう! じゃあ悪いな黒崎! 冬獅郎もお大事に!」
何やら焦った声で言ってまた騒がしく足音が遠ざかる。どうやら門限か何かあるらしい。
めまいを伴う吐き気が幾分ましになって、日番谷は視界を覆っていた腕をどける。
途端、至近距離に夏梨の顔が見えた。
「……あ?」
「あ、自分で動ける? じゃあちょっと頭浮かせて」
どうやら頭を浮かそうとしていたらしい。よくわからないながらも少し頭を浮かせると、すかさずベンチと頭の隙間に何かが差し込まれた。頭を下ろすと、後頭部から首にかけてが冷たい。
「氷水で冷やしたタオル。氷枕はちゃんとした入れ物ないと返って頭痛いから、その代わり。あと、これ。脇に挟んで」
そう言って差し出されたのはビニール袋に入った氷二つだった。受け取るまでもなく、手早く腕を取られて脇に差し込まれる。
「ちょっと濡れるけど、我慢しろよ。ほんとは足の付け根とかも冷やすといいんだけど、足りないや。あと、はい。飲み物。置いとくから、起きれるようになったら飲んで」
「……おい、これ」
日番谷が若干の困惑を含んで声を発すると、夏梨は被っていた帽子を脱いで、それを扇代わりにぱたぱたと日番谷を扇ぎながら答える。
「あいつらに持ってきて貰ったんだ。五分くらい歩いたとこにある駄菓子屋、無料で氷くれるんだよ。飲み物はそりゃ有料だけど」
「そうじゃない」
「熱中症の応急処置。これでも医者の娘なんでね。……あいつらにはうち連れてくなんて言ったけど、嘘。あんまり動かさないほうがいいんだよ」
ああ言わないと気にして帰らないだろ、と何でもないように夏梨は言う。日番谷は思わず目を瞬かせた。
実を言えば、暑さで参るのは初めてではない。まだ流魂街にいた頃はよく暑さにやられていた。だがその頃、周りにいた祖母や幼馴染でも、慌てて寝かしたりはしたもののここまで手際よくとはいかなかった。
「……なんだよ、その意外そうな顔」
「いや……まあ、正直なところ、意外だ。お前の兄貴はできそうにねえ」
「あー、一兄には無理かもな。勉強はできるけど、医療のほう関心ないし。もっぱら親父の手伝いしてんのあたしと遊子だから」
夏梨は言いながら日番谷の頭の隣に座り、おもむろに額に手を伸ばしてきた。一瞬反射的に手を払おうと思ったが、やめる。警戒する謂れはない。
日番谷の体温が高いせいか、その手はやけに冷たく感じた。
「熱は下がってきたみたいだな。この分ならもう少し寝てりゃ動けると思うよ。まだ頭痛い?」
「……少しな。けどこれくらい……」
「あ、無理すんなって。もうちょい寝てろ」
起き上がろうとしたそばから肩を押さえられ、また仕方なく横たわる。上から覗き込んだ夏梨の表情が、あからさまにほっとしたものになった。
(……まったく、何してるんだか)
日番谷は思わず、内心で自分にため息をつく。
虚は高い霊力を持った者を好んで襲う。妹たちを守っていた黒崎一護が行方不明の今、日番谷は夏梨の霊圧を危惧して様子見に来ていたはずだ。だと言うのになぜ、自分のほうが寝込んでしまっているのか。全く持って情けない。
「……あれから、何回かさ。見に来てたろ」
「え?」
不意に話を始められて、日番谷はその意味を掴みあぐねる。
視線をやると、少しずつ夕暮れに染まりかけた空を見上げたままの夏梨が、風に髪を遊ばせているのが見えた。
「サッカーの助っ人してくれたあと。化け物……虚って言うんだっけ。あれにあたしが襲われたからか?」
「……気づいていたのか」
「全部かは知らないけど、気づいたのは今日入れて三回かな。わかりやすいもん、あんた」
あっさりと『わかりやすい』と言われてしまった。確かに気配を殺していたわけではない。だが、他にも人の気配がある中で、ただの子供に気づけるとは思いがたかった。
「さすがは、黒崎一護の妹ってとこか。……だが兄貴よりお前のほうが、霊圧操作は上手いな」
「霊圧操作?」
「霊圧を読んだり操ったりすることだ」
「ふうん……よくわかんないけど、一兄まどろっこしいの嫌いだからな」
できるかできないかの二択しかない、とぼやくように言う。確かにそうだ。やはり、観察力にも優れているのは間違いない、と日番谷は思う。多少おおざっぱなようだが、頭を効率よく使える分、兄より器用かもしれない。
暇に任せてぼんやり考察しているうちに、だんだんと体の熱が引いてきた。頭痛が治まり、気分が楽になる。
「……もう、動けそうだ」
「そう? じゃ、急に起きないでゆっくり起きろ。めまいすると思うから、掴まっとけ」
そう言って差し出された手に、素直に掴まった。
隊長であることと性質上、本来ならばそうそう他人に頼ったりはしないが、今は抵抗がなかった。既にここまで世話をかけた上、彼女が自分の立場を全く気にしないことが要因だろう。不快ではない。侮られているわけではないと知っているからだ。日番谷は対等の一個人として接しられることがこうも気楽なものだということを久方ぶりに思い出していた。
言われた通り、起き上がった瞬間に少し視界が眩んだ。だがしばらく動きを止めていると、すぐに治まる。
様子を伺っていた夏梨も、いくらか回復したことがわかったらしく、よかったと笑った。
次いで手渡された飲み物を口にすると、体が落ち着く。疲れたように息を吐くと、夏梨が伸びをしながら立ち上がった。
「帰ったら、しばらく大人しくしとけよ」
「……ああ、悪い。世話をかけた」
すると夏梨はぎょっとしたような顔になる。
「な……なんだ、やけに素直だと気持ち悪いぞ」
「うるせえ、礼くらい言わせろ」
「だって、巻き込んだのあたしだろ。見に来てくれてたんだし」
「……そう思うなら今度からもっと涼しいとこで遊べ」
「無茶言うなよ……」
今の季節、昼間に外で涼しいとこなんかない、とおかしそうに笑う。
だがふとその笑みは消えて、視線が目的もなく空に走る。いつかも見たその表情は、やはり歳にそぐわず大人びて見えた。
「……一兄は、元気だろうな。病気知らずだもん」
ぽつりと呟かれた言葉は、心配や寂しさより、悲しそうな響きを含んで耳に届いた。
「でも、怪我はしょっちゅうなんだ。喧嘩ふっかけられることも多いし」
「……あいつは、強い」
日番谷の言葉に、夏梨が振り向く。そして、どこか泣きそうな表情で笑った。
すぐにいつもの笑みに戻ったが、やけにその表情が気にかかった。
「あんたより?」
「……さあな」
ぶっきらぼうに答えると、夏梨は元気よく笑う。そして手に持っていた帽子を被ると、ベンチの下に置いていたサッカーボールを持ち上げて日番谷に背を向けた。
その背中が遊んでいたときとは打って変わって、やけに所在なさげに見える。その原因は、やはり兄のことだろう。何を言っても笑って見せても、やはり心配なのは変わらないのだ。
夕日でゆっくりと赤く染まっていく背中を見ながら、日番谷は気づかれないようにため息をついた。
黒崎一護が死神代行のことを家族に隠しているのは知っている。もっとも隠しきれておらず、こうして妹は日番谷と関わっているわけだが――心配をかけぬように何も言わず家を出たのだろうが、むしろ仇になっていることには、ため息を禁じ得なかった。
(もう少し上手くやれ、黒崎)
見るからに不器用そうな彼にそれを望むのは無理というものだろうが、思ってしまう。
だが夏梨は何でもない表情で、日番谷を振り返った。
「じゃ、あたしそろそろ帰るよ。今日は相手してくれてありがとな」
「……ああ」
日番谷が返事をすると、夏梨は駆け足で公園の出入り口へ走っていく。何となくそれを眺めていた日番谷だったが、ふと夏梨が出入り口のところで足を止めたのに気づいた。
夏梨は日番谷のほうを振り向くと、おもむろに叫んだ。
「冬獅郎! 怪我すんなよ!」
言い終わると、そのまま惜しげもなくまた走り出す。あっと言う間に角を曲がり、姿が見えなくなった。
半ばぽかんとして夏梨を見送っていた日番谷は、誰もいなくなった公園でゆっくりと立ち上がる。
そこで、ベンチに残ったタオルに気づいた。日番谷が頭を冷やすのに使っていたものだ。
持ち上げると、生乾き程度になった赤と白のボーダー柄のそのタオルの端に名前が書いてあるのが見えた。
カタカナで書かれたそれは、記憶にあるがまだ一度も口にしたことのない名前だった。
「クロサキ、カリン」
何とはなしに口に出す。どうやら彼女のものだったらしい。今追いかければ間に合うか、と考えて、やめた。
「……今度にするか」
どうせ、またそのうち様子は見に来るつもりだ。
タオルを片手に歩き出す。その口元が、我知らず小さく笑みの形を作った。
寒蝉=ツクツクボウシの旧名。ひぐらしという説もありますが、深く考えない方向で!
[2009.07.23 初出 高宮圭]