教師と生徒

01 : 猫と夜

 ああ、なんて空は清々しく青いのだろう。夏も終わりだと言うのに今だ蝉は騒がしく、それでも負けじと秋を主張する寒蝉も鳴きだして、なお賑やかだ。 視線を投げている窓辺に雀が寄ってきた。昼休みに弁当の半分を懐いている野良猫にやっていたのだが、どうやらそのご飯粒の名残をつついているらしい。何とも平和な景色である。
「……聞いてるか、黒崎」
 わざとらしく、だん、と机上のプリントの束を揃えてみせる音に、夏梨は顔を窓の方向に逸らしたまま、横目だけで目前に座す教師を見た。
「どうしてもだめなんですか」
「だめだ」
「……こんなに真剣なのに」
「悪いが、受け入れられない」
 室内に重い沈黙が落ちる。
 ――ここだけ聞けば、教師と生徒のいけない恋愛事のやりとりに聞こえなくもない。だが、それは全くの間違いである。
 沈黙を破ったのは、黒崎と呼ばれた女子生徒のほうだった。
「いいじゃん別に猫くらい居着いたって! 多少にゃーにゃー鳴いたって誰も気にしやしねえよ!」
「授業妨害甚だしいだろうが! だいたい、自然に住み着くならまだしも、お前が餌付けしたんだろ」
「毎日来るから毎日弁当の残りあげてただ」
「それを餌付けっていうんだ」
 打って変わってまるで敬語など無視して、女子生徒――黒崎夏梨は噛み付く勢いで反論する。対する本校一の人気を誇る教師――日番谷冬獅郎は、断固としてそれに取り合わなかった。
「とにかく、学校で動物を飼うことはできない。どうしても飼いたきゃ、連れて帰るんだな」
 その日番谷の意見に、夏梨はむっと眉を寄せる。
「そうしたいけど、無理なんだよ。遊子も拾ってくるから、里親待ちの一群ができちゃって、定員オーバーだ」
「……何匹いるんだ、いったい」
「総勢十一匹。めでたく一昨日二桁に達した」
「……」
 ちなみに遊子というのは夏梨の双子の姉だ。同じ学校、当然同学年で異クラスの似ていない双子は、そうと知らない者も多い。だが夏梨たちのクラス担任をしている日番谷は知っている。
 呆れたふうに言葉を失った日番谷に、夏梨は自らも呆れたような口ぶりで続けた。
「まだ驚くのは早いよ。十一ってのは猫だけの数なんだから」
「……おい、まさか」
「犬も子犬ばっかり五匹。まあこいつらは二匹里親が決まったからいいけど……あの状態のウチに、あたしまで連れ帰ったらもう歯止め効かなくなるもん」
 だから、と夏梨は高く音を立てて机に手を叩きつけた。その拍子に二の腕まで程ある黒髪が揺れて、日番谷の視界に映りこむ。
「学校で、」
「却下だ」
「こっそりでいいから」
「更に不可能だ」
「……何だよケチ! そんなだから背が伸びないんだろ!」
「関係ないだろうが! 課題増やすぞてめえ!」
 日番谷が成人男性にしては若干背が低いのを気にしていることは本人こそ知らないが、周知の事実である。とは言え夏梨よりは高いし、もっぱらの女生徒よりは十分高いのだが。
「じゃあ先生の家で」
「だから、その猫の面倒見てやる義理なんざねえだろうが。ほっとけ、そのうち自力で生きてくもんだ」
「……そりゃ、あたしも思ったけど、ちょっと無理」
「理由は」
「怪我してるから」
 タイミングよく、にゃあ、と可愛らしい鳴き声がしたのはそのときだ。
 日番谷からして背後、夏梨からして正面の窓の方向から、その声は連続して聞こえる。
 夏梨は慌てたように手振りで下がれと示して、窓際に駆け寄った。日番谷が振り向いた頃には窓を開けて、下を覗きこんでいる。
「……黒崎、例の猫か」
「……まあ、ハイ……」
 バレた、とでも言いたげな表情で夏梨は素早く窓を閉める。
「何も見つけた途端に保健所送りになんてしねえよ」
「その発想が速攻で出てくるとこが怪しい」
「……面倒見てやらねえぞ」
 途端に、夏梨の表情がぱっと変わった。
「飼ってくれるの?」
「あくまで臨時だ。里親が見つかるか、怪我が治って勝手にそいつが出てくか」
「ありがと、先生!」
 夏梨は頓着なく笑う。無邪気な笑みは無防備なくせに、大人びているように見える。それに日番谷が妙に落ち着かなくなったのは、最近のことだ。
 黒崎夏梨、高校二年生。日番谷は一年のときから彼女のクラスを担当している。というのも彼女が三年間クラス換えのない特別理系のコースにいるからだ。担任も変わることはない。そのために、馴染みはある。だが、ごく最近まで個人的な頼みを聞いてやるほど親しくはなかった。
 ――ほんの数ヶ月前、家出をやらかした彼女を拾うまでは。

***

 その日、日番谷は残業の末、教師仲間の乱菊や檜佐木、市丸に半ば強制で飲み会に連れて行かれていた。だがもともと酒に強い日番谷はそう酔うこともなく、すっかり酔いつぶれた乱菊と檜佐木を市丸に押し付け、体よく逃げ出してきた後であった。
 時間は深夜。住宅街の道など、もう人の気配はない。ただ街灯ばかりが煌々と明るく、夜風は少々火照った体を適度に冷やしてくれている。
 キィ、キィと闇に響く金属の擦れる独特な音が、公園の前を通りかかったときに聞こえた。
 ブランコが揺れているのか、と納得しかけたが、それにしては連続する音に引っかかりを覚える。確かに時折風は吹くが、ブランコを揺らすほどのものではない。しかも音は定期的なリズムを刻み、ざり、と地面を擦る足音も聞こえる。
(……誰かいるのか?)
 公園の入り口には街灯が点っている。だが、ブランコがあるのは一番奥で、光は届かない。
 日番谷は不審に思って、公園の街灯のもとへ一歩踏み出す。その途端、ダン! と強い足音が響いた。
 それがブランコから誰かが飛び降りた音だと気づくには少々時間を要し、その間に日番谷の横を人影が走りぬけた。
「お……っ」
 おい、と一声かける暇さえない。足音はみるみる遠ざかる。日番谷は舌打ちまぎれに、それを追いかけた。
 顔は見えなかった。だが、はっきり見えたものがある。――制服だ。
 あの制服は、日番谷が勤める学校の生徒のものだった。今の時間、高校生が出歩いていいわけがない。やっかいなことだが、日番谷には教師としてそれを止める義務がある。それを見なかったことにして放棄するほど、彼は怠慢な教師ではなかった。
 日番谷がその女子生徒の腕を捕らえたのは、追いかけ出して間もなくだった。生徒のほうが、速度を緩めたのだ。
 だが、捕らえたと思った瞬間、鋭い回し蹴りが日番谷を襲った。
(何だ?)
 予想外の攻撃に日番谷は反射的に距離を取る。学生時代から様々な武芸を習ってきたせいもあり、喧嘩には自信がある。だが、女子を相手にしたことはない。ましてや自分の学校の生徒だ。
 事態の衝撃に日番谷は若干混乱する。そこに更に追い討ちをかけるように、予想外の言葉が投げつけられた。
「いい加減にしろ、この変態!!」
「あ!?」
「いつまで追ってくりゃ気が済むんだよ、このストーカー野郎!」
 口が悪い。
 大層口が悪い。
 声は女のものだ。高く、とても女らしいものであるが、いかんせん言葉遣いがいただけない。しかもストーカー呼ばわりとは何事か。
 日番谷はこめかみを痙攣させて、怒鳴り返した。
「教師に向かってストーカー呼ばわりとはいい度胸だな、夜遊び高校生が!」
 日番谷は、これにどんな罵詈雑言が返って来るかと考えていた。だが、意外にも返って来た反応は、素っ頓狂なものだった。
「……へ? 教師? ていうかその声……まさか日番谷!?」
「呼び捨てとはつくづく懲りねえ奴だな。……そうだ。空座第一高校の教師、日番谷冬獅郎。てめえ、ウチの生徒だろう」
 どうやらもう逃げる様子はない。日番谷はずかずかと歩み寄ると、再度腕を掴んで街灯の下に引っ張り込んだ。ようやく顔が見える。
 そしてまた驚くことになった。
「お前……うちのクラスの黒崎か」
 街灯の下で日番谷に捕まっていたのは、日番谷の担当している二年一組の生徒の一人だった。
 黒崎夏梨。特に目立つこともない、何事も満遍なくこなす、優秀な生徒だ。日番谷の印象では常に冷静な生徒で、淡々と物事をこなし、周りをまるで気にせず黙々とやりたいこととやるべきことをやっていくが、どうやら人望は厚い。教師の間でも評判は悪くない。つまり、手がかからない、ゆえにあまり関わりのない生徒だった。
 だからこそ、意外だった。とても夜遊びするような人物には思えない。
「こんなところで何してる」
「……散歩、なんて言っても……聞いてくれないよな」
 ぼそりと呟いて、夏梨はあきらめたように息をつく。
 日番谷は表情を動かさないまま、妙な違和感を感じていた。
(こいつ、こんなに口悪かったか?)
 学校では教師にはしっかりと敬語を使っていたはずだ。だが今は、あけすけにタメ口、むしろそれよりも男勝りな口調に思える。
「家出ですよ」
 長いため息を吐き出してから、唐突に、だがはっきりと夏梨は言った。取って付けたような敬語に聞こえるが、とりあえず構わない。
 それよりも。
「家出だと?」
「はい。でも大丈夫です、学校にはちゃんと行くし、家にも友達のとこに泊まるって連絡はしてるので」
「……何言ってんだ、お前」
 それは正確に言えば家出ではない。そう思ったが、うまく言葉がまとまらない。全てが予想外すぎた。
「土日で明日と明後日休みだし、心配しなくていいですよ。……あー、そうだ。今晩泊まるアテもあるし」
「そんな嘘くさい言葉が信用できるか。ちゃんと説明しろ」
「……めんどくさいな」
「聞こえてんぞ」
「だっ……」
 夏梨は反論しようとしたらしい。だが、それは言葉になりきらずにくしゃみに変わる。
 その細い肩が小さく震えていることに、日番谷はそのときようやく気づいた。
 更によく見れば、顔色も悪く、どうやら服が湿っている。
「……何があった?」
「……別に、ちょっと、川に入っただけ」
「川?」
 日番谷は訝しげな表情を強くする。夏梨はふいと視線を逸らして、腕を抱えた。
 今の季節がいくら夏前だとしても、夜に濡れたまま風にあたっているのは体によくない。
 全く事情は察せられないが、日番谷はとりあえずため息をついて、「来い」と腕を引いたまま歩き出した。
「は、ちょ……っ、先生?」
「少し行ったところに俺の住んでるアパートがある。とりあえず、話はそこで聞く」
「待ってよ、何言って……ていうか、ほっといてくれていいってば!」
 喚く夏梨を振り返りもせずに、日番谷は歩き続ける。
「お前は俺の生徒だろ」
 一言、そう言うと、夏梨は驚いたように息をのんで、それきり静かになった。

 ――そうして、あの長い一夜は始まったのだ。

[2009.08.25 初出 高宮圭]