サヨナラステップ

-Line Out-

02 : ヒーローはいない

 走る。走る。走る。
 路地裏の細い道をできるだけ選び、人通りのないほうへ、ひたすら走る。
「……っは」
 汗が額を伝う。息が上がる。喉が痛い。
 最近ときどき襲ってくる、原因不明の頭痛も同時に苛んできている。
 それでも止まることはできなかった。
 首だけで背後を振り返る。通ったそばから、道が音を立てて独りでに陥没していく。――徒人にはそう見えていることだろう。
 けれど『それ』から逃げている夏梨には、はっきりとその姿が見えていた。
 巨大な骸骨にも似た仮面をつけた、異質な化け物。――虚と呼ばれるそれが、夏梨を追っていた。
「なん……っなんだよ!」
 思わず毒づきながらもなお、走る。
 とりあえず人気のない場所を目指してはいるが、そこに着いたところで助けの当てがあるわけではない。けれどもあれが夏梨を狙っているのならば、何としても周りを巻き込むことだけは避けねばならなかった。
 重い衝撃音と共に、すぐ背後の倉庫の壁に穴が開く。
 巨大な拳と体を持つ虚は、破壊力は凄まじいものの、動きはそう速くない。だがその巨大な歩幅で追ってくるために、全速力で逃げても余裕などなかった。
 ――夏梨が虚の存在に気づいたのは、学校で授業を受けている最中だった。
 『それ』が出るときに感じる、独特の嫌な感じがまたしたのだ。しかもとても近い。
 まずい、と思った。あれは自分を狙ってくる、という妙な確信があった。だから速攻で早退を申し出、鞄を抱えて学校を抜け出したのだ。
 そして予感は的中し、今に至っている。
 心配性の双子の姉は気にしているだろうが、そんなことは今考えていられなかった。
 足がもつれそうになるのを堪えて進む。日頃やっているサッカーで足にも持久力にも多少の自信はあるが、もう限界に近かった。
 ばりばりとアスファルトの地面を踏み破る不吉な足音が迫る。
 そしてまた大きな衝撃音と泣き声と共に、今度は足元が地震のように揺れた。
「わっ」
 思わず体の均衡を崩して夏梨は地面に倒れる。
 まずい、と思ったときには背後に巨大な影が迫っていた。
 その声がしたのは、巨大な拳が夏梨に振り下ろされる、その刹那だ。
「――伸びろ、鬼灯丸!」
 知らない声だ、と思った。けれど反射的に振り仰げば、頭上から槍にも似た武器を手にした黒い着物の男が虚に飛びかかるのが見える。
 ――死神だ。
 その姿を見て、夏梨は冷静に理解した。あの姿をした兄が、やはり武器を手に飛び出すのを見たことがある。以前襲われたときに、目の前で同じ着物を着た銀髪の死神が、虚を倒すのを見たことがある。
 虚の悲鳴に夏梨ははっとして我に返る。
 夏梨が座りこんでいる間に、スキンヘッドの死神は手際よく虚を倒してしまったらしい。空中にいる死神をぼんやり見上げていると、その死神が夏梨のほうを見た。
 目が合う。それに死神のほうはぎょっとしたようだったが、それ以上に夏梨はびくりと反応した。また、嫌な感覚がした。場所は、と立ち上がりかけて、感じ取る。
「ぼーさん、後ろだ!!」
「ぼっ……!?」
 空中の死神に叫んだ次の瞬間、死神の背後の空の割れ目から新たな虚が現れた。
「ぼーさん!」
 焦って夏梨が叫ぶのと、その虚が第三者に切りつけられたのは同時だった。
「何してるんだい、一角。らしくないね」
「弓親……あのガキが失礼極まりねえこと抜かすからだ!」
 現れたのは、やはり死神だった。他と違うといえば多少首周りがカラフルなことくらいか、と伺っているうちにその死神が虚に止めをさす。
 双方とも鮮やかな手際だったが、いつか目の前で虚が氷漬けになって倒されたときほどの鮮やかさはなかった。どうやら死神も千差万別らしい。
(まあ、一兄が死神って時点でそれはわかりきってたことだけどさ)
 そこまで考えたところで、二人の死神が夏梨の目の前に降りてきた。
 夏梨も鞄を抱え直して二人の視線を受ける。
 だが不意にその表情が驚いたようになった。
「おい、ガキ!」
「なんだよ、ぼーさん」
「ぼっ……」
 スキンヘッドのほうの死神に呼びかけられて、ガキのところに多少苛立ちつつ不遜に返すと、死神はあからさまに表情を引きつらせた。
 隣のカラフルな死神のほうは思い切り噴き出して口元を押さえている。
「坊さんぽいじゃん、頭」
「てっ……てめえ!!」
 スキンヘッドの死神は夏梨に詰め寄り、怖がらせるつもりで見下ろしているらしい。だが怖くも何ともない。
 それよりも、気になることがあった。
 先程からまた、少しずつ嫌な感覚がする。
「まあまあ一角、どうせ子供の戯言さ。流してあげなよ」
「思い切り爆笑してた奴が言う台詞じゃねえ!」
「ごめんって。……それより、気づいてるだろ。この子の霊圧」
「ああ……俺たちが見えることにも驚きだが、なんだこれは」
 ――などと死神二人が話している内容は、その実、夏梨には欠片も聞こえていなかった。
(また、嫌な感じがする)
 今度は先程とは比べ物にならないほどに、大きい気がした。それも三つ。やはり、近い。
 見上げた空に、妙なたぐまりができる。そこに至って、死神二人も気づいたらしい。
「弓親」
「ああ。来るね」
 その言葉が終わるか終わらないかで、また空が破れる。――だがそれまでと違ったのは、現れた虚だ。
「なん……だ……?」
 夏梨はそれを見上げて、思わず一歩退いた。
 黒一色の体に、表情のない鼻の高い仮面を被ったそれは、今まで見たことのある虚とは明らかに違う。その背後から出てくる二体も、今まで以上に得体が知れないように思えた。
「っち……メノスグランデかよ……」
「一体じゃないね、三体……ギリアンが一体、アジューカスが二体ってところかな」
「はっ、上等だ! 行くぜ!」
 声と共に二人の死神が飛び上がっていく。
 夏梨は半ば呆然とそれを見送ったが、またはっとして元来た方向の空を見上げる。ここからは少し距離があるが、そこにも空のたぐまりがあった。
 ――あの辺りにあるのは、小学校。
 それに思い当たった瞬間、夏梨は走り出した。背後から何か叫ぶ声がしたが、それにも構わなかった。


「――おい! くそっ、あのガキ! 今あの霊圧持って走ったらどうなると思ってんだ!」
 大虚と交戦しつつ、勝手に駆け去った子供に気づいて、一角は毒づく。
「おかしな霊圧を持ってるだけじゃなく、虚が出てくるのも感づいてたみたいだし、狙われるかもしれないね」
 あっさり言った弓親の言葉に、一角は舌打ちする。同時に襲ってきた攻撃を受け流し、その背後に回りこんだ。その動作を見た弓親が心得た様子で攻撃を仕掛け、敵の意識を自分に集中させる。
 その間に、一角は伝令神機を操作した。
「こちら斑目! 日番谷隊長ですか!」


***


「あ、夏梨ちゃん!」
 痛みを伴ってきた足を無理やり動かして走っていると、不意にかけられた明るい声に、夏梨はびくりとした。
 ばっと視線を上げると、前方から双子の姉――遊子が駆け寄ってくるのが見える。
 おそらく唐突に早退した夏梨を心配して、自らも早退してきたのだろう。
 ――まずい。
 既に息があがって速まっている拍動が、さらに嫌な感覚を伴って不整脈を打つ。
「よかったあ、こんなところにいたの!」
 そばまで来た遊子はほっとした面持ちで足を止めようとした。けれど夏梨はそれを阻み、有無を言わせず遊子の腕を取って走る。
「えっ、え、夏梨ちゃん!?」
「いいから、走って!」
 兄の一護や夏梨ほどではないものの、遊子にも霊感はある。
 今まさに空から出てこようとしているそれが、遊子を狙う可能性はあるのだ。
 ばりばりと嫌な音が背後でする。どうやら出てこようとしているらしい。
 振り返って見えたのだろう、遊子が腕を引かれながら悲鳴をあげた。
「な、なにあれ……」
「遊子、こっち!」
 気をそらせるように腕を強く引く。せめて隠せる場所に行くまでは、歩けなくなって貰っては困るのだ。
 耳をつんざく悲鳴のような泣き声が響く。びりびりと空気すら震わすその声に、足を止めそうになる。
 怖い。怖い。怖い。
 それでも、足は止めなかった。今は後ろに、遊子がいる。
 背後を確認するために視線をやると、遊子は震えながら、必死で走っていた。今にも泣き出しそうに、目にいっぱい涙を溜めている。
「遊子!」
「か、かりんちゃ……」
「大丈夫だから、もうちょい走れるな!」
「でも……っ」
 震える声が、涙に滲む。堪えていたらしい嗚咽が途切れ途切れに聞こえてきた。その合間に混じった声に、夏梨は唇を噛み締める。
「おにい、ちゃん……!」
 行方知れずの兄。
 いつでも夏梨たちは、兄に守られてきた。無類の信頼を置く、心強い存在だった。
 その兄は今、いない。
(一兄……っ)
 声もなく、呼ぶ。当然応えはない。わかっている。それでも頭にちらつくオレンジ色は、いつだって悔しいほどに夏梨たちのヒーローだった。
 ずきずきと、まだ頭は痛む。
 半ばおぼつかない足取りになりながら、いくつめかの角を曲がる。
 そしてようやく、目的地にたどり着いた。
 町外れにある、廃止された鉄工所だ。頑丈な造りと、隠れる場所がごまんとある。今の状況において都合のいい場所だ。施錠されているが、鍵の壊れた小さな窓から入れることを夏梨は知っていた。
「遊子、入って!」
 小学生がやっと入れるくらいの換気窓を押し開け、そこに飛び込む。そしてためらう遊子を引っ張り込んだ。
 二人が工場の中に転がるのと、轟音が響き渡ったのはほぼ同時だった。虚が追いついてきたらしい。
 またびりびりと空気が震え、遊子と夏梨は抱き合うようにして身を縮める。
 だが虚の鳴き声は工場を過ぎると徐々に遠のき、やがて聞こえなくなった。
「……い、行っちゃった、のかな……」
 震えたままの遊子の呟きに、夏梨は「たぶん」と返す。しばらく耳を澄ましていたが、鳴き声も轟音も聞こえてはこなかった。
「でも、あれがどっかに行ったからって安心じゃない。しばらくここに隠れてたほうがいいよ」
 夏梨は立ち上がり、腰が抜けかけた遊子を支えて、揺れても物が落ちてきそうにない場所に座らせる。自分も座ってしまいたかったが、今気を抜くと立てない気がしたから、やめておいた。
 汗を拭う。走りすぎて、足が痛い。途中でぶつけたらしい膝にも青あざがある。
 相変わらず頭痛はやまない。頑丈だけがとりえのようなものだというのに、一体何なのか。
 ようやく荒いままだった息が整い始めた、そのときだった。
 ドン、と腹に響く凄まじい衝撃が、工場全体を揺らした。それが工場の屋根を虚に叩かれたからだと理解するには時間を要したが、わかった瞬間に、夏梨は走り出す。
「か、夏梨ちゃん!」
「遊子、あんたはそこ動くんじゃないよ!」
 また工場が揺れる。中にいることがばれているのなら、一人だけでも出て行けば意識はそらせられるだろう。このまま叩かれ続けては、工場がいつ崩壊するとも知れない。
 入ってきた窓は振動のせいか歪み、使えそうになかった。けれどドアは残らず施錠されている。
(何かないのかよっ!)
 周りを見渡して、ふと積み上げられていた箱が崩れたそこに目が止まった。外から見たときは内側からの荷物で開けられそうになかった大きな窓が、振動のせいだろう、顔を出している。
 夏梨は一目散にその窓によじ登った。幸いここはまだ歪んでいない。内鍵を外して窓を開ける。
 夏梨が窓から飛び降りるのと、そこに巨大な拳がのめり込むのとは、ほとんど一秒の差もなかった。
「うわあっ!」
 衝撃で体重の軽い体はいとも簡単に飛んだ。硬いアスファルトに容赦なく叩き付けられて、呻く間もなく上からガラスやコンクリートの欠片が雨のように降ってくる。
 一瞬、意識が眩む。汗とは違う生ぬるい感触が額から頬に流れた。反射的にそれを拭うと、どうやら血だった。降ってきた破片で額が切れたらしい。
 けれどそのおかげで幾分か頭が冴えた。ふらふらしながら立ち上がる。また轟音がした。
(離れないと)
 遊子が危ない。
 傷のせいだけでなく痛む頭を堪えて、なんとか足を動かす。
 見上げると、工場の屋根に鳥とも獣とも言えぬ、巨大な拳と羽のようなものを持った虚が見えた。どうやらまだ夏梨が外にいることに気づいてはいない。
 気づかせるために、夏梨は声を張り上げる。
「こっちだ、化け物っ!」
 そして走り出す。だがもうろくに足は動かない。体力が限界だった。
 それでも走る。兄はいない。逃げられない。となれば、残る当てはひとつだ。
(浦原商店)
 あそこが普通の店でないことくらい、もうとうに知っている。ジン太やウルルとは共に虚を倒したことだってある。
 まろぶように駆ける。背後を確認すると、虚は遊ぶようにゆるりゆるりと空から追ってきていた。
 追いつこうと思えば簡単なことだ。逃げる夏梨を楽しんでいるとしか思えない。
「くそ……っ!」
 どうなってるんだ、と思考を巡らす。今までも虚に遭遇したことは少なからずある。けれど理由もなくこんなにも次々と襲われたことは、まずなかった。
 まだ虚は襲ってこない。後少しだ。後少し走れば、じきに浦原商店が見える。
 ――だが、そうそう上手くは行かなかった。
 けたたましい音がする。虚の泣き声だ。笑い声にも聞こえるそれは、一瞬で夏梨の背後に迫った。
 逃げる暇はおろか、何も考えることすらできなかった。
 ただ、振り返った瞬間に間近に迫った虚の仮面と拳が見える。
 そのわずかな思考の間隙に滑り込むように、閃いた記憶があった。

 ――ぎんいろの。

 けれどその名を呼ぶこともなく、打ち据えられた小さな体は、空へと殴り飛ばされた。

[2009.07.23 初出 高宮圭]