最近夏梨の悩みの種だった頭痛は、日に日にその頻度を落として行った。
一応医者である父親に言うと、偏頭痛かもしれないと言われていたから、どうやら違うようであることにほっとする。
今日は日曜日だ。
だが、生憎の雨で、いつものように外に遊びに行くことができない。
だから夏梨は、ぼんやりとベッドの上で本を捲っていた。
スポーツは好きだ。けれど、本も好きだ。周りにいるサッカー仲間の男子たちは本と聞くと一様に嫌な顔をするが、捲るたびにする紙の匂いや、無心に没頭できる感覚が気に入っている。
コンコン、とドアがノックされた。
「夏梨ちゃん、ちょうどいいからお部屋お掃除しちゃおう」
掃除機を片手に顔を出したのは、双子の姉の遊子だ。母親が亡くなってから、器用な遊子は家の一切の家事を担うようになっている。もちろん夏梨も手伝えることは手伝うが、いかんせん、不器用が祟るのだ。
本にしおりを挟んで閉じる。枕元に置いて、ベッドから降りた。
「そうだね。じゃ、あたし一兄の部屋行くよ。親父の部屋よろしく」
「え! お兄ちゃんまだ寝てるんでしょ? あたし、後でするよ?」
「いいよ、どうせ起きやしないんだから」
はたきを片手に、ひらひらと手を振って部屋を出る。
扉を閉めてから、夏梨はため息をついた。
ちらりと、服で隠れた左肩を見やる。服の下には、黒い帯状の刺青のようなものがある。それが刻まれたのは数日前だ。
その刺青は、夏梨を虚から隠すものだと、浦原商店の店主は言った。
――少し前、夏梨はなぜか虚の大群に追いかけられるという災難に遭った。今部屋の中で掃除に励む遊子も巻き込まれたのだが、どういうわけか、遊子の中からは綺麗さっぱりそのことが消えている。恐らく、浦原が何かしたのだろう。
ともあれ、追いかけられた夏梨を救ったのは、日番谷冬獅郎を始めとする死神たちだった。夏梨もかなりの無茶をやらかしたが、まあ、それは置いておくことにする。
虚たちが執拗に夏梨を狙ったのはその霊圧のせいで、それを隠すためだ何だと、喋る黒猫にいつの間にかこの刺青のようなものを付けられてしまったのだ。
あれから数日。虚が出てくる嫌な感覚にはたびたび襲われるが、虚が夏梨を狙ってくることはなかった。
その数日の間、夏梨は一度だけ日番谷に会った。別段特に話すこともなく終わったが、元気そうな姿を見て少しほっとした。
大して気にしていたつもりはなかっただけに、自分の意識に少し驚いたが、何度も命を救われている、いわば恩人であるのだから当然かと思い直した。
そして昨日、行方不明だった兄が、唐突に帰って来た。――傷だらけの、意識のない状態で。
何があったのか、察することはできた。だが、わからないことも多い。
いつか日番谷は、兄を強いと言った。彼にそう言わしめると言うことは、一護の力は言葉どおり強いのだろう。ならばただの虚にやられたのではないことは、容易にわかる。もっと強力な、何かだ。
事態は動こうとしている。
一護が帰って来た。それが何よりの証だ。
――そして、また出て行ったことも知っている。
(一兄のバカ)
気のない足取りで、夏梨は兄の部屋に続く階段を上った。
ドアを開ける。
兄の部屋のベッドの中には、確かにその姿があった。目を閉じたまま、微動だにしない。
だが、開け放ったままの窓からは勢いよく風が吹き込んで、カーテンが落ち着きなく揺れている。
「一兄の、バカ」
口に出して、言う。寝たままの頬を思い切りつねってやった。起きる心配はないから、やりたい放題だ。
なぜならば、この体に『中身』はない。
『中身』――魂と言うのか、霊体と言うのか。それがあることは、体質上とうに知っている。そして兄の一護が、その霊体のときは死神として動いていることも、知っている。
今朝のことだ。偶然カーテンを開けたら、走り去っていく死神の姿の一護を見た。それを先導するように先を行く日番谷の姿も共に捉えた。
カーテンを開けたのが偶然だったのか、無意識に何かを察したのか、それはわからない。
けれどタイミングよく夏梨がそれを見てしまったのは、まぎれもない事実だった。
「やっと帰って来たと思ったのにさ」
呟いて、窓の外を見た。雨は止む様子を見せない。
何かが動こうとしている。
漠然と、それを感じる。
朝あの光景を見たときから感じる予感が、勢いを増す。
「 」
ほとんど無意識で、声を出さずに五文字の名前を呼んでみた。
――それからほとんど衝動的に、夏梨は動いた。
賑やかに一護の部屋を出る。ほとんど飛び降りる勢いで階段を駆け下り、玄関の傘を引っつかんで雨の中に飛び出した。
一応手にはあるものの、開く時間さえ惜しくて、そのまま駆ける。
(はやく)
急げ急げと自身に叫んだ。足は転がる寸前のスピードで動く。
いくつめかの角を曲がったときだった。雨で濡れた地面に、足がもつれる。思わず小さく声をあげて角に掴まろうとしたが、僅差で届かない。
だが伸ばした手は、今夏梨の中で最も意外なものに掴まれた。
「何やってんだ、おい」
「……あれ、冬獅郎?」
手を引いてこけるのを阻止したのは、唐突に現れた死神姿の日番谷だった。
「何してんだ、こんなとこで」
「それは俺の台詞だ。何で雨の中傘持ってるくせにささないで走ってんだよ」
雨と風で冷え切った夏梨の手に、日番谷の手のぬくもりがじんわりと移って来る。それにようやく現実であることを実感して、夏梨は長々と息を吐いた。
「……何だよ、お前。こっちは帰ったと思ってたのにさ」
すると、日番谷が意表を衝かれたような顔をした。
「やっぱりそうか。……何で知ってるんだって言いたげだな。教えてやる。ただの勘だよ、勘」
「は?」
「何か最近変だなってのはわかってたからさ。昨日一兄が帰ってきて、また出てって、何となく、冬獅郎たちが帰るのかなって思ったんだ」
死神と言うくらいだ。どこかは知らないが、違うところから来ているのはわかる。
日番谷はまだ驚いた表情のままで、やがてため息をついた。
「鋭い奴だな。……それで何で来るんだ? 帰ったと思ったなら、無駄足だろ」
「え」
言われて、ようやく思い至った。確かにそうだ。帰った後に行ったところで、会えはしない。そもそも会ってどうしようと言うのか。
考えあぐねていると、日番谷が呆れた顔になった。
「……お前、まさか何も考えてなかったのか」
「う、うるさい! こっちだって何となくだったんだから、仕方ないだろ!」
喚いたところで、不意に左肩に手のひらで触れられた。きょとんとすると、日番谷が一言呟く。
「解呪」
言うなり、しゅるしゅると音を立てて夏梨の肩から黒い帯状のそれが浮き上がってきた。
「うわ、何だ?」
「外してるんだ。お前の霊圧が安定した今、もう必要ないからな」
浮き上がった黒いそれは、一度日番谷の手のひらに落ちた。そして手のひらにあった似たような黒い花を吸い取って、また浮き上がると、今度は目にも止まらぬ速さでいずこかへ飛んで行ってしまった。
「どうあれ、出てきてくれて俺は好都合だった。いつ外しに行くか考えていたんだ」
「……これ外すために来るつもりだったのか」
思わず脱力しそうになる。全くずぶ濡れになった意味がない。ちなみに日番谷は何をどうしているか知らないが、全く濡れていないのだ。
夏梨は一度俯いてから、日番谷を見た。
「帰るんだろ?」
「ああ」
「そっか」
夏梨はまたため息をついて、濡れた髪を撫で付けた。そこでふと気づく。
「……なんだ、あんたあたしより背ちっちゃいんだ」
「あ?」
ぴくりと日番谷のこめかみが痙攣した。気づいたが、気にせず続ける。
「てことはあたしは自分より背の低い男に守られてたってわけか。うわ、あたしの主義総崩れなんだけど」
「おい、てめえな!」
「感謝はしてるぞ」
「さっきの今でよく言うな」
「ホントだって。じゃなきゃ会いに来ないだろ」
そこまで言って、ようやくわかった。
(そっか)
帰ったと思っても、走った理由。それはとても単純なものだ。
気づいて思わず笑う。日番谷が訝しげな顔をした。
「何笑ってんだ」
「何でもねーよ。それより冬獅郎、お前背伸ばせよな。せめてあたし以上」
「余計なお世話だ! 言われなくても伸びる! お前は髪でも伸ばして少しは女らしくなれ」
「えー、伸ばすと邪魔じゃん。背は伸びる予定だけど」
「どうだかな」
「お前こそな」
雨の中でお互いに減らず口を叩き合う。それが無性に楽しくて、夏梨は笑った。日番谷も、わかりにくいが少し笑った気がした。
さあさあと、酷くはないがしっかりした雨が降り続く。雨音に紛れるほどの声量で、夏梨は名前を呼んだ。聞こえなかったなら、それでいい。続ける言葉をなしにするつもりだった。
「冬獅郎」
「何だ」
聞こえたらしい。存外それが嬉しくて、少し笑う。
「あたしさ、たぶん最後にあんたに会いたかったから来たんだと思う」
「……恥ずかしげもなくよく言うな」
「恥ずかしげもなく聞く奴が言うなよ。これでも何かと感謝してるんだから」
わざと拗ねたように言えば、今度こそ日番谷が笑った。
「そうかよ」
「そうだよ」
ふと日番谷が視線を落とし、夏梨の手にある傘に止めた。何だと思っている間に、ひょいと傘を取り上げられる。
片手で傘を開くと、もう一方の手で夏梨の手を取った。
「傘はささなきゃ意味がねえだろ」
言って、夏梨の手に傘を握らせる。
「……今更だなあ」
「つべこべ言うな」
日番谷が握らせた手を離す。少しそのぬくもりが名残惜しく感じた。
だがそれは口にせず、傘を傾けて日番谷の顔が見えるようにする。
日番谷は離した手を軽く握って、元の位置に戻すところだった。
その視線が夏梨に戻ってきてから、言う。
「じゃあな、冬獅郎」
「……ああ」
返事を聞いて、踵を返した。傘をさしたせいで、余計に雨の音が近く聞こえる。
だが、その音に紛れない呼び声に、夏梨は思わずびくりと足を止めて、振り返った。
「え……」
視線の先では、日番谷がどこか悪戯っぽい表情を浮かべて、夏梨を見ていた。
「覚えたぞ、名前。じゃあな」
あっさり言って、それきり姿は掻き消える。
誰もいなくなった道をしばらく見つめていた夏梨は、寒さのせいだけでなく頬が上気してくるのに気づいて慌てて俯いた。
何だよ、と決して届きはしない文句を口の中で呟く。
「反則だろ、そんなの」
耳に残ってこだまする自分の名前を呼ぶ声が、やけに心地よく感じられて、どうしようもなくなった。
[2009.07.23 初出 高宮圭]