「四月でお前らも六年か……早いな」
「オヤジくさいよ、一兄」
兄の呟きを一蹴して、夏梨は朝食の味噌汁をすする。
「でも、ホントそうだよね。お兄ちゃんも高二だし……その次にはあたしたち、中学生だよ」
夏梨の隣にいた遊子が、中学生という響きに嬉しそうな顔をする。
確かに夏梨たちからしてみれば、中学生と言うのは小学生より断然大人な感覚があった。
「中学生……ってことは制服になるな。つまり遊子も夏梨も有無を言わさずスカートってわけだ」
「何!? スカート! レアな夏梨のスカートが日常になるのかァァ!!」
「沈めクソ親父!!」
聞きつけた一心がテンションを一気に上げたのを、夏梨は回し蹴りの一撃で沈める。慣れたものだ。だが父親が超の付くタフさを誇っているのは夏梨も知っている。だから復活してきたそのままを一護の方面へ蹴り飛ばした。サッカーやっていてよかったとこんなときに思う。
「ふぐう!?」
食事中不意に父親が降ってきた一護はもろに直撃を受けたが、気にしない。兄も相当頑丈だ。
すぐさま父子の攻防が始まった。その隙に夏梨は素早く食事を終わらせる。
「かっ夏梨ちゃあん!」
「ほっときなって、遊子。それよりあたし、今日お昼いらないから」
「えっ、また? 夏梨ちゃん、最近多いね。お休みになると……。ちゃんと食べてる? 今日もサッカーの試合練習?」
「今日は普通に試合。見に来るなら来ていいよ。午後二時キックオフで、中央グラウンドな。あと、ちゃんと食べてるよ、心配すんなって」
言い置いて、席を立つ。
まだ父子の攻防は続いている。合間で夏梨に気づいた一護が声をあげた。
「あっ、てめえコラ夏梨! 何すんだ!」
「いいじゃん一兄、相手してやんなよ。親父喜んでるって」
「むう!? 夏梨、父さんは喜んでなんかいないぞ! むしろお前や遊子に頬擦りしてるほうがよっぽど……」
「近寄るなヒゲ! じゃあ、あたしもう行くからな! 行ってきます!」
あらかじめ椅子に引っ掛けておいた鞄を肩にかけ、夏梨は勢い良く賑やかな家から出た。
玄関先で靴を整える間も、まだ家の中からやんややんやと声が聞こえる。それにふと笑った。
「いっつもうるさいなあ、ウチは」
相変わらずの家の風景だ。
門を出て少し進み、家を振り返る。医院と隣接した作りの家は、これから先も変わることはないだろう。
「中学生、か」
呟いて、屋根の上の空を見上げた。
天気は快晴。今日は日曜日。絶好の行楽日和になりそうだ。
――できるなら、こんな日がいい。
浮かんだその考えに、夏梨ははっとした。
(そっか)
おもむろに鞄の中を探ると、一枚の宛先も何も書かれていない白い封筒を取り出す。
それを少し眺めた後、自宅の郵便受けの奥のほうに、そっと忍ばせた。
黒崎家ではいつも、早朝に遊子が新聞を取りに行って以降、翌朝まで郵便受けが見られることはない。つまり、あの手紙が発見されるのは、早くて明日の朝になる。
(虫の知らせって、こんな感じかな)
最近読んだ本に確かそんなことが書いてあった、と少し場違いなことを考えながら、夏梨はじっと家を見つめた。
そのまま、一歩一歩と後ろ向きに、視線を家から外さないまま、遠ざかる。
そして踵を返す間際、小さく言葉を投げた。
「さよなら」
***
「黒崎!」
七限目の授業の最中、一護は不意に教師に呼ばれた。ただし、教壇に立つ教師ではなく、廊下から担任にだ。
隣の席でルキアが声を忍ばせて「何事だ?」と訊いて来るが、思い当たる節が多すぎて皆目見当がつかない。
取りあえず手招かれるままに廊下に出る。
――そうして聞かされた言葉は、あまりにも唐突だった。
「……なん、だと?」
思わず耳を疑って、呟く。
けれどすぐさま衝撃は焦燥に変わり、続いていた担任の言葉が終わる前に、一護は弾かれたように走り出した。
「総合病院だ、黒崎!」
後ろから声が追って来る。それを認識しつつもスピードを上げる。
減速せずに廊下を曲がる。ぎりぎりと鳴るゴムの音が悲鳴のように聞こえた。
そのまま靴にはき変えることすら忘れて、学校を飛び出す。
「くそ……っ」
先程聞いた言葉が、不吉な響きを伴ってこだましていた。
――お前の妹、黒崎夏梨が交通事故に遭ったそうだ。容態は、かなり悪いらしい。
(大丈夫だ)
言い聞かすように思う。自分によく似た性質を持つあの妹は、色々な意味で強い。重傷であってもきっと、小生意気ないつもの口調で笑うに違いない。
そしてきっと、そばで遊子と一心が怒りながら泣いているのだ。
そう思うのに、どうして腹の奥にわだかまっている冷えた不安が拭えないのか。
一護はもう一度毒づいて、更にスピードを上げた。
***
「何だ、一護の奴はどうした?」
集まった面子を見て、恋次は眉をひそめた。
浦原商店には、日番谷先遣隊、石田、茶渡、織姫が集合していた。
――死神対破面の全面戦争が、藍染の野望を打ち崩す形で終結して、二ヶ月と少し。
今は三月の頭である。一時は騒然となった尸魂界もこの二ヶ月で落ち着きを取り戻しつつあった。
日番谷たちが今現世にいるわけは、戦闘が残した様々な綻びを修復するためだった。建物の損害などはほとんどなかったが、そこらじゅうに虚圏との通路、ガルガンタが開かれたおかげで空間に『ひび』が入ってしまったのだ。そのひびからは虚が頻出し、現世のみならず尸魂界にも様々な影響を及ぼしている。浦原と技術開発局の連携により、少しずつひびは補修されつつあるが、出現し続ける虚には早急に対応せねばならないという判断のもと、再び日番谷先遣隊の面々が派遣されたのだ。
やることは、地味に多かったりする。虚退治はもちろんのこと、乱れた霊波を調節し、現世の魂魄に影響を及ぼさないようにすること、常にデータを取って回り、逐一浦原たちに報告すること。そして人間たちの記憶の状態、黒崎一護や隊長格たちの霊圧による霊力の増減等の影響を調べ、必要とあらば記憶置換によって安定させること。――これらは言葉で言うは容易いが、かなりの手間がかかる作業だ。実際、先遣隊のみならず死神代行組に手を貸してもらい、十人がかりで取り掛かっていても、依然終わりは見えて来ていない。
さらにやっかいなことに、破面たちの残した影響は虚圏にまで及んでいるらしいことも判明し、さらにこれからやることは増すだろう。
それらを含め、今後のことを話し合うべく、今日学校の後に集合ということになっていた。
「それが、授業中に教師に呼び出されて出て行ったきり、帰って来ないのだ」
「先生に聞いても、教えてくれなかったし……どうしたのかなあ」
恋次にルキアと織姫が答え、持ってきたらしい一護の鞄を示しながら首を傾げる。
また何か問題を起こしたのか、と恋次が問いかけたところで茶渡が口を開いた。
「家族に何かあったのかもしれない」
「は?」
「はっきりとは聞こえなかったが、先生が、病院と言っていたようだ」
「え……っ!」
声をあげたのは織姫のみだったが、他の面子も一様に厳しい顔になった。織姫は心配そうに呟く。
「大丈夫……かな……」
織姫は表情を暗くして、窓越しに外を見た。
外は夕暮れから徐々に夜闇へ変わりつつある。
「……戦っている気配はしない。虚絡みではないようだな」
黙ってしばらくいた日番谷が、未だ難しい表情のままで告げた。それにルキアがいくらかほっとしたような顔になる。そして独り言のように呟いた。
「奴は自分のせいで家族が襲われるのを一番に恐れていたから、虚絡みでないことは、よかった」
織姫もそれに頷き、いくらか場が和む。だが、日番谷だけは厳しい表情を崩さなかった。
「隊長、どうしたんですか? さっきから何か、霊圧飛ばしてません? 一護の霊圧は見つかったんでしょう」
「……ああ」
乱菊がきょとんとして訊ねるのに、日番谷は低く相槌を打つ。
乱菊の言う通り、日番谷は先程一護の霊圧を探してから後、もう一つ別の霊圧を探し続けていた。
(見つからねえ)
一度、諸事情で日番谷の霊圧の裏に隠し込んだことのある、ある子供――黒崎一護の妹の霊圧。一護の妹の由縁か、子供にそぐわぬ力を持つ彼女の霊圧の波長は虚を呼ぶ特性があった。それを安定させるため、無防備な子供を守るため、『隠霊封呪』という道具を使用したのだ。装備者の霊圧を拠り代の霊圧に隠すというものだが、そのせいで日番谷は彼女の霊圧を覚えている。
霊圧は強いが、彼女はただの子供に過ぎない。ならば霊圧を隠すことなどできるはずもない。ならば、見つけられないはずがないのだ。
「――冗談じゃねえぞ」
声になるかならないかの際で、日番谷は呟いた。
閉店、と掲げられているにも関わらず、ためらいなく浦原商店の戸が開けられたのはそのときだった。
開けたのはもちろん、話題になっていた一護だ。
「やっと来たか、遅ぇぞ、一護!」
どうやら走ってきたらしい。まだ息を切らしている一護は、俯いたまま「悪い」と言った。
「だ、大丈夫? 黒崎くん。これ、鞄……」
「ああ……サンキュ、井上」
鞄を受けとって、一護はやっと顔を上げた。そして笑う。
それに、織姫とルキアは同時に動きを止めた。
「遅れて来たとこで悪いんだけどさ、俺今日は帰らしてもらうぜ」
「はあ!? てめえ、何勝手な……」
「恋次!」
一声で恋次を止めたのはルキアだった。
不本意そうにルキアを見た恋次だったが、その表情に言葉を飲み込む。
ルキアは背を向けかけた一護の腕を掴んで止めた。
「何があった、一護」
動きを止めた一護は、それからしばらく微動だにしなかった。
だが不意に鞄を取り落とす。そしてその手を、前方にあった戸に叩きつけた。
衝撃に、戸のガラスがびりびりと悲鳴のような音をあげる。
その余韻が消えてから、一護は、震えを押し殺したような声で言った。
「――歩道に突っ込んだトラックから、歩いてた親子を庇ったんだってよ」
聞くだけで痛みを伴いそうなほど追い詰められたその声に、ルキアは相槌を打つことをためらう。ルキアのみならず、他の者たちも黙り込んだ。
一護は背中を向けたまま、続けた。
「夏梨が、死んだ」
[2009.08.11 初出 高宮圭]