息を殺して、生きることを覚えた。
体をできるだけ小さくして、音を聞かないようにして。
全てから、隠れることを覚えた。
どれだけみっともなくても、苦しくても、怖くても、生きていたかった。
――負けるもんか。
***
腹に響くような重い空気の震動が一護たちに伝わったのは、彼らが少し遅い夕食を終えた頃だった。
それは単なる空気の流れではない。巨大な霊圧によって成されるものだ。
「何だ?」
「おや、気づきましたか。どうやら黒崎サンも霊圧操作、慣れてきたみたいッスね」
一護が顔を上げると、茶を啜っていた浦原がからかうような口調で言う。それに一護は言葉に詰まるが、いかんせん少しましになったとは言え、霊圧操作が未だ下手であるのは事実だから言い返せない。
「……この霊圧、夜一さんか?」
「当たりッス。どうやら勉強部屋にいるみたいですねぇ」
「だが、これは……鍛練、なのか?」
ルキアの怪訝そうな呟きに、恋次が頷く。
「ああ……手当たり次第に鬼道を打ちまくってるような……」
「ストレス発散っていうか、荒々しい感じよね。相手は斑目と綾瀬川かしら」 ちなみに一角と弓親は先に食事を済ましたらしく、相変わらず勉強部屋にこもっている。居合わせたために強制的に相手にされたか、もしくは二人がけしかけたのかはわからない。
何にせよ、夜一らしくもない荒れた霊圧はしばらく感じられた。
だが、その霊圧すら凌ぐ、いっそ狂暴なほどの霊圧が吹き上がったのは、夜一の霊圧が一瞬途切れたそのときだった。
刺すような霊圧が一瞬で辺りに充満する。
「何だ!?」
「――キスケさん!」
一護たちが身構えたとき、切羽詰まったウルルの声音がした。何事かと浦原に視線を戻したときには、既に彼の姿はそこになく、代わりに開け放たれたふすまの奥から見える最奥の部屋へ、羽織りの一部が消えたのが確認できた。
一瞬呆然としてそれを見ていた一護たちだったが、事の異常さに慌ててその後を追った。
一番奥の部屋はナツの部屋だ。一護たちは一度もそこへ踏み入ったことはない。その部屋の前に至って、彼らは瞠目した。
「何が起こってるってんだ……!?」
部屋の中にはナツがいた。うずくまるようにしてしゃがみ込み、細い肩は息苦しそうに大きく動いている。
その体から発されている霊圧こそが、狂暴な霊圧そのものだった。
ナツの傍らに膝をついた浦原が何か術を施そうとしているのが見ていてわかる。
「部屋に入るな!」
部屋に駆け込もうとした一護たちを鋭い一声で止めたのは、背後から現れた夜一だった。その覇気に半ば反射的に体が止まる。
「夜一さん……」
「おぬしらは、それ以上近づくな。特に一護、下がれ」
一瞥もくれずに一護たちのそばをすり抜け、夜一は部屋に踏み入る。途端、部屋の中に渦巻いていた霊圧が夜一に一瞬押し寄せ、溶けるように抜けた。だが、一向に狂暴な霊圧は治まりを見せない。
――黒崎サンほどじゃありませんけど、かなり霊圧の高い人なんでね。発作みたいに霊力が暴発するときがありまして。
確か、浦原がそんなことを言っていたことを思い出す。これがそうなのか、と一護たちは何もできずに部屋の外から見ているしかできない中で考えた。
浦原や夜一、テッサイの三人がかりで術を施されているナツは、うずくまったまま苦しそうな表情を浮かべている。
キン、と耳の奥に響く音が鳴ったとき、荒れていたナツの霊圧が極端に小さくなった。だが、完全に治まったわけではない。
「いったい、何が……」
視線の先で、不意にナツが立ち上がった。声は聞こえない。だが何か夜一と話しているようだった。その視線が、一瞬一護たちのほうを向く。文字通り瞬く間ほどにすぎなかったが、一護と視線が交差した。ナツは手のひらを固く握り締める。
夜一が制止するように腕を伸ばす。ナツがそれを振り払う。浦原がナツの肩を引いて、座らせようとしているようだが、ナツはしきりに首を横に振った。そして俯き、胸に拳を当てた次の瞬間に、それは起こった。
――ガキン、とやけに金属質な嫌な音がした。
ぼたぼたと、重い水音が断続的に続く。
ナツが胸に当てて握りしめた拳から、青いどろりとした水のようなものが溢れるように落ちていた。それが溢れるのに合わせて、暴走していた霊圧が少しずつ治まってゆくのがわかる。
完全に霊圧が感じられなくなったと同時に、ナツがその場に崩れ落ちた。
「浦原!」
「わかってます」
不意に夜一と浦原の声が聞こえた。どうやら結界か何かを張っていたらしいものが開放されたらしい。
夜一の声に素早く反応した浦原は、溢れ出た青いそれを、大きな漆黒の箱のようなもので上から丸ごと覆う。それに続いて、テッサイが鬼道を打ち、その箱をがんじがらめにするように封じた。それだけでなく、浦原は更にそれを札を張り合わせて作った紙で包み込む。
「夜一サン、あとは頼みます」
「ああ」
頷いて、夜一は座りこんだナツに寄りそう。ナツは肩で息をしたまま、かすれた声で「大丈夫」と呟いた。
今にも泣きそうな表情でいたウルルが、反対側に座って覗き込む。
ナツはウルルを見やると、少しぎこちない動作で息をこぼしながら、その頭を宥めるように撫でた。
「へいき、だから。ごめん、夜一さんも……ちょっと、一人にして」
「でも……っ」
「今は、離れるわけにはいかん」
「もう大丈夫だから。……お願い」
言って、ナツは視線を一護たちのほうに投げた。そして、すぐ逸らす。まるで見たくないと言っているような動作だった。
それから、自他共に言い聞かすように呟いた。
「一人に、して」
***
静かな音で、ふすまが閉じられる。居間には妙な沈黙が落ちた。
結局何をするでもなく戻ってきた一護たちは、誰もが思案顔で座り込む。後に続いた浦原と夜一も、沈黙を守って座った。
「――あれが、言ってた霊圧の暴発なのか?」
低く訊ねたのは一護だ。浦原が頷く。
「虚を倒していくと、定期的に起こるんスよ。起こされている、と言ったほうが正しいのかもしれませんが」
「起こされている?」
「ええ。敵はナツさんの霊力が足りなくなると、特殊な霊波を発生させて彼女の霊圧を無理やり引き出そうとするんです。ただこれは、相手がナツさんの霊圧を見つけられなければ意味がない。つまり、ナツさんが霊圧を消せる状態にあれば、全くの無意味です」
「どういうことだよ、あいつはさっきだって霊圧消してたじゃねえか!」
一護の言葉に、浦原は首を横に振った。否定の意味のそれを受けて、一護は目を瞠る。他の者たちも訝しげな顔をした。
「先程は、彼女は霊圧を消していませんでした。……消せなかったんスよ。なので、夜一サンが結界を張って隠していましたが――敵の能力が上がったせいか、見つかってしまったんス」
「消せなかった……?」
一護は、いつでも霊圧を消していたナツしか知らない。まるでそれを当然のようにしているから、消せないというその状態がよくわからなかった。
浦原は俯きがちのまま続ける。
「彼女の場合、もう長年のくせのようになってますが、本来霊圧を消すのはかなりの集中力を要します。増してや彼女は人間のままその能力を自己流で身に付けた。気持ちに乱れがあれば、綻びが出るのは当然ッス。……どうやら今は、落ちついたみたいですがね」
それを聞いて、思わず一護は視線を落とした。
おそらく、ナツを動揺させたのは自分であろうと考える。ナツが居間から部屋に入る前に聞いた、揺らいだ声をまだ覚えていた。
「ああなると、無理やり押さえ込むか、出すかの二択しかなるなるんスよ。下手をすれば周りを巻き込んで大変なことになります。今回、彼女は出す方法を取った。金属音がしたでしょう。あれは霊圧を無理やり開いた音ッス。かなり体には負担ですが、押さえ込むには時間がかかる。今回は久しぶりにデカかったんで、出したほうが早かったというのは確かです」
ということは、溢れだしていた青の水のようなあれはナツの霊力だったらしい。
一護たちは何も言えなくなって黙り込む。
冷えた夜風が、開けた窓からするりと滑り込む。春の風にしては冷えすぎたそれに、居間に移動してからずっと黙り込んでいた夜一がすいと顔を上げた。
「――来たか」
夜一の声に、一護たちが視線を出入り口の方向へ視線をやる。それを見計らったように、乾いた音をたてて、戸が開かれた。
現れたのは、銀髪に緑の瞳の青年――日番谷冬獅郎だ。
「隊長!」
「遅くなった」
一言そう告げた日番谷に、乱菊を始めとする面々が立ち上がる。
破面が現れた今、日番谷の存在は心強いものだ。
夜一はその様子を黙って眺めていたが、ふと日番谷と視線が噛み合うと、おもむろに口を開いた。真顔のままで、一言、独り言のように言う。
「大きくなったな、日番谷」
「……何だ」
「いいや。――時が経つと、わかり易くも難くも、良くも悪くも……人は変わるものだと、そう思っただけじゃ」
低く呟いて、夜一は目を閉じた。
***
月明かりしか光源がない暗い部屋で、ナツは膝を抱える。
何の音も聞こえない。聞こえないようにしている。そんなことまでいつの間にかできるようになった自分に、もう驚くことすらない。
目を閉じる。
耳をふさぐ。
体を、気配を、霊圧を、存在を消す。
それでも、伝わってくる知った気配たちは、途切れることなく彼女に届いた。
このときばかりは、気配や霊圧に聡くなった自分が憎たらしい。
――やっと、懐かしすぎる気配に慣れたと思ったのに。
この五年で伸びた髪が、彼女を隠すように肩を流れる。
肩を震わさないよう、気配をこぼさないよう、できるだけ小さくなった。
窓も戸も、どこも開けてはいない。けれどどこからともなく冷えた空気が、少しずつ部屋に染み込みつつあった。
覚えたつもりはなかった。けれど忘れられもしなかった。
その冷えた、けれど優しいその気配を誰が持つものか、嫌と言うほどわかってしまった。
霊圧を隠せないほどに動揺したのは、黒崎一護の言葉のせいだけではない。あれだけならば、押し殺せる自信があった。けれど、不意にあの気配がこの町に現れたのがわかったのが、引き金になったのだ。
ひきょうもの、と声を出さす呟く。
そのあと、無意識に五文字の名前を紡ごうとした口を、顔ごと膝に埋めた。
[2009.08.07 初出 高宮圭]