拍手御礼・弐

-氷-

04 : 『友』

 最初は、単なる多少の興味だった。
 人間というものを知りたいと思った、子供が本来どのようなものか、知りたいと思った。
 それが、いつからだろう。
 ―― 『氷!』
 その名前を呼ぶ声が、心地よく響くようになった。
 その名を呼ぶ子供をもう少し知りたいと思った。
 いつの間にか、主の目を盗んでは抜け出すことが、自分でも意外なほど楽しみになっていた。
 知るために行くのか、会うために行くのか、今ではもうわからなくなっている。

 この感情を何と呼ぶのか、彼にはまだわからない。
 ただ、この今。
 ――彼女に刃が向けられた場にいる、この今。確かにわかる感情は、静かな、けれど確かな怒りだった。

「もう一度言う。この子供に手を出すな。――さもなくば、容赦はせぬ」
 硬直して動けない灰猫と飛梅を前に、氷輪丸は底冷えする霊圧を加減なく放つ。
 彼は尸魂界の氷雪系最強と謳われ、稀代の天才児と呼ばれる隊長格を主とする。灰猫と飛梅も優れた副隊長格を主としているが、その差は歴然としていた。
「……っ、……わかり、ました」
 先に身を引いたのは飛梅だった。片手で灰猫の腕を捕まえて、共に氷輪丸と夏梨から距離を取る。
 だが、彼女は完全に気圧されてはいなかった。それは灰猫も同様で、むしろ困惑によって掻き立てられた言いようのない感情が実力の差を越えて氷輪丸を睨みつける。
「確かに、無力な人間の子供に理不尽な暴力を振るったのは私たちです。それは、謝罪します。私たちは引きましょう。――ですが、その前に答えてください」
 飛梅はその可憐な容姿には似つかわしくないほどの厳しい表情で氷輪丸に庇われた夏梨を見た。
「独断で主から離れ、人間と関わり――私たち斬魄刀の存在理由を忘れたわけではないでしょう」
「……何が言いたい」
 氷輪丸の低い声に、飛梅はすくみそうになるのを感情でどうにか堪える。
 彼に庇われた人間の子供。その存在が、言いようのない感情を持続させた。
 どうして、あんな子供が。
 主思いの彼が、勝手に主の元を離れ、こんなことをするのは現実を目の前にした今でも信じがたい。
 だが、そんな彼だからこそ効果的な言葉を飛梅は知っていた。
「――主を裏切るおつもりですか」
 その言葉は、確かに氷輪丸を揺るがした。変化はわかりにくい。だが、霊圧が瞬間的にぶれた。
 そんなことを彼がするわけがない。思った通り氷輪丸は、飛梅の予想通りの言葉を返した。
「そのようなつもりは、ない」
(つかまえた)
 内心で飛梅は手応えを感じる。だが表情には出さず、畳みかけるように言葉を重ねた。
「ならば何故、あなたはここにいるのですか。私たちは斬魄刀。主人より生じ、主人と共に消え行く定め。今あなたは独断で主から離れ、自らの意志で距離を置いている。最も近しくいるべき、斬魄刀が。――これは、裏切りとは呼ばないのですか」
「……それは」
「主を思うのならば、あなたは即刻帰るべきです。そして離れるべきではありません。その意志を妨げられるなら、この子供とはもう会うべきではない。違いますか」
 氷輪丸は沈黙した。酷く冷えていた霊圧が若干緩む。迷っているのが霊圧を通してわかった。
 主人思いの彼だからこそ、今の飛梅の言葉は響くはずだ。そして、彼女の言うことは正しい。
(あと一押し)
 そう、飛梅が思った瞬間だった。

「そんなの、変だろ!」

 よく通る声が、深刻な雰囲気を醸し出していたその場を打った。
 驚いて飛梅はその声がした方向を見る。言ったのは、氷輪丸の背後に庇われていたはずの子供だった。
 氷輪丸も、灰猫も不意を衝かれて子供に注目する。
 子供は氷輪丸の霊圧も、飛梅や灰猫の霊圧もまるでないもののようにして氷輪丸の前に進み出た。そして、飛梅を正面からびしっと指を差す。
「あんた達が何だか知らないけど、氷は普通に生きてて、感情があって、ちゃんとした一人なんだ! なのになんで友達に会うのをやめなきゃいけないんだよ!」
「は……」
 思わず飛梅は目を丸くして言葉を失った。
 この子供は人間で、氷輪丸は斬魄刀だ。これほどの違いがあって、正体を知らずともその違いの大きさを知っていながら――友だと、この子供は言うのか。
 これに瞠目したのは、飛梅だけではなかった。氷輪丸も珍しく驚きを表情にしている。
「――夏梨」
「何! 今更友達じゃないとか言うなよ、ぶっとばすぞ!」
「ぶっ……ぶっとばすってあんた、誰に向かって言ってんのよ!?」
 ぎょっとした灰猫が声をあげる。何しろ、相手は氷輪丸だ。あの氷輪丸に向かってぶっとばす――おいそれと言えることではない。さすが、子供というところか、それとも夏梨であるからか。
「あんたは黙ってて!」
 灰猫の声に夏梨はぴしゃりと返して、氷輪丸に正面から向き直った。
「――いいか、氷! よくわかんないけどあたしはあんたとこれっきりなんて嫌だ。絶対嫌だ! あんたといると楽しい、あんたは友達だ! 違う!?」
 やたら喧嘩腰で、夏梨は氷輪丸に詰め寄る。
 氷輪丸はこれまた珍しいことに、たじろいだように口ごもる。
「だが、我は人間ではない」
「んなこと最初っから知ってるよ! 普通の人から今の状態見たら相当変だよ、あたしは誰もいない公園でぎゃんぎゃん喚いてるわけだから。でもな、そんなの関係ないの! 今あんたはあたしの目の前にいて、今までも一緒にいて、友達なんだから――だから、会えなくなるのは嫌だ!」
 そこまで言い切って、夏梨はくるっと踵を返した。後ろで半ば呆然と見ていた灰猫と飛梅は反射的に身構える。
 夏梨は二人を堂々と見返して、そして、堂々と言った。
「悪いけど、あたし何にも知らないただのガキだから。こんなの納得できない。――氷はあたしの友達だ! 何か文句ある!?」
 その剣幕とまっすぐな声に、しばらく誰もが動きを止めた。
 しばしの沈黙の中で、飛梅と灰猫は、子供に感じていた言いようのない感情が少しずつ引いて行くのを感じていた。
 斬魄刀をこれほどまでに真っ直ぐ友と呼ばわる子供。
 それが、氷輪丸が夏梨を気に入った理由だと、どこかで理解できてしまった。
「――よい響きだ」
 少し続いた沈黙を破ったのは、氷輪丸の声だった。
 いつになく柔らかな響きのある声に、夏梨はきょとんとして振り向く。すると、氷輪丸は手を伸ばして、夏梨の頭をゆっくりと撫でた。
「友という言葉は、心地が良いな」
 氷輪丸は、そのとき自身がどれほど優しい顔を、嬉しそうな顔をしていたか知らない。だが正面にいた夏梨は、しっかりとその表情を見た。
 そして、嬉しくなった。だから、夏梨も笑う。
 またも勝手にほのぼのとした空気を作り出した夏梨と氷輪丸を、並んで見ていた飛梅と灰猫は、どちらからともなく顔を見合わせて、軽く息をついた。
「……友と言うなら、」
「仕方ないわよねぇ」
 飛梅の言葉に灰猫が続け、二人は音もなく踵を返した。
 ――本当は、まだ少し悔しい。
 自分たちは、彼にあんな顔をさせることはできない。子供ならではの率直な言葉を、あんなふうに投げることもできない。彼女たちは同じ斬魄刀であるがゆえに、彼が人間の子供に気を取られることなど信じられず、信じたくなかった。
 けれど、あの言葉を聞いたとき、自分のことでないながらも――嬉しかったのだ。何の偏見もなく、人でないと知りながら、自分たちと同じ斬魄刀を友と呼んでくれたことが。
 それを感じてしまったから、もう彼女たちは氷輪丸を無理に連れ戻すことは考えていなかった。
「――灰猫さん、飛梅さん!」
 その声が二人の名前を呼んだのは、穿界門を開けて、中に踏み入ろうとしたそのときだった。振り向くと、氷輪丸の隣に並んだ子供が、声を張り上げていた。
「今度はもうちょっと、手加減して遊んでよね!」
 それを聞いた二人は目を丸くして、それから、少し笑った。
 そして灰猫が、声を返す。その声はぶっきらぼうだったけれど、どこか楽しげだった。

「次に会うまでには傷治しときなさいよね、ガキんちょ!」

[2009.12.01 初出 高宮圭]