1万hit御礼リクエスト企画

Pierrot March<中編>

 夏梨は湖畔にいた。
 そこは流魂街の端にある自然豊かな静かな場所で、最近の夏梨のお気に入りの休憩場所だった。
 とりあえずやるべき仕事を終えたら、やることがなくなったのでここに来たのだ。
 いつもならば鍛錬でもするところだが、今日はなんとなくぼうっとして、穏やかな湖面を眺めていた。

 ―― 朽木家から申し入れがあったらしい。俺と朽木ルキアとの婚約を、と。

 ぼんやりした頭で、つい数時間前に聞いた日番谷の声を思い出す。

 ―― 家の立場的に、断れない。俺は義父さんを困らせたくない。

(そういう奴だよなあ)
 膝を抱えて顔を俯けつつ、苦笑がちに夏梨は思う。
 そういう奴だ。何だかんだ言っても、家族という存在を大切にしている。そして夏梨もまた、家族が大切で、かけがえのないものだと知っている。
 だからこそ、日番谷を責めることも、逆らうことも、泣くこともしたくなかった。
 けれども。
 その気配を感じたのは、少し強い風が髪を揺らしたときだ。柔らかな風に、酷く澄んだ一筋が混ざったのを感じる。次の瞬間には、すぐ隣に気配の正体たる男が立っていた。
「……ちょっと久しぶりだっけ? どうしたんだよ、氷輪丸」
 青い髪に金の目、氷の四肢を持った男は、日番谷の斬魄刀だ。
 だいぶ前のことだが、斬魄刀が実体化して反乱を起こす尸魂界きっての珍事が起こって以来、主の隙を見つけては斬魄刀がひょっこり出て行くことがある。もちろん呼ばれたら問答無用で即時帰還は必至だが。
「主の気がいつになく抜けていたから、出てきたまでのこと」
「いつも言うけど、貴重な時間なのにいいわけ?」
「構わぬ。我は自らの意志でここにいる」
 氷輪丸は淡々とそう言ってただ立ち尽くす。何故か彼は夏梨を気に入ったらしく、出てきたときはほとんど必ず顔を見せるのだ。
「……いつもの跳ね返りはどうした」
 ふと夏梨を見下ろして、氷輪丸は訊ねる。どうやら、元気がないことに気づいたらしい。
「聞いてたくせに、白々しいぞ」
 夏梨がそう返すと、む、と氷輪丸は口をつぐんだ。彼は日番谷の斬魄刀だ。ならば常に日番谷と共にある。つまり、先程も聞いていたに違いないのだ。
「……あたしが落ち込んでるんじゃないかって、来てくれたんだろ」
 ありがとう、と夏梨は小さく笑う。主に似て、淡白そうで実は面倒見がいい。
「大丈夫だよ、自分でも意外だけど、結構落ち込んでないんだ。……冬獅郎もつくづく苦労性だよなって同情してたくらい」
「……お前は同情するとき、眉間に皺を寄せるのか」
 訝しい視線を向けられて、夏梨は眉を寄せる。
「……何気に細かいな、あんた」
「話を逸らすな」
「まだ逸らしてないよ」
「お前は逸らすのが上手い。もうその手には乗らぬ」
 真顔で宣言されて、夏梨は思わず笑う。
「気づいた? 最初はどこまでも脱線してってたよなあ」
「……乗らぬ」
 わかりやすく眉を寄せて氷輪丸は夏梨を見下ろした。それに夏梨は、参りましたと言うように手を上げる。
「わかったわかった。……とりあえず、座りなよ」
 氷輪丸に隣を勧めて、腰を下ろすのを見届けてから、夏梨は深く息を吐き出した。
「……落ち込んでは、ないんだ。ただ何て言うか、すっきりしなくて」
 風が水面を渡る。そのさまを眺めながら、夏梨は手元にあった小石を湖に投げ込んだ。
 ぼちゃん、と音がして、波紋と泥が少し広がる。
「たぶん、冬獅郎が婚約して、ゆくゆく結婚しても、あたしと冬獅郎はそんなに変わらないよ。恋人っていうくくりじゃなくなるだけで、いい仲間でいれると思う」
「……希望的観測だが、主はそう努めるだろう」
「だろ? だからまあ、最初だけ我慢すれば、どうにかなるかなって、思いたいし……どうにかしなきゃだし。……でも、そう思って、割り切ったつもりでいるけど、すごく、すっきりしない」
 また小石を拾って、今度は少し力を強めて、遠くに飛ばす。
「すっきりしなくて――イライラする!!」
 続けて今度は大きめの石を持って立ち上がり、全身を使って全力で湖面に叩きつけた。派手な水音と水しぶきが跳ね上がって、澄んでいた水が濁る。
 夏梨はそれを見ながら、途方に暮れたように「何だ、これ」と呟いた。
「わけわかんない。ルキアちゃんのことは一兄の同期でよく知ってるし、可愛くてかっこよくて、いい人だと思う。冬獅郎とならたぶん上手くやっていけるだろうなって、お似合いだろうって、思うのに……っ」
 氷輪丸だって、と夏梨は続ける。
「袖白雪とは同じ氷雪系で、相性だっていいだろうって――」
「それは違います」
 凛とした声が、我知らず大きくなりかけた夏梨の声を遮った。同時に、湖が一瞬で白く氷結する。
 その上に降り立ったのは、白の髪に白い着物、肌まで澄んだ白色の女性だった。
「……何用だ、袖白雪」
 氷輪丸が眉をひそめて立ち上がり、自然な動作で夏梨を背中に隠すようにした。
「そなたこそ、何用です。わたくしは夏梨に会いに来たのですよ」
「我が先客だ」
「ならば、どうぞお帰りください」
 にっこりと、袖白雪は美しい笑みを浮かべる。けれど氷輪丸はそれを一言で「断る」と切って捨てた。
 袖白雪の表情が一瞬で不穏なものに変わる。柔らかな風は鋭さを帯び、氷結した湖面がパキパキと音を立て始め、氷輪丸の周りにも、氷の一帯が一瞬で作られた。
「ちょ……ちょっと待った!」
 何やら不穏極まりない空気に、慌てて夏梨は二人の間に割って入る。
「なに戦闘態勢整えてるんだよ! ていうか、二人とも知り合いなの?」
「知り合い、というほどではありませんよ。以前の斬魄刀反乱のときに少し顔を合わせはしましたが……まともな会話をしたのは、つい先日です」
 袖白雪が微笑して返す。
 ちなみに夏梨は袖白雪と親しい。氷輪丸と同じく、たまに出てきては会いに来るのだ。その頻度は氷輪丸より高い。何故かと言えば、兄の一護の友人であるルキアが兄と家に来ることがしょっちゅうだからだ。一護といるとルキアは警戒心がおろそかになるらしく、しかし残月がいるから多少は心配ないと判断して、袖白雪はここぞとばかりに抜け出して来る。そのたびに会っているうち、これまた何故か気に入られたらしい。
 もちろん日番谷と夏梨が一緒にいることも多いのだが、氷輪丸の場合、出てきたとしても日番谷がいると気まずいために出てこない。
「つい先日って……じゃあなんでそんな険悪な……」
 夏梨が困惑して二人を見比べていると、氷輪丸が気が殺がれたとばかりに構えを解きながら簡潔に答えた。
「同属嫌悪だ」
「……は」
 ぽかんと口を開けた夏梨に、同じく構えを解きながら袖白雪が補足する。
「わたくしとそちらの方は同じ氷雪系ですから。正反対もそうですが、同属性は霊子単位であるものの、良くも悪くも互いに影響しあってしまうのです。どうやらわたくしとそちらの方とでは悪いほうのそれが顕著のようで……。ですから、非常に相性が悪いのですよ」
「……そうなの?」
 夏梨が思わずきょとんとすると、双方が頷く。次いで睨み合っているから、同属性云々と言うよりは個人的な感情ではなかろうかと疑いたくもなるのだが。
「故に朽木ルキアと我が主の婚儀は、いささか問題がある」
 氷輪丸が氷結の解けかけた湖面に立っていた夏梨の腕を引き戻して、そう言う。
 湖面の氷結を戻して夏梨の隣に降り立った袖白雪は、氷輪丸に半ば抱え込まれた夏梨の肩をすいと引いた。
「そう、わたくしも、それを言いに来たのです」
 袖白雪は正面から夏梨を見つめて、「お願いします」とその手を握る。
 彼女は尸魂界で一番美しいと言われる斬魄刀だ。その実体が美しくないわけがない。女の夏梨でも、どきりとするほど美しい。
 夏梨が視線を離せなくなるのを待つように間を置いてから、袖白雪は続けた。
「わたくしと一緒に来てください。――そして、白哉様を止めて頂きたいのです」


***


「……申し訳ありません、何がどうなっているのやら、私には判断できかねます」
「……同感だ」
 夏梨が湖畔で氷輪丸や袖白雪といる頃――日番谷は、朽木邸の一室にいた。
 目前にはルキアがいて、途方に暮れた様子で閉め切られた戸を見つめている。その戸の向こうには、浮竹と白哉がいるはずだ。
 ――つい先程のことだ。日番谷は、浮竹が朽木邸に直に話を聞きに行くと言うので、それに同伴した。
 着いた朽木邸では、白哉がルキアと共に待ち構えていて、とりあえず最初は、と浮竹と白哉だけで話し合うことになった。すると自然、残されるのは日番谷とルキアである。
 どうやらルキアは困惑から抜け出せないらしく、日番谷が来てからもひたすら無言で百面相を繰り広げていた。
「……もともと、婚儀の話はあったのか?」
 見かねて日番谷は、脳内整理に付き合ってやることにする。
 ルキアはばっと顔を上げて、そしてぶんぶんと横に首を振った。
「いえ……全く聞いたことがありませんでした。もともと私は朽木家の養子です。婚儀によって得られるものはそうありませんし、朽木家もそこまで瀕していません」
「なら、どうして急にこんな話になっている?」
「兄様が唐突に、朽木家の娘ならば婚約者の一人はいるべきだと仰られて……気づけば、いつの間にか……」
「……何だってんだ、いったい……」
 やり場のない苛つきを持て余して、日番谷は舌打ち混じりに呟く。
 白哉が亡き妻の妹であるルキアをそれはもう大切にしていることは、本人こそ知らないが、周知の事実である。それが何をまかり間違って婚約などと言い出したのか、さっぱり読めない。
 だが、当人たちを置き去りにして、黙々と事態は進みつつあった。
 噂はとんでもない速度で瀞霊廷中に広まっているし、確定するまで黙っておこうと思っていた夏梨にも知られてしまった。ここに来るまでに「おめでとうございます!」とまで言われもして、外堀だけが次々に埋まりつつある。
 確かに、貴族の立場的に浮竹家に拒否権はない。けれど護廷十三隊の隊長同士としてならば、渡りあうことができる。だがそれをするためには、はっきりしない白哉の意図を知らなければならない。
 ――この話を打ち消すことができるなら、何でもするから早くしたい。
 それはまぎれもない日番谷の本音だ。考えながらやたら頭にちらつくのは、部屋を後にした夏梨の後姿ばかりだった。
「あの、日番谷隊長」
 ルキアが、おずおずと言った様子で口を開く。
「なんだ」
「その、申し訳ありません。わけもわからず、このようなことになってしまって……」
「……気にするな。そっちも立場的に逆らえねえことはわかってる」
 ルキアの謝罪に、日番谷はそう返した。実際、日番谷もルキアも養子の身だ。容易に家に逆らうことなどできないし、したくもない。それは互いに唯一よくわかるところと言える。
 しばらく沈黙が続いてから、ぽつりとルキアは呟くように問うた。
「日番谷隊長は、袖白雪をどう思われますか?」
「……唐突に、なんだ」
「いえ……先日、袖白雪が言っていたのです。あの、お気を悪くされないで頂きたいのですが……氷輪丸が苦手だと」
 日番谷はきょとんとした。だが、すぐに納得したような表情に変わる。
「ああ、同属性の霊子反発か。近場で発動させた覚えはほとんどないが……今も勝手に抜け出してるわけだから、お互いを知っていてもおかしくはないな」
「はい。それで……」
 言いかけたところで、ルキアは唐突に言葉を止め、ばっと窓のほうを振り向いた。日番谷も眉をひそめてそちらを見やる。
「……感じたか」
 日番谷の言葉に、ルキアも頷く。
「袖白雪の気配が、近づいています」
「氷輪丸もだ。……開けるぞ」
 日番谷は足早に窓に歩み寄ると、勢い良く障子窓を開け放つ。その途端、冴えた冷風が部屋に舞い込んだ。だが優しかったのはほんの一瞬で、次に瞬いたときには、狂暴なまでの暴風雪が部屋を突きぬける。
「わあっ!」
 突然の暴風にさらされたルキアが体勢を崩す。それを見て取った日番谷は、腕を引いてそれを助けた。風除けを得たルキアは、これ幸いと隠れるように身を寄せる。
 その次のタイミングで、声がした。
「わっ、ちょ、氷輪丸!?」
 聞き覚えのありすぎる声に、ばっと日番谷は顔を上げる。吹雪がやんだ視界には、氷輪丸にしっかりと抱きかかえられた夏梨が映った。腕はしっかり首に回されていて、密着度で言えば日番谷とルキアより高い。
 その夏梨と、ルキアを支えた日番谷の視線が交差した。
 双方が一瞬動きを止める。そして日番谷より早く、夏梨が視線を逸らした。
「な……何事だ?」
 我に返って声を上げたルキアは、そこに知った顔三人が揃っていることに目を丸くする。
「袖白雪、氷輪丸……それに夏梨ではないか。いったい何を……」
「申し訳ありませんが、主。今はお話している時間はありません。――さあ、夏梨」
 ルキアを遮った袖白雪は、氷輪丸に抱かれたままの夏梨を見やった。それに、夏梨は頷く。そして氷輪丸の腕を引くと、その場に立った。
「ごめん、ルキアちゃん。――すみません、隊長。失礼します」
 一言だけ言い置いて、夏梨は奥の部屋へと向かう。日番谷が何か言う暇はなかった。
 夏梨が襖の前に至ると大差なく、襖が開く。
「……何事だ」
 現れたのは、朽木家当主たる白哉だ。その前に、夏梨は膝をつく。
「ご無礼、申し訳ありません。十番隊第三席、黒崎夏梨です。火急の用事ゆえ、お許しください」
「用件は」
 短く促されて、夏梨は白哉を見上げた。

「当家の兄――十三番隊副隊長、黒崎一護の行方を、ご存知ではありませんか」

[2009.10.08 初出 高宮圭]