初恋連鎖

-忘却昔日-

03 : 近づくことを許されぬ色

「名前は?」
「ナツ」
「苗字は」
「黒田」
「まとめて言えよ……」
 印象として、少女黒田ナツには社会性と言うものがないように見えた。
 必要最低限のことしか喋らない。それは性格にするにしても、目を合わせない。確実に五十センチは距離を取る。さらに隙あらばイヤフォンを付けて一人音楽に沈み、周りの人と全くコミュニケーションを取ろうとしないのだ。
 彼女が帰ってきてから、一護たちは簡単な自己紹介を済ませた。
 虚などが見えるおかげか、それを退治しに来た専門家だ何だと浦原が言ったのをあっさり信じたらしい。もっとも表情に全く変化がなかったから実際はよくわからないが。
 ナツは名前だけを言って、今は与えられている自室へすっかり引きこもってしまっている。聞かなかったならば名前も言わなかったかもしれない。
 かくしてナツが帰ってくる前と全く同じ状態に戻った室内で、一護は妙な苛立ちを持て余していた。
 確かにどこかで見た顔だと思った。だがどこであったか名前を聞いた今も全く思い出せない。とは言え、まさかナツが知っているはずもない。五年前に行われた記憶置換で、黒崎一護の存在は町の人々から消されているのだ。
「あーもう、何だってんだよ」
 長く息をついて、一護は毒づく。どうにもすっきりしない。だが思い出せない。
「だが確かに大した霊圧だな。人間にしちゃかなりのもんだ」
「そうだね。ただ、ヴァストローデ級からそう何度も逃げられるほどには思えなかったけど……」
「彼女は霊的感度が非常に良いんですよ。虚の位置の察知なんてアタシらより早い。気づいた時点で速効霊圧を消して逃げれば、多少吸われるだけで済むようッス」
 一角と弓親の会話に、ひょいと浦原が口を挟む。
 これには一角がへえ、と感嘆の声をあげた。
「そりゃすげえ。浦原さんより早いのか。……って、あいつは霊圧消した虚の位置がわかんのか?」
「ええ。元々自分の霊力の影響だからか、彼女にのみわかります。ま、じゃないと命に関わりますから、そうならざるを得なかったんでしょうけどね」
 それに、恋次が確かに、と頷く。
「四年間、あいつは一人で逃げ回ってたわけだよな。すげえぜ、そりゃ」
「――凄いなどという次元ではない」
 硬く低い声が言って、その剣呑さに思わず誰もの視線がそちらに集まった。
 声の主は猫の姿を取った夜一だ。いつの間にやら変化したらしい。
「四年、四年と軽く言うが、人にとっての四年がどれだけ長いか、わかるじゃろう。その間あやつは一人で幾百の虚から逃れて来たのじゃ。だと言うのに……」
「夜一サン」
 畳み掛けるような夜一の言葉を遮ったのは浦原だった。夜一は一度浦原に視線を向け、ふいと逸らす。
「……済まぬ。儂が言えることではなかった」
 そう一言言うと、ふいと姿が掻き消える。どうやらどこかへ瞬歩で移動したらしかった。
 その気配が消えた部屋で、一護は訝しげに呟く。
「……何だ? 夜一さん、何であんな機嫌悪そうになってんだよ」
「ま、色々あるんスよ。――さて皆さん、休んでる暇はないッスよ。夕飯の前にちょっくらお仕事、してきてください」
 そう言って浦原がひょいと差し出したのは、一本のスプレー缶だった。
 思わず一護は顔をしかめる。
「何だよ、これ」
「これはアタシ特製、名付けて『虚ホイホイスプレー』ッス」
「……は?」
「いやァ、『虚こいこい』とずいぶん迷ったんスけどねえ」
「いや、ネーミングはどうでもいいけど、つまりアレか、虚を呼び集めるスプレーってことか」
「うわ黒崎サン酷いなァ。でもま、そういうことッス。今回のはレーダーが役に立ちませんからね。来てもらって目視できないとどうしようもないってことで、ナツさんの霊圧を元に開発したんス」
「黒田の霊圧? 何でだよ」
「ナツさんの霊圧の波長には虚を呼ぶ特性があるみたいでしてね。だいぶ前から気になってたんで、この際と思って研究してみました」
「へえ……」
 一護はスプレーを受け取り、まじまじと眺める。ご丁寧にパッケージまで印刷されていた。
「どうやらボスのヴァストローデ級……とりあえず能力的に『バニッシュ』と呼んどきましょう――は、子分の虚たちにナツさんを襲わせ、疲弊したところを特に狙っているようです。ですが最近アタシらが守りを固めたことで、またパターンが変わってきてます。アタシたちを子分の虚に引き付けて、ナツさんを狙うって寸法にね」
「……やな感じだな」
 一護が心底忌々しそうに呟く。隣で同じく厳しい顔をしていたルキアが訊ねた。
「つまり、そのスプレーを使って私たちが囮をすればいいということか?」
「いえ、相手は賢い。こんな玩具には騙されてくれないでしょう。……ですが子分のほうには十分だ」
 言って、浦原は羽織の袖口からひょいひょいと同じスプレーをさらに二つ取り出す。それをルキアたちに適当に放り投げた。三人にスプレーが行き渡ったのを確認して、浦原は続ける。
「皆さんにやってもらいたいのは、そのスプレーに寄って来る子分をとにかく倒すことッス。スプレーは改良してるんで、変異した虚のみ集まってきます。二人一組くらいで散らばると早い。とにかく数を減らしてください」
「でも、そのヴァストローデ級……バニッシュだっけか。そいつが子分を増やしてちゃ、いくら倒しても意味ないんじゃねえのか?」
「確かにそうッス。でも、反対に大元だけ倒しても、意味がないんスよ」
「……どういうことだよ」
「言ったでしょう、バニッシュはナツさんの力を吸収し分け与えている。そのときに自分の避難路も確保してるんスよ。何をどうしてるかはわかりませんが、倒されたとき子分が一匹でも残ってれば、それを媒体に完全再生することができるんです」
 その能力に、一護たちは息をのんだ。さらに浦原が付け足す。
「しかも再生するとき、ナツさんの霊力をかなり削ります。それはどうしても避けたい。となると子分を確実に全て倒さなければならないんス」
「でも、知らないうちに増殖されたらどうしようもねえじゃねえか」
「ええ。だからこそ、とにかく減らしてほしいんですよ。増殖には限度があります。敵が持っているナツさんの霊力の上限でね。つまり持久戦です。だから皆さんに来てもらったんスよ。さすがにアタシたちだけじゃあキツい」
 だがそこで一護は疑問を感じる。
「ちょっと待ってくれよ。そう言うってことは浦原さんたちはそいつを一回は倒したんだろ? なら何でそんな曖昧なんだよ。ヴァストローデ級かもしれない、とか言ってたじゃねえか」
 その問いに浦原はぱちりと扇子を開いてみせた。
「はい、ご明察。そうッス。――再生するごと、バニッシュは進化する」
「な……っ」
「アタシらが倒したのは、アジューカス級のバニッシュです。ナツさんが一人で逃げ続けたのも、アジューカス級のときッスね。でも再生してから、明らかに敵は強くなり、知能も上がっている。おかげでアタシらがついていながら、ナツさんは何度か襲われました。従えている子分もレベルは高いッスよ」
「何だ、それは……! そんなもの聞いたこともない! いったい何が……」
 言葉を失った一護に変わるように声をあげたのはルキアだ。それに答えたのは、乱菊だった。
「だから、原因はナツでしょ。あの子の霊力が変異を引き起こしてるのよ」
「ですが先程見た様子では、それほど力があるようには……っ」
「減ってるんだろ。それだけ吸われてんだからよ。それでもあんだけ残ってるってのがまず普通じゃねえ」
 恋次の補足に、ルキアが瞠目してナツの引きこもった部屋の方向に視線を投げる。
 一番奥の部屋だと言うから、物音は一つもしない。だが霊圧はおろか、気配を探っても存在が感じられなかった。
 完璧すぎるほどに、霊圧を――存在を消している。
「……ああして、四年間逃げ続けて来たと言うことか」
 常に存在を隠し、虚に怯え過ごす日々。それを思えば、胸が詰まるようだった。
 夜一も言っていたが、容易く耐えられる長さではない。増してや彼女はまだ歳若い。いったい何を支えに耐え抜いて来たのだろうか。
「……とりあえず、行こうぜ。ここで俺たちがあいつに同情したところで、過ぎた四年はどうにもならねえ」
 スプレーを片手に、一護は立ち上がった。
 カラカラとスプレーが鳴る。
 一護に続いてルキアたちも立ち上がる。
 その物音に紛れるように、浦原が一護の背にぽつりと呟いた。
「――本当に、そう思います?」
「え?」
 訊ね返すが、浦原は「いえ」と口元だけで笑みを浮かべて見せただけだった。
「じゃ、さくっとお願いしますよ。この五年でウチも増改築しましてねェ、皆さんを泊めるくらいはできますから、宿はご心配なく」
 そう明るく言いざま、一護たちに義魂丸を放り投げた。
 受け取ったそれを飲み込み、義骸を脱ぐ。そうして一護たちはすっかり夜闇に染まった町に飛び出して行った。



「キスケさん……」
 一護たちの気配が遠ざかってから、とぼとぼとした足取りで居間にやってきたのはウルルだった。
 その目は真っ赤に腫れ上がっている。どうやら、泣いていた様子だった。
 まだ鼻をぐすぐす言わせつつ、ちょこんと浦原の隣に膝を抱えて座る。
「泣いたのかい」
「私、だけ……。今は夜一さんが、一緒にいます……」
 誰のそばにいるのか、それは言わなくてもわかっていた。『ナツ』である。
 浦原は俯いたウルルの頭を柔らかく撫でてやる。
「死神のひとたち、ここに泊まるんですよね……?」
「そうなるね」
 膝に埋めた顔を、ウルルは少し上げる。その大きな目には涙が溜まって見えた。そして潤んだ声で、「ひどい」と呟く。
「ひどい……」
 もう一度呟いて、また小さく肩を震わせ始める。
 その言葉が誰に向けられたものか、浦原は正確に理解していた。
 浦原ではない。けれど、慰める権利も持ち合わせてはいない。だから、浦原はただその頭を撫で続けた。
 撫でながら、中身のなくなった六つの義骸を見つめる。渡した義魂丸には中身がない。ただ脱ぐためだけのものだ。
 その中の一人がまだ人間だった頃を、浦原は知っている。ウルルも知っている。ジン太も、テッサイも、夜一も知っている。この店に今いる全ての者が、知っているのだ。
 よく目立つオレンジ色の髪をしたその一人を、ウルルは弱々しく睨んだ。
「ひどい……っ」
 ――そう、今この店にいる全ての者が、『黒崎一護』を知っているのだ。


***


 結局、一護たちが浦原商店に帰り着いたのは空が明るんできた頃になった。店前に集まった面々を確認して、乱菊が「よし」と頷く。
「全員揃ったわね。じゃ、とりあえず倒した数の報告しときましょ」
 乱菊が取り仕切るのは、合流するまでの間、日番谷から指揮権を譲渡されているからだ。
 浦原に言われた通り、店を出てから一護たちは二人一組に分かれ、虚の退治にかかった。状況から見て数を数えたほうがいいということになり、カウントが義務付けられることになった。
「まず、あたしと朽木チームからね」
「はい。……私たちが倒したのは計四十三匹。うち三割がギリアンだった。アジューカスも数体確認した」
 乱菊が視線で促したのに頷いて、ルキアが報告する。
 一角と弓親チームがそれに続く。
「俺たちは計三十二匹。四割がアジューカス、ギリアンはなしだが、巨大虚が多かったな」
「俺と恋次は計二十匹。八割がアジューカス、残り二割がギリアンだった」
「……何だか偏ったわね」
 一角、一護と続いたそれぞれの報告に乱菊は眉を寄せる。
「全部で九十五匹……。初回にしては上出来かしら。敵がどうやって増殖してるか知らないけど、一気にこれだけ増やすことはできないだろうし」
 そう言ってひとつ息をつく。
「とりあえずこれで一旦様子を見ましょ。……にしても霊圧のわからない敵って肩凝るわねえ。こんなに時間かかるなんて、思ってもみなかったわ」
 ぼやくように呟かれたそれは、他の者たちも感じていたことだった。何しろ、霊圧で強さを計ることもできず、やっかいそうな場合、まず実力を試すことから始めなければならないのだ。
 その場に何とも言えぬ沈黙が落ちた頃、不意に物音がした。
 それが戸が開けられた音だと気づくのに時間はかからず、屋根の上に集まっていた一護たちからは見下ろす形で、人影が店から出て来たのを確認した。
 癖のない長い黒髪が、まだ明けきらぬ夜の冷えた風に吹かれてなびく。
 少し薄暗い景色の中に、白い肌がひどく目立って見えた。
「黒田」
 一護が口にすると、ナツは緩慢な動作で一護たちを振り仰いだ。口が何かを言いたげに動こうとしたが、途中で閉じてしまう。そしてそのまま踵を返し、歩き出した。
「あ、おい! どこ行くんだよ!」
 時計を見たわけではないから、詳しい時間はわからない。だが恐らく、まだ四時台か五時というところのはずだ。出歩くには早かろう。
 一護の声は聞こえているはずだ。しかしナツはまるで無視を決め込んだ様子で歩いて行く。
「あらま。嫌われたわねえ、一護」
「何でだよ、俺会ってからろくな会話してねえじゃねーか!」
「あれではないか? 生理的に嫌いというやつだ」
 乱菊とルキアに挟み撃ちで言われてしまい、思わず言い返す言葉を失う。だがどこかへ行くナツの背中を横目で見て、小さく毒づいた。
「……んなこと言われても、ほっとけねえだろ。あいつが今回の原因なんだしよ」
「要するに心配なんだろう。つべこべ言わずに追わぬか、らしくもない」
 すっぱりとルキアが言い切り、先導するように屋根から下りる。
「って、お前も行くのかよ?」
「貴様一人だとただのストーカーになりかねんからな」
「誰がストーカーだ!」
 ぶつくさ文句を言いつつも、一護もルキアにすぐ追い付く。その背後から乱菊が「いってらっしゃーい」とぱたぱた手を振っていた。
 ともあれ、一護とルキアはナツを追った。少し距離ができていたが、すぐに縮まる。
 三メートル程の距離をあけて、後ろを歩いた。
 気づいているだろうに、ナツは全く振り返る様子もない。
「で、どうすんだよ」
「知らん。貴様が言い出したのだろう」
「……そりゃそうだけどさ」
 それからしばらく沈黙が落ちた。足音しか音がない状態の中で、一護は前を行くナツを見つめる。
 ――やっぱり、どこかで見たことがある。
 最初に感じたその感覚は、今もまだ残っていた。だがやはり、その正体は未だ掴めない。
 歩くうち、少しずつ朝日が町を照らし出す。その景色を見上げて、ふとナツが足を止めた。
「……ねえ」
 その呼びかけが自分たちに向けられたものだと理解するには多少の時間を要した。何しろナツは前を向いたままだったのだ。
「な、何だよ」
「帰っていいよ。この時間は何も出ないから」
「は?」
「一日に何回か、何も出ない時間がちょっとだけあるんだ。日によって変わるけど、今がそう」
 淡々と、感情の滲まない声でナツは言う。
「何でわかるんだよ、そんなこと」
「わかるからわかるんだよ。だから帰って」
 そしてそこに至って初めて、ナツが一護たちのほうを振り向いた。
 表情はない。ただ固く拳を握りしめているように見えた。
「あたしはあんたたちに守られたくない」
 その声は酷く冷たく響いた。突き放すように、壁を作るように言葉を紡ぎ出す。
「関わりたくないし、関わってほしくもない。信じることなんかできない」
 ナツは再び背を向ける。それは明確な拒絶だった。
「――何も知らない、赤の他人なんだから」
 見計らったように、強い風が吹いた。ナツの黒髪が風をはらんで翻る。それは境界線のように見えた。嫌いだ好きだという感情の問題ではない。決して越えることのできない、触れることすら拒否された、冷え切った境界線がそこにあった。
 一護は何も言うことができなかった。ルキアもまた、動きを止めてしまった。
 それきりナツは何も言わず、静かに歩き去って行った。
 やがてその姿は見えなくなり、一護は袖を引かれてようやく我に返る。
「帰ろう、一護」
「ルキア……」
 引いたのはルキアだった。心なしか沈んだ表情で、一護の着物の袂を掴んでいる。
「……そうだな」
 ゆっくりと、ナツの消えた方向に背を向ける。どちらからともなく歩き出したが、何も喋ることはなかった。
 ただルキアは掴んだ一護の袂を離すことはなく、一護もそれをほどこうとはせずに、朝焼けの町を歩いて行った。

「バニッシュ*vanish=消失」=オリジナル
[2009.07.26 初出 高宮圭]