拍手御礼・弐

-氷-

05 : 『消失』


 ――前触れは、あった。

 水曜日。氷が来る日。
 もうすぐ陽が沈む。冬独特の冷えた匂いに包まれながら、夏梨は桜公園のベンチで、じっと膝を抱えていた。
 冬は暗くなるのが早い。五時を回った今では、もう山際に夕焼けの色が少し滲んでいるだけだった。
 さむい、と声にはせずに唇だけで呟く。いつもは寒い寒いと軽く口に出すその言葉を、今は何となく出したくなかった。
 もうすぐ、夜が来る。

 氷は今日も、来ない。



***



「友というのは、どうなったら終わりなのだ」
「は?」
 日曜日。氷が来る日。
 週四日会うのが日課になって、そろそろ一ヶ月が過ぎようとしていた。
 もう十二月の半ばで、外は相当冷え込む。それでも相変わらず氷は薄着で何食わぬ顔をしていて、夏梨はジャケットを着込んで、いつものように桜公園でのんびりしていた。
 唐突に投げかけられた問いに、夏梨はきょとんとする。
「人間の定義で、友とはどうなれば、終わりを迎えるのだ」
「何でそんなこと聞くの?」
「お前は我を友と呼び、我もお前を友と思う。……だが我は、人間の友というものを知らぬ。人間はどうやって友と友で在り続けているのか、知りたい」
 あくまでも淡々と無表情に語る氷だが、夏梨は最近ようやく、彼の微細な感情の変化に聡くなった。だからわかる。今彼はとても真剣だ。
 この間、灰猫と飛梅という氷の仲間らしき二人が現れてから、氷はふと黙り込むことが多くなった。元々無口な彼だが、その沈黙は少し種類が違って、何か考え込んでいるような、そんな素振りが見えるのだ。
 悩むなら言ってくれればいいのに、と夏梨は思う。だが、氷にだって言いたくないことはあるだろうし、言えないことも多いだろうことは、察している。
 ―― 『主を裏切るおつもりですか』
 ―― 『私たちはザンパクトウ。主人より生じ、主人と共に消え行く定め』
 ざんぱくとう。聞いたことのないそれが、氷の正体なのだろうか。幽霊でもなく、死神でもない。
 今こうして氷が夏梨といることは、ひょっとしてとんでもないことなのだろうか。
「……夏梨?」
 訝しむような声と表情で氷が覗き込んできて、夏梨は我に返った。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた。……えーと、つまり、友達でいられなくなる条件を言えばいい?」
「ああ」
 氷が頷いて、夏梨は気を取り直して考えてみる。とりあえず、思いつくままに言ってみることにした。
「そうだなあ……ケンカして、それが酷いと友達に戻るのは難しいと思うし、意見が食い違って、こじれるとだめかも。そういうのはわかるだろ?」
「わかる」
「あとは、関係が変わるとか。相手が偉い人とかになっちゃうと、友達だからって気安くできなくなるんじゃない? あたしはそういうの、気にしないほうだけど……」
「……なるほど」
 相槌を聞きながら、他にはもう思いつかないかな、と言いかけて、思いついた。
「恋人になってもおしまいだよね。結婚なんてその上だし。……くらい、かなあ」
 そう言って氷を見ると、彼はなんだか微妙な顔をしていた。
「どしたの?」
「……我はその、恋人や何だというのが、よく理解できぬ。どこまでが友で、どこからが恋人なのだ」
「いや、そんなこと聞かれても……」
 いかんせん、夏梨は小学生なのだ。もともと周りの女子ほど恋愛ごとに関心があるほうではないし、そんなややこしいことなど考えたこともない。
 困ったあげく、夏梨はあきらめた。
「ごめん、あたしにもわかんないや。そういうのはあたしみたいな子供じゃなくて、オトナに聞いて」
「子供は恋人を持たぬのか」
「またそういう……いやまあ……人それぞれだと、思うよ? いる人はいるだろうし、ねえ……」
 実際、同じ小学生でも恋人がいる(と言っている)友人もいたりする。夏梨としては全くその感覚が理解できないのだが、本当に人それぞれだとしか言いようがない。
 思いきり夏梨が困りながら返すと、氷も何やら悩み顔になった。
 また黙り込んでしまった氷の横顔を黙って見つめながら、夏梨はぼんやり考える。
(いつまで、一緒にいられるんだろう)
 最初は、何となく成り行きで始まった妙な関係だった。色々と知りたがるから、夏梨もいろいろと調べて行くようになった。どこにでもいる、ただつきまとう幽霊かと思っていたら、少し違って、難しかったけれど、夏梨の知らない話をぽつぽつと、たくさんしてくれた。氷が操れて、綺麗な氷細工も貰ったことがある。
 いつの間にか会うのが楽しみになっていて、そのうちいつも遊んでいる友人たちの誘いを惜しみもなく断るようになって。――いつの間にか、大切な友達になっていた。
 それでも、氷はまたいつか、きっといなくなる。
(いつだってそうだった)
 よく見かけていた幽霊が忽然といなくなる。やたらつきまとっていたのに、何も言わずに姿を消す。そして二度と、会うことはない。
 体質上、昔からそんなことはしょっちゅうだった。
 ――けれど氷がそうやっていなくなることを考えるのは、とても嫌だった。
「……ねえ、氷」
 ぐい、と氷の袖を引っ張る。氷が思考から浮上して、綺麗な金の目で夏梨の目を見返した。
 最初のうち、こうして触れるたび、氷は驚いたような顔ばかりしていた。今では自分から夏梨に触れることもためらわないが、最初は夏梨が触れなければ、いつも少し距離を置いていた。
 その距離がまた開いてしまうのは――会えなくなってしまうのは、とても嫌だ。けれど、もっと嫌なのは。
「いなくなるときはちゃんと、さよならって言えよ」
「……なに?」
「絶対だぞ。ちゃんと言わなきゃだめだからな!」
 何も言わないでいなくなられるのが、一番嫌なのだ。
 唐突にいなくなられるのが、何よりも嫌だ。――母のように。何も言わない兄のように。
 不覚にも何だか涙腺が緩みそうになって、慌てて顔を俯ける。
 すると、俯けた頭に、ぽすんと慣れた手の感触がした。少しごつごつした、珍しい触感のそれは、いつもの氷の手だ。
「……わかった」
 淡々とした、けれど優しい声が肯定して、夏梨はとても安心した。

 だからまさか、その日を最後に氷が現れなくなるなんてことは、思ってもみなかったのだ。


***


「おーい、黒崎! 今日公園で……」
「ごめん、あたし今日はパス」
「えー! またかよ、最近付き合いわりーぞ、ってオイ、黒崎!!」
 後ろから追ってくる遊び仲間の男子の声をそのまま流して、夏梨は黙って学校の校門を出た。
 木曜日。今日は氷が来る日ではない。毎週いつも、月水金日と彼は来ていた。
 それでも足は、家へ向かう道ではなくて、桜公園へ行く道に向かってしまう。
(……いるわけないのに)
 氷が来なくなってから、早二週間。もう来ないのだろう。わかっていても、どうしても桜公園を覗いてしまう自分がいる。
 ――ばかみたいだ。よくあることじゃないか。だから幽霊なんて信じないんだ。
 どれだけ思っても、それでも桜公園に向かってしまう自分に、夏梨は戸惑ってもいた。叶わないとわかったらあきらめることができる、そういう淡白さを持っていると自分で思っていたのに。
(こんなのって、カッコ悪い)
 なんて女々しい。まるで嫌いな恋愛小説のヒロインみたいだ。

 そんなことを思っていた、その矢先だった。

 冬の寒さとは違う冷たさを伴った風が、頬にかかった髪を揺らした。
 ――あ。
 ぴくん、と夏梨の中のどこかが反応する。
 この気配を知っている。だって今までずっと、一緒にいたのだ。間違うはずがない。
 わかった途端に、夏梨は駆け出していた。
 いるわけがない、とか、カッコ悪い、なんて考えは、そのとき頭から吹き飛んでいた。ただ早く、と冷たい風がマフラーを解いて、首に入り込むのも構わずに走る。
 桜公園。
 いつの間にか二人で過ごす場所になっていたそこから、確かに慣れ親しんだ気配はしていた。
「――氷!!」
 周りも何も気にせず、呼んで公園に飛び込む。
 そして夏梨は、驚いたような表情をした彼を、見た。
「……夏梨?」
 しかし名前を呼んだのは、予想した彼ではなかった。
 氷の髪と似た、青緑の目。銀色の髪。黒い着物。

「冬、獅郎……?」

 氷以上に久しぶりに見る、銀髪の死神が、氷と同じ気配をまとって、そこにいた。

[2009.12.14 初出 高宮圭]