伝令神機がけたたましく鳴り響く。虚の出現を知らせて一定のリズムで鳴るはずの電子音が、不規則に切れては繋がることを繰り返し、しまいにはサイレンのようになってしまっているのだ。常ならばこのような鳴り方はしない。
その音を聞きながら日番谷は舌打ちもろとも迫ってきた虚を切り伏せる。虚が掻き消えると同時に、辺りに氷の破片が散った。
「隊長! どうなってるんですか、これ!」
副官である乱菊が少し離れた場所から喚く。彼女の周りにも数体の虚が寄り集まっていた。
「俺が知るか!」
返しながら、また一体を斬る。
唐突に虚が大量出現を始めたのは、つい先程からだ。まるで何かに誘われるように次々と現れる。先遣隊の一員である一角や弓親なども応戦しているようだが、虚のレベルは低くとも、いかんせん、数が多い。
伝令神機が鳴り続ける音を変えたのは、ちょうど日番谷が十体めの虚を斬った頃だった。
この忙しいときに、と眉間に皺を寄せつつも、応答する。
聞こえてきたのは、うるさいほどの斑目一角の声だった。がならなくとも十分聞こえると言うのに、声量がでかい。
「どうした、こっちも交戦中だ」
『こっちにはメノスのギリアンとアジューカスが出てます! それより隊長、とんでもないガキが南東……おい弓親、あっち何がある! ――ああ、小学校!? だそうです、隊長!』
まったく何を言っているのかわからない。
「待て、何の話だ。ガキがどうした。小学校?」
『だからガキが虚に――』
あちらも相変わらず交戦が続いているらしい。たびたび声が途切れては、剣戟の音が聞こえてくる。日番谷も片手で一体薙ぎ払ったところで、声が変わった。
『――代わりました、綾瀬川です。先程、虚だけでなく僕らも完璧に見えるほどの力を持った子供と遭遇しました』
「なんだと?」
死神も見えるほどの力を持った子供。そう聞いて日番谷が思い浮かぶのは、一人しかいない。
さらに弓親は続けた。
『霊圧の動きも妙でした。子供は僕らがアジューカスと交戦している間に逃走。どうやら小学校方面に行ったようですが、僕らが見つけた時点でも追われていたので、かなり危険かと……おっと!』
ガツン、と耳に痛い衝撃音がする。どうやら攻撃で伝令神機を落としたらしい。だが、伝わるべき内容は伝わった。
ぞんざいに伝令神機をしまうと、日番谷は鋭く叫ぶ。
「松本!」
「はい!」
「小学校方面へ向かえ。子供が――黒崎の妹が襲われている可能性がある」
「でも隊長、ここは……」
「俺が片して行く。そのあと俺は状況を訊きに浦原商店へ向かう。阿散井もおそらくそこにいるはずだ」
「――わかりました」
言葉と同時に乱菊の姿が掻き消える。瞬歩を使ったのだ。
虚の群れの最中に残された日番谷は、乱菊の気配が遠ざかったのを確認してから、惜しみなく霊力を放出させた。
「時間がない。さっさと散れ」
淡々と紡がれる声音は増幅する霊力に伴って、鋭く冴えていく。
「――卍解」
どこかに餌があるはずだ、と浦原は言った。
「餌?」
日番谷は怪訝そうに訊き返す。
虚を倒したあと、日番谷は言葉通り浦原商店へ来た。恋次は既に虚退治に出向いた後だったが、茶渡が残り、浦原たちと共に応戦していた。
浦原も日番谷が状況を訊きに来ることを見越していたらしく、訊くまでもなく説明を始め、今に至る。
「そうッス。いくらなんでもこの出方はおかしい。まるで撒き餌でもされたように見えます。けど、本当に撒き餌なら出てきた虚は魂魄や霊力の高い人間を無差別に襲うはずです。それがないと言うことは、何かひとつ、目的の『餌』を探してるんでしょう」
死神目当てでもないようですし、と浦原が言葉を続けようとしたところで、日番谷は目を瞠った。
「なんだと?」
「え?」
「虚は、無差別に霊力の高い人間を襲っているんじゃねえって言うのか」
「ええ。もしそうなら、町のそこかしこで襲われてるでしょ。この町は力の強いヒトが多いですから。もし襲われてる人がいたら、その人が間違いなく『餌』でしょうね」
それに一瞬で、先程伝令神機から伝えられた報告が思い出される。
「どうしたんです、日番谷サン。何か心当たりでも?」
「――ああ」
低く答えて、舌打ちする。
同時に踵を返し、浦原商店の戸を乱暴に開け放った。背を向けたままに言葉を続ける。
「さっき綾瀬川と斑目から連絡があった。死神が見えるくらいの力のある子供が襲われていたとな」
「子供、ですか」
浦原も思い当たる節があったらしい。日番谷が思っている子供と同じならば、そのはずである。
「黒崎サンの妹、ですね」
「一護の……!?」
驚きの声をあげたのはそれまで黙って話を聞いていた茶渡だ。その脇にいたジン太とウルルも緊張した表情をしている。
「先に松本を向かわせてる。俺も追う」
日番谷はそのまま商店を飛び出そうとした。
だが、がなるような「待てよ!」という子供の声にそれを阻まれる。睨むように視線をやれば、ジン太が仁王立ちしていた。
「どっちだよ!」
「あ?」
「だから、あのオレンジ頭の妹は二人いるだろーが!」
「なに?」
初耳だった。――いや、彼女が会話の中でちらと名前を言っていたような気がするが、大して気に留めていなかった。
だが、そうなると面倒だ。日番谷は片方しか知らない。
そのとき、日番谷の伝令神機が鳴った。既に用を成さない虚通知の機能は切ってあるため、誰かからの通信だ。
『日番谷隊長、松本です!』
「松本? ちょうどいい、お前襲われていた子供はどうした?」
『虚の集団のど真ん中にいた子を保護しました。虚も死神も見えてます。一護の妹だって言ってましたよ。無傷だったのが不思議なくらいで』
「無傷?」
『ええ。ひどく泣いて、気を失っちゃってますけど、怪我は……』
――違う。
ほとんど反射的に日番谷は思う。日番谷が知っている黒崎一護の妹は、そう簡単に泣いたりしない。
「松本! 虚はそこに集まってたのか?」
『は、はい。でも不自然なくらいすぐに散りました』
それで、確定した。
間違いない。乱菊が見つけたと言うのは、虚に狙われているほうではない。且つ、日番谷の知る『彼女』でもない。
日番谷は「子供を安全な場所に送り届けて合流しろ」と口早に指示を飛ばし、通信を切った。そして浦原たちを振り返る。
「確定した。虚に追われている『餌』は、黒崎夏梨だ」
言い終わると同時に、今度こそ店を飛び出した。
ごう、とうなる風と共にそこらじゅうに出没している虚の霊圧が吹き付けた。
だがその中でとりわけ目立った強い霊圧に、日番谷はすぐさま方向を定める。
ここから一つ二つ先の角に、虚の霊圧を捕捉する。そう離れてはいない。瞬歩で行けばすぐに着く。
――そして日番谷がその場に着いたとき、虚に殴り飛ばされた小さな体が、宙を舞っていた。
***
走馬灯、というものがあるらしい。
夏梨はそれを聞いたとき、のんきな話だと思ったことを覚えている。
――死ぬなら死ぬで、未練がましく思い出なんか辿るなよ。
じゃないと、かなしいじゃないか。
そんなことを思っていたのは確かに自分だったのに、無防備に宙に投げ飛ばされた瞬間、やたらゆっくりに感じる刹那に思考を占めたのは、まぎれもない思い出たちだった。
(死ぬの、かな)
頭は無駄に回る。けれど体は全く動かない。
死ぬのはいやだ。
嫌だけれど、動かない。
遊子は無事だろうか、とも考えた。無事だといい。あの子だけでも。
(……一兄と同じだ)
思わず苦笑しそうになる。誰かを犠牲にして助かって良かったなんて言わないと、いつか言ったこともあるというのに。
そこでふとひとつの色が思い浮かんだ。
澄んだ、緑。
何の色だったか、と考えそうになって、すぐに思い出した。
(冬獅郎の目の色)
そうだ、確か一番最初に彼を見たとき、銀髪より整った容姿より何より、その翡翠の瞳に目を奪われたのだ。
澄み切った海を思い起こさせるその色がとても印象的で、綺麗だと思った。
そういえば、名前を教えたけれど、たぶん覚えていないだろう。覚えなくていいと自分で言ったのだ。
――まあ、いいか。
自分が覚えているのだから。
そう考え終わるとほぼ同時に、急に体が現実に引き戻された。視界が巡る。アスファルトの地面に落ちるのがわかって、その衝撃に覚悟を決めた。
けれど、予想外に衝撃は優しいものだった。
「う……?」
「おい、生きてるか!」
耳を打った声で、反射的に閉じていた目を開ける。するとちょうど先程まで考えていた緑の瞳が上から覗き込んでいるのが見えた。
「とう、しろう?」
痛みや疲労で朦朧とする意識の中で呼べば、緊張に彩られていた緑の瞳にわずかな安堵の色が宿る。
安堵したのは、彼ばかりではなかった。確かに日番谷だとわかって、夏梨は詰めていた息を深く吐く。
「意識はあるか。……だが、怪我が酷い。動くなよ」
日番谷の言葉になんとか頷く。そもそも、動きたくとも、もう動けそうになかった。安堵したせいで緊張から開放された体は、力が入らない有様なのだ。
肩の後ろと、膝裏に回された腕を感じる。どうやら夏梨は日番谷に抱えられているらしい。ほとんど体格は変わらないはずなのにと思ったとき、体勢のせいで顔の至近距離にある日番谷の口が動いた。
「少し動く。掴まれるか」
「……うん」
言いながら、実はほとんど腕に力が入らなかった。動くのは右のみだ。左は動かそうとしたらとんでもない痛みが走った。おそらく殴り飛ばされたときに怪我をしたのだろう。
それでもどうにか腕を持ち上げかける。だが、自分でも苛つくほど思うように動かない。
それに気づいたらしい日番谷は、腕をひょいと持ち上げて、首に片手を回させた。
「痛むか?」
「え……へ、平気だけど」
思わずきょとんとした夏梨に、日番谷は常と変わらぬ何でもない表情で「ならいい」と言うや、身軽に跳躍した。
途端、背後でばきばきと何かが割れる音がする。
風と共に冷えた空気ときらきらした欠片が舞って来て、夏梨は日番谷の肩越しに背後を見た。
そこには、ぶるぶる震える巨大な氷像があった。
だがそれが本来何か、理解するのに時間はかからなかった。
氷に覆われているが、いびつな翼と、巨大な拳――間違いなく、夏梨を追っていた虚だ。
「やはりまだ動くか」
氷漬けになった虚を振り向いて、日番谷が呟く。
夏梨はぽかんとして虚を眺めた。どうやら知らぬ間に、あの虚は氷漬けにされていたらしい。いつの間なのか、全くわからない。
だが、そのせいでゆっくり話していても大丈夫だったと言うわけらしいというのはわかった。
「あ……」
不意に、悪寒にも似た感触が背筋をなぞるように湧き上がる。今日何度となく感じたそれに、夏梨は確信を持って日番谷に訴えた。
「冬獅郎、来る!」
瞬間、湧き出るように辺りに虚が出現する。十どころではないその数に、夏梨は思わず息をのんだ。半ば無意識に首に回した腕に力を込める。
だが日番谷は全く表情を変えなかった。両腕で支えていた夏梨の体を片手で抱え直すと、無言で刀を抜き放つ。
氷漬けの虚のせいで冷えた空気が、さらに冷える。肌に感じられるほどに巨大な霊圧が、渦を巻くように刀に集まった気がした。
「霜天に坐せ」
日番谷は無駄のない動作で刀を振り上げる。誘われるようにその先の空を見れば、見る間に厚い雪雲が立ち込めて来た。
「氷輪丸」
声と共に、氷の龍が空を駆ける。文字通り瞬く間に氷漬けになった虚に迫ると、容赦なく開いたあぎとでその身を砕いた。
氷の粒が派手に降る。夏梨が半ば呆然としてそれを見上げているうちに、日番谷が動いた。
抱えたままの夏梨をまるで苦にした様子もなく、氷雨の間隙を縫うようにして日番谷は空を切る。そして、周囲に集った虚を薙ぐ。その動作に力んだ様子はない。だというのに易く虚は消えて行った。
「すごい……」
思わず夏梨は呟く。日番谷は虚を圧倒している。それでも虚の数は依然相当数が残っている。どころか、また増えたようだった。
――いったい、何だって言うんだ。
自ら斬ってくれと言わんばかりに日番谷に群がる虚たちの動きは、どうしても腑に落ちない。闇雲に襲ってくる連中はともかく、知能が高そうな虚もいるように見えるというのに。
また数体が踊りかかってくる。日番谷が斬り伏せる。虚の伸ばした触手じみたそれは夏梨に届く直前で崩れた。背後に回りこんだもう一体は動かせない夏梨の左腕を絡め取ろうとしたところで頭を貫かれる。
――あ。
そこで、ようやく夏梨ははっとした。
虚たちは日番谷を狙っているわけではないのだ。むしろ日番谷を気にせぬほどに――
「あたしを……狙ってるのか……?」
その呟きに被せるように、声がした。
「日番谷隊長!」
呼ぶや、すぐさま雄たけびじみた叫びと共に槍のようなもので虚たちが薙ぎ払われる。
夏梨が声のしたほうを見ると、先程見たスキンヘッドの死神とカラフルな死神の二人がいた。
その横合いからまた別の声が飛ぶ。
「唸れ、灰猫!」
現れたのは、いつか見たことのある金髪の死神だった。確か松本乱菊、と名乗っていたと思い出す。
周囲の虚が一旦減って崩れる。
「斑目、綾瀬川、松本も来たか」
「はい――って隊長、その抱えてるガキ……」
「あら、一護の妹! あたしその子しか知らなかったからさっきもう一人の子助けたとき戸惑ったんですよ、隊長!」
乱菊は当時の再現のように困り顔をしてみせる。だが、その言葉に思わず夏梨は身を乗り出した。
「もう一人って……遊子!?」
「え?」
「工場にいた、茶髪の子! 助けてくれたのか?」
「え、ええ。安心して、虚はすぐ離れて行ったから怪我もないし、無事よ」
「そっか……」
ほう、と息をつく。――よかった。
だが、それで予感が確信に変わった。やはり、虚の狙いは夏梨なのだ。
理由は知らない。けれど、それならば。
「とう……」
「話はあとだ。さっさと片付けるぞ」
呼びかけた声を遮られて、夏梨は首をすくめる。だが、そのまま黙ってはいられなかった。
首に回していた手を襟元まで下ろして、引くようにする。
「なあ、待ってよ。あいつら、あたしを狙ってるんじゃないのか?」
「……そんなこと、とっくにわかってる」
「だったら、あたし連れてるあんたばっかり狙われるじゃねえか!」
「それがどうした」
「邪魔だろ、降ろせ」
すると日番谷はあからさまに顔をしかめた。
「それでお前はどうする気だ。まさか一人喰われりゃ済むなんざ思ってねえだろうな」
「思うか、バカ!」
「ば……」
「そういうのはね、バカなオトコの理屈なんだよ! 一兄ならともかく、あたしがんなもん考えるわけねーだろ!」
噛み付くように反論すれば、妙な沈黙の後に乱菊が耐えかねたように笑い出した。
他の面子も呆然と夏梨を見ている。
「あっはっは! やだもう、いいわねえ、さすが一護の妹! たいちょーう、小学生に何言われちゃってるんですか!」
「笑うな松本! ――てめえも、じゃあ何考えてんなこと言ってんだ」
未だ笑い続ける乱菊のおかげで若干迫力に欠けるが、日番谷が鋭く夏梨を見た。
その視線を文字通り真正面、しかも見下ろされる形で受けた夏梨は、それでも怯まない。
「あいつらはあたしを狙ってる。逆に言えば、あたししか狙ってない。あたしが近くにいれば、冬獅郎たちのことなんか眼中外だ。そうだろ?」
それは攻撃を見ていればわかることだった。襲ってくる虚たちは日番谷に抱かれた夏梨『だけ』を狙っていた。まるで日番谷の間合いや攻撃を気にせず飛び込んできては、斬り捨てられていたのだ。
「なあ冬獅郎。あたしを抱えてちゃ、全力出せてないんじゃないのか?」
刀は普通両手で持つものだ。夏梨は剣の心得や知識など持ち合わせていないが、それくらいは知っている。だが夏梨を抱えている日番谷は、必然的に片手で刀を振るうことになってしまう。
だが、それで日番谷が押されているわけではない。むしろ圧倒しているのもわかる。
「俺は、問題ない」
「やなんだよ、あたしが」
「わがままを聞いてやる余裕はねえ」
「いやだ、聞け! ……あたしを降ろしたら、あいつらはあたしのとこに残らず集まってくる。とんでもない数だけど、あんたたちがよってたかって攻撃すれば、一掃だって難しくないんじゃねえか」
日番谷が微妙に表情を動かした。それで夏梨は、自分の予想が間違っていないことを知る。
挑むように視線を合わせ続けていると、ふと日番谷のほうから視線を逸らした。
「お前を囮にしろって言うのか」
「そうだよ。もちろん死ぬ気なんてねーぞ。ちゃんと一匹残らず倒せよな」
小さく日番谷が舌打ちをする。
「簡単に言いやがって」
「簡単じゃねえのかよ」
「……うるせえ」
日番谷はため息を一つつくと、会話を聞きつつ寄ってくる虚を撃退していた乱菊たちに向き直った。
「場所を変えるぞ。――おい、夏梨」
「え」
「今、人気のない広い場所はどこだ」
「ええと……今ならまだ学校終わってないから、前試合やったサッカーコートとか……」
「いいだろう。行くぞ」
言い終わるなり、日番谷は走り出す。夏梨には走っているというよりは飛んでいるようにしか思えない動きではあるが。
耳元で風を切る音を聞きながら、夏梨は日番谷の首に掴まり直した。
体勢が落ち着き、自然近づいた日番谷の顔の下で、俯く。半ば顔を埋めるような形になったが、気にしないことにした。
そうして、ぼんやりと先程の声を思い出す。
「うそつき……」
高速で風を切る日番谷には聞こえないほどの声で、呟く。
「名前覚えないって、言ったじゃん」
その呟きはおそらく、日番谷には聞こえなかっただろう。
けれど呟いたあと、駆ける速度が少し上がったような気がした。
[2009.07.23 初出 高宮圭]