教師と生徒

02 : 病と夜

「座ってろ」
 とりあえず自宅へ夏梨を連れ帰った日番谷は、リビングに夏梨を通した。椅子はないから、絨毯の上に座布団をひいて座らせる。
 しっかりとした明るい場所で見ると、やはり顔色が悪い。なぜか川に入ったと言っていたが、おそらくそのせいだろう。
 とりあえず着替えさせるべきかと考えて、日番谷は「待ってろ」と言い置いて寝室へ入った。
 日番谷の住むこの部屋は1LDKのありきたりなアパートであり、室内距離はほとんどない。適当な服をタンスから引っ張り出す。サイズは合わないだろうが、小さいよりはましだろう。
 日番谷が服を揃えてリビングに戻ると、夏梨が人形よろしくこてんと寝転がっていた。
 時間も時間だ、眠かったのだろうかと半ば呆れながら近づいて、そしてようやく彼女が寝ているわけではないことに気づいた。
「おい、黒崎」
 呼んでも返事はない。青白い顔に浮かんだ脂汗が見える。浅い呼吸が胸で繰り返されている。それは明らかに『睡眠』ではなかった。どちらかと言えば、失神だ。
 どうやら、目を離した隙に貧血を起こしたらしい。
 とりあえず楽なようにしっかりと体を横たえてやりながら、日番谷は連れ帰ってよかったと思う。こんな深夜にもし外で倒れても、誰も助けてはくれまい。
「……う」
 しばらく様子を見守っていると、比較的早く夏梨は意識を取り戻した。ぼんやりと目を開き、やがて意識がはっきりしてくると、きょとんとしたように首だけで辺りを見渡した。
 そして、日番谷と目が合う。
「……せんせい……?」
「目が覚めたか。……まだ動くなよ」
 起きようとした夏梨を手振りで制して、日番谷は覗きこんでいた体勢から、隣に座りこむ形へ変える。
「あれ、あたし……」
「覚えてるか。うちに入ってすぐ倒れたんだ」
「……そうだっけ……」
 手の甲を額に当てて、夏梨は浅い息を吐く。まだ顔色は悪いままだが、意識がないときよりも幾分ましに見えた。
 まだぼんやりしている様子の夏梨に、日番谷は一つ息をついて、額に乗せていた夏梨の手をどかせる。それから、その額に手のひらを触れさせた。
 顔をしかめる。
「……お前、熱あるじゃねえか」
「……やっぱり? あたし、熱出ると、貧血気味になるんだ」
 弱くそう言って、夏梨は浅い息を繰り返す。ひどく高い熱ではないようだが、深夜に家出できる体調ではない。
 訥々と説教でもしてやろうかと思っていた日番谷だが、それどころではない状況に、何度目かのため息が漏れる。
「……しばらく、このまま寝てろ。少し動けるようになったら、こっちの服に着替えとけ。風呂場はあっちだ」
 端的に説明して、日番谷は立ち上がる。夏梨は黙ってそれに頷いた。
 時間は深夜二時前。日番谷はキッチンに立った。
 普段は面倒でほとんど料理など作らない日番谷だが、作れないわけではない。あいにくレトルトのおかゆなど手元にないから、作るしかないのだ。

 おかゆが出来上がった頃、夏梨もどうにか動けるようになったらしい。言われた通りに着替えを済まして、ぼんやりと座りこんでいた。
 その目の前にある机に、即席のおかゆを置く。
 すると、きょとんとした眼差しが日番谷を見上げた。
「……何だ?」
「……先生って、料理できたんだ」
「できなきゃ、一人暮らしなんざできねえだろ」
「意外……」
 おかしそうにくすくすと笑って、夏梨は小さく「いただきます」と呟いてから添えてあったスプーンを取る。
 向かい側でその様子を眺めながら、日番谷も意外なことに気づいていた。
(こいつ、こんな子供っぽかったか)
 学校での印象は冷静で淡白、けれど明るい。客観的な視点で物事を見ることが得意で、人望も厚いゆえに、他の生徒より大人びて見えることが多かった。
 けれど今は、無防備と言えばあまりに無防備で、ゆるやかな動作はそれをより増長させている。
「……聞かないの?」
 おかゆをゆっくりと食べ終えた後、お茶を飲みながら夏梨がぽそりと呟いた。
「何が」
「いろいろ、聞かれるのかと思ってたから」
「……聞きたいが、とりあえず今は薬飲んで寝ろ」
 置いてあった市販の風邪薬を差し出して、日番谷はため息をつく。それに夏梨は一つ頷いて、素直に薬を飲んでから、寝転がっていた場所にまた横たわった。
「そこでいいのか? ベッドもあるが」
「ここでいい。十分」
 体がだるいのだろう、夏梨は静かに息をついて、寝転んだまま日番谷を見た。
「……ごめん、迷惑かけて」
「今更だな。今日はこのまま寝とけ」
「……ありがと」
 ぽそりと礼を言ってから、夏梨は尚も日番谷を見ていた。食器を片付けてきた日番谷は、いまだ視線が離れないことに訝しい視線を返す。
「なんだ?」
「……なんとなく、そういえば、先生と二人で話したことってないよなって思って」
「……確かにそうだな」
 一年のときからの担任ではあるが、面談以外で個人的に話し合ったことはない。事務的な用事などで会話することはあっても、他の生徒のように夏梨は雑談をしてくる生徒ではなかった。
 それが何やら一足飛びに自宅で風邪の面倒を見ることになろうとは、思っても見ないことだ。
「喧嘩、したんだ。……遊子と」
 夏梨は横たわったまま、話し出した。どうやら説明してくれる気らしい。この際、敬語は構わないことにした。
「七組の、お前と双子の?」
「うん。いろいろあってさ。……で、家を出たんだけど、偶然川に、猫の入ってるダンボールが流されてくのが見えて」
「それで川に入ったのか」
「そう。その猫、助けたんだけど、それからが散々。首輪に書いてあった住所がえらく遠くて。もう夕方だったんだけど、それから届けに行って帰ってきたらすっかり夜。帰るに帰れない時間になっちゃうし、あげく変質者に付きまとわれてさ。下手に家に帰ったら家族に迷惑かかりそうだったから、とりあえずまいて、公園にいたってわけ」
 そこを、日番谷が見つけたらしい。運がいいのか悪いのか、悩むところだが、現状から見てよかったと言うべきだろう。
「家には連絡したんだろ?」
「連絡したよ。友達の家に泊まるって言ったけど」
「……もしかしてお前、あの公園で野宿するつもりじゃなかっただろうな」
 言い方に違和感を覚えて訊ねれば、夏梨は案の定、ばつが悪そうに顔を逸らした。
 思わず、ため息が出る。学校では無茶をやるような生徒には見えないのだが、どうやら学校での印象は、今は役に立たないらしい。
 そもそも、いくら猫が川に流されていようがそこに飛び込んで助け、そのまま送り届けてやってしまうその行動力に感服する。
「アホか、お前。そんなことしたら、それこそ変質者のいい餌食じゃねえか」
「……熱が出たのは誤算だったんだってば。体強いほうだし」
「そういう問題じゃねえだろ」
「うっさいな、先生口悪いぞ」
「お前もな。学校での敬語はどこ行った」
「あたし兄貴譲りでもともと口悪いもん。友達とかみんな知ってるよ。学校で先生に話すときはうっかり暴言吐かないようにしてるだけ」
 もともと敬語は苦手らしい。話しているうちにどんどん棒読みになっていくのだと夏梨は疲れた様子で語った。なるほど、だから学校では口数が少ないように思えるようだ。
 日番谷が妙に納得しているうちに、夏梨はうとうとしてきたらしく、そのままこてりと頭を座布団に沈めた。
 その様子を見て、日番谷は思い立って立ち上がる。
 そして、寝室の押入れから余分に置いている布団を引っ張り出してきた。
「黒崎、寝るならちょっと待て」
「ん……」
 このまま絨毯の上に寝かせては体が痛くなってしまうだろうと思い至ったのだ。だが布団を整えても、当の夏梨はどうやら半分夢の中に入ってしまったらしかった。
 一瞬悩んだが、日番谷は看病の一環だと割り切って、その体を抱え上げて布団に移す。
 とりあえずその動作を終えて、日番谷は何度目かになるため息をついた。
 どうやらこの様子なら、朝には熱は引いているだろう。だから、もれたため息は、半分日番谷自身についたものだった。
(一応、一年以上担任やってるってのに)
 黒崎夏梨について、今日、この夜の数時間だけで得たことのほうが、今までの一年以上よりも格段に多かった。
 担任は一クラス三十人以上を一手に担う。全員を平等に知れるとは思っていないが、それにしても今まで知っていたことがあまりに上辺だけだったことがわかってしまった。
 猫を助けて、変質者に追われて、そのくせ家族を案じて体調も顧みず野宿しようとする。
 こんな無茶をやらかす生徒を、日番谷は他に知らない。
「変な奴……」
 ――その夜から、日番谷の中で、彼女という生徒の認識が変わった。


***


「……どうしたんだ、先生? 百面相」
「……何でお前がうちに入り浸るようになったのかを考えてた」
 きょとんとまるで無邪気に問われて、日番谷は半眼で夏梨に答えた。
 夏梨の膝には、例の怪我をしたという猫がいる。
 そして夏梨のいる場所は、日番谷の部屋である。
 ――あの夜から、後。日番谷は三度ほど続けて夜に公園辺りを徘徊する夏梨を拾った。
 どうやらもともと、よく深夜徘徊をするくせがあるらしい。眠れないと外に出るのだそうだ。兄に教えてもらったと言うから、日番谷としては深夜の散歩を進めたその兄を恨めしく思う。
 そんなこんなで、何度も拾ううち、夏梨は日番谷の部屋に入り浸るようになった。
「もともと先生が徘徊するくらいなら来いって言ったんだろ」
「……それはそうだが」
「それよりさ、この子のこと、よろしく」
「……ああ」
 結局、頷く。もともと頼まれごとは断れない性分だが、最近はそれが著しい気が自分でもする。
 日番谷は横目ですっかり暗くなった窓の外を見た。

 時間は相変わらず、夜。あのときのように深夜ではないが、日番谷の仕事もあって、夏梨がここに来るのはもっぱら夜である。これは、周りにばれたらまずいのではなかろうか、と思わなくもない。
 だが、来るなとも既に言えない自分に、嫌気が差す。
「な、先生」
「何だ」
「今日泊まってっていい?」
 まるで無邪気だ。かつ無防備に、彼女は訊ねる。
 日番谷はそれを横目で見た。
 あれから、何度か夏梨は日番谷の部屋に泊まっていくことがあった。ただの寝床として帰って行くだけなのだが。
 そうした妙な保護関係ができあがってから、既にもう数ヶ月。
 相変わらず、彼女は無防備なままだ。
 日番谷は、深々とため息をついた。
「……勝手にしろ」

 ――あくまでもまだ、彼と彼女は、教師と生徒なのである。

何事もきっかけを書くのが好きなのですが、途中から学パロにした目的を見失ったっていう←
おかしいな、理性と本能の狭間でうんうん唸る大人気ない日番谷を書きたかったはずなのに、こ、この理性たっぷりさんめ……!!(すみません)
個人的に黒崎家姉妹はどこまでも天然に男を翻弄すると思います。
[2009.08.27 初出 高宮圭]