頬を撫でる風に混じって、鉄の匂いがする。
その匂いの中心に、ナツと男がいた。
「破面……だと……?」
「ああ。六年前、あんたたちが破面と前面戦争したの、知ってるぜ。ま、そのときは俺はまだアジューカスで、虚圏にいたんだがな」
男はナツの血が付いたままの右手で、癖のある黒髪に触れた。
すると血の付いた部分が、淡く発光する。同時に地面に広がったナツの血が、同様に発光した。その光は見る間に収束し、男の開いた左手の上に球状となって固まる。
男はそれをひどく幸せそうに見つめ、一息に飲み込んだ。
「――ごちそうさま」
いっそ艶やかに、男は笑う。
一瞬、一護は何が起きたのか理解しあぐねた。だが、男が舌なめずりをしてナツを見下ろしたことで、ようやく気づく。
「てめえ! そいつの霊力を……っ」
「ああ。何となく遊びに来たとこに、まさかいるとは思ってなかったが……相変わらず美味い」
あっさりと男は言い放った。瞬間、一護は携帯していた義魂丸で義骸を脱ぎ捨てる。
だが、一泊遅かった。
斬魄刀が振り下ろされる前に、男の姿が掻き消える。
そして背後から声がした。
「響転。……忘れたのか? 死神さんよ」
「――っくそ!」
振り向いたときには、男は空中で一護たちを見下ろしていた。
「俺の名前はデセオ・セラドゥーレ。覚えなくてもいいぜ。どうせ興味はない」
そうしてその視線を、地面に倒れ伏したままのナツに向けた。
「俺が興味があるのは、そこの餌にのみだ」
言い終わると同時に、デセオは一護と同じく臨戦体勢を取りつつあった他の者たちの前に、腕の一振りで虚を呼んだ。
瞬間的に現れた虚と、それぞれが組み合った瞬間、デセオの姿が消える。
一護たちがすぐさま虚を斬り伏せたあとには、他に倒れたナツしかいなかった。
毒づきながらも、一護はナツのそばに駆け戻る。
「おい、しっかりしろ、黒田!」
「無理に動かすな、一護! 傷が酷い」
ルキアに一喝されて、一護は抱き起こそうとした腕を止めた。
見れば確かに、ナツの傷は酷いものだった。右肩から背中にかけて爪跡のような傷が三つ深々とある。そこからとめどなく溢れる血が、地面をじわじわと赤く染め上げていた。
どうやらナツに意識はない。
「鬼道で応急処置をする。少し下がっていろ」
ルキアがそう言って、精神を集中させる。一護たちはそれを邪魔せぬよう、一歩下がった。
「くそ……何だってんだよ!」
迫る夕闇のせいだけでなく青いナツの顔を眺めて、一護は苛つきを露わに地面を踏み鳴らした。
「落ち着きなさいよ。……たぶん、ナツはあたしたちがつけてたの、気づいてたんだわ。それで空き地に来て、霊圧を消して隠れてたのよ」
乱菊の後を、恋次が続けた。
「それで、あの破面が出てくるのに気づいて、庇ったってことか」
「そういうことでしょうね。霊圧のない虚の接近に気づけるのはナツだけだし、破面の言いようじゃ、あっちはナツがここにいることには気づいてなかったみたいだしね」
「……なんで、庇うんだよ」
搾り出すように、一護は呟く。
「何でだよ! 赤の他人じゃ、ねえのかよ!」
それはナツが言った言葉だ。
何も知らない赤の他人だと、守られたくないと言った。
けれどそのナツに、一護は守られたのだ。本来ならば、守るべき対象に。
一護がもう一度毒づいて固く拳を握りしめた頃、ナツを覆っていた鬼道の光が消える。傍らにしゃがみ込んでいたルキアが立ち上がった。
「応急処置は終えた。だが、だいぶ消耗しているようだ。急いで浦原商店に連れ帰るぞ」
厳しい表情で告げられた言葉は、事の切迫さを如実に現している。悠長にはしていられない。
一護は唇を噛みしめると、ためらいなくナツの体を抱き上げた。
***
「――何とか、持ち直しました」
ナツの部屋から出てきた浦原は、まずそう告げた。
思わず、一護の強張っていた体から力が抜ける。居間にいる他の面々も、ほっとした雰囲気になった。
「ですが、危ない状態には変わりない。残っていた力のほとんどを取られてます。――何があったか、改めて教えてもらえませんか」
浦原はそう言うと、腰を下ろして聞く姿勢を取った。
「ああ……」
まだ気の晴れない表情のまま、一護は浦原に現れた破面のことを話し出す。途中でルキアや恋次が注釈を入れながら説明は進み、浦原はただひたすら黙ってそれを聞いていた。
だが、一護たちから話せることはそう多くない。容姿、名前、ナツの霊力を食らったこと――その程度しかわからなかったからだ。今更ながら、あのときに冷静になって能力を見極めるべきだったと思う。
聞き終えて、浦原は低く「なるほど」と呟いた。
「どうやら、予想外のことが起こってるみたいッスね」
「予想外のこと?」
「ええ。……まさか敵が破面に進化していたとは、全く考えていませんでした」
言いながら、浦原はごそごそと手元にあった引き出しを探る。そこから数枚の紙を取り出した。
「これは、皆さんが子分虚を倒した日毎のざっとした虚のレベル調査結果です」
一護たちは虚退治に向かうごと、その日の虚の大まかなレベル報告を頼まれていた。その集計らしい。
並べられたそれを見て、ルキアが一番に声をあげた。
「これは……日毎に全体的な虚のレベルが上がっている……?」
「はい。最初は少しずつだったんでよくわかりませんでしたが、昨日の分まで揃って、比較してみてやっとわかったんスよ」
グラフ化されたそれは、明らかに、メノス、アジューカスの率が高くなっているのがわかる。
「どういう……」
ことだ、と一護が訊ねるのに被せて、勢い良くふすまが開いた。
半ば反射的に皆の視線がそちらに集まる。
「だ、だめだよ、まだ動いちゃ……っ」
「大丈夫だよ」
現れたのはナツだった。後ろでウルルが引きとめようとその腕を引いている。
ナツは静かにその腕を振り払い、視線を一護たちに投げた。
相変わらずその視線は無関心なものだった。だがそれに、一護はこのときばかりは憤りを感じる。
「……おい、黒田」
低く呼びかけて立ち上がる。それで、ナツの後ろに人の姿を取った夜一と、ジン太、テッサイがいることに気づいた。それにも構わず、一護はナツにずかずかと歩み寄る。
「なに? 怪我ならもう治ったけど」
「――なんで、庇った」
するとナツの無関心な表情が、少し動いた。
静かに言えたのはそこまでだった。一護は固く拳を握ると、語気を荒くしてたたみかけるように叫ぶ。
「何でだよ!? お前が言ったんだろ、赤の他人だって! なのになんでわざわざ、自分犠牲にして庇ったんだよ!」
ただそれが、納得できないでいた。
危険を知らせるだけなら、もっと他の方法もあったはずだ。なのにナツは、一番危険な方法を取った。いくらお人好しと言えど、無関心で且つ信用していない相手に取る行動ではないだろう。
ナツは黙って俯いた。それきり微動だにしない。明らかに返答を拒絶していた。
一護はそれに更に苛立つ。その勢いで、ナツの細い腕を掴んだ。
「答えろよ、黒――」
「離して」
一護の言葉を遮ったのは、紛れもなくナツだった。だがその声には、未だ聞いたことのない響きがあった。
まるで堪えられない感情が滲み出たような揺らいだ、淡白なナツの声しか知らない一護たちには意外な声だ。
それに思わず動きを止める。ナツが繰り返した。
「離して!」
同時に、掴んでいた腕を振り払われる。ばしんと乾いた音をたてて振り払われた一護の腕には、わずかな熱だけが残った。
一護は何も言えなくなって、ただ俯いたナツを見つめる。
部屋の中に、妙に張り詰めた空気が漂った。
だがその緊張は、夜一によって破られる。
夜一は、緊張した空気の中を足音も立てずに進み、ナツの肩をそっと抱いた。
「――行こう。まだ動かぬほうが良い」
そうして、ナツをまた奥の部屋へと連れて行く。今度はナツもそれを振り払わなかった。
それをウルルが追い、代わるようにしてジン太が居間へ出てきて、またふすまが閉じる。
一護はそれを何も言えないままに見送った。
「おい」
やっと我に返ったのは、ジン太がそう低く呼びかけたときだ。
視線をやれば、ジン太は何とも言えない表情で、一護を見ていた。
「お前さ、五年の間にさらに頭悪くなったんじゃねえのか」
「……今、する話かよ」
「当たり前だろ。――あいつに他に言うこと、なかったのかよ」
それだけ言うと、ジン太はすたすたと居間を通り抜けて、店のほうへ出て行く。
やがて足音が遠ざかり、戸が閉められた音がしてから、一護は力が抜けたように座りこんだ。
次いで、長く息を吐く。それに合わせて、体を丸めるように俯いた。
「一護」
「最低だな、俺」
ルキアの声がした。それを遮るように、呟く。
俯いた先に見える床は自身の影で暗く、穴のようだ。そこに吐き捨てるように一護は続けた。
「庇ってもらったってのに、大丈夫かの一言も、ありやがとうもごめんも、言ってやらねえでさ」
顔を上げる。閉じられたふすまの白が、異様に遠くに見える気がした。
ナツから完璧な拒絶があった。けれどそれを飛び越えてくれたわずかな瞬間に、突き放したのは紛れもなく一護だった。
「また距離、広げただけじゃねえか」
――チャラリラリ、と場違いにも思える電子音が鳴ったのは、ちょうど一護の呟きが終わったそのときだ。
軽快なリズムで流れる音楽は、明らかに携帯の着信音であった。
「ごめん、あたしのだわ」
少し間が悪そうに乱菊が伝令神機を取り出す。
一見すれば現世の携帯だが、それとは異なる伝令神機には尸魂界関係の者しかかけることはできない。増してや今は霊波障害でほぼその機能を果たしていなかったはずが、確かに鳴っていた。
「何だ、霊波障害治ったのか?」
恋次の疑問に、伝令神機を操作していた乱菊が首を横に振った。
「違うみたいよ。どうやら、障害があるのは尸魂界と現世間だけで、現世にいる者同士なら通信可能みたい。……って、隊長が言ってるわ」
乱菊は言うと、ずいと伝令神機のメール画面を見せた。
「日番谷隊長、やっと来れたのか」
「みたいね。今尸魂界の情報と現世の状態を照らし合わせて調べ回ってるみたいだから、もうすぐ来るんじゃないかしら」
それに、しばらく黙っていた浦原がぱしんと扇を手のひらに打ち鳴らせて「それじゃ」と口を開いた。
「話の続きは日番谷サンが来てからにしましょう。とりあえず皆さん、ご飯でも食ったらいかがッスか?」
それににわかに雰囲気が明るくなる。なんだかんだでもうすっかり夜なのだ。
一護だけはまだ気落ちした様子で苦笑じみた表情だったが、ルキアや恋次にどつかれて、少し調子を取り戻す。
その様子を眺めながら、浦原は俯きがちに、気づかれないほど小さな低い声で、呟いた。
――日番谷が来る。これで全ての面子が揃う。
「さしずめ『最後の希望』、ですかね」
叶えばよし、叶わなければ。
(全員に、帰ってもらうしかない)
その確率も少なからずあることに、浦原はただ、叶わなかったときの『黒田ナツ』にかける言葉を見つけられずに視線を落とした。
「デセオ・セラドゥーレ」=オリジナルキャラ
[2009.07.31 初出 高宮圭]