部屋は嫌に静かで、生物の一切を拒否するような、静の完成した空間がそこにあった。
それを崩さぬように、日番谷は音もなく進み入る。
静の中心に、その子供は横たわっていた。夜闇のせいで、顔色はわからない。だからこそ余計に、ただ眠っているように見える。
だが、その目が開くことは決してない。この部屋に入ったときから、それは一目瞭然の事実だった。
無音のまま、日番谷は少女の枕元に立つ。闇と同色の着物をまとった彼は、さながらその名の通り、魂を連れ行く死神そのものだ。だがここに、送るべき魂は既にない。
常ならば、良いことだと思う。だが今回ばかりは、純粋にそうとは思えなかった。その事実に、音もなくため息をつく。
死神は常に、全ての魂魄に平等でなければならない。
やけにそんな当たり前の教えが頭を巡る。それを振り切るように、日番谷は少女の髪に手を伸ばした。
そう長くない髪は、すぐに指をすり抜けて落ちる。
黙ってそれを眺めた後、張り詰めた静寂を壊すように、日番谷は呟いた。
「髪、伸ばせって言ったじゃねえか」
***
――その手紙には、たった四行だけが書かれていた。
『ごめん。ありがとう。さよなら。 黒崎夏梨』
それは、遺言と呼ぶにはあまりにも短く、つたなく、寂しい、だがとても夏梨らしい手紙だった。
遊子がその手紙を見つけたのは、夏梨の葬儀が済んだ、次の日だった。郵便受けの底のほうに、隠すようにして入っていたらしい。
手紙は家族全員に読まれてから、夏梨の遺影のそばに置かれた。
一護はそれを持ち出して、自室でじいっと眺めている。すぐそばに、遊子もいた。部屋に一人でいたくないと言う。夏梨と二人で使っていた部屋だから、残ったそれが『遺品』だというのが、どうしても嫌なのだと泣いて、今は寝ている。
この手紙を誰かの悪戯とするには、意味がなさすぎる。だが、これがもし真実夏梨の手によって入れられたものだと言うなら、夏梨は、自分の死を前もって知っていたことになる。
そんなことが、あり得るのだろうか。
(いや)
巡る想像を、一護は無理やり止めた。それでなくとも現実主義な夏梨だ。まさか死の予感なんてものを信じるとも思えない。確信がない限り、こんなものを入れはしまい。
だがそこで、一護は自分の考えにひっかかりを覚える。
(確信?)
まさか、あったのだろうか。
白い便箋に淡白につづられた文字を見つめても、当然その答えは出てこない。
一護はがしがしと頭を掻いて、その考えを振り払う。
(そんなわけねえ)
確信があったなら、それを回避しようとするはずだ。それをあえてせず死んだと言うなら、それは自殺も同じではないか。
そう否定したところで、ふと夏梨がなぜ死んだか、その理由が頭を過ぎった。
――歩道に突っ込んだトラックから、歩いていた親子を庇った。
座っているベッドが、軋んで鈍い音を立てる。その音に合わせるように、一護は拳を握りしめた。
もし。
もし、夏梨は死ぬことがあらかじめわかっていて、その理由も知っていたとしたら。
回避しようとするだろうか。自分の死を回避して、代わりにその親子を犠牲にしようと考えるだろうか。
(そんなわけ、ねえ)
自分より、他人。ぶっきらぼうで荒っぽいが、夏梨はそういう性格だ。誰かのために、自分が損であっても頑張ることができる。頑張ることをしてしまう。
――もし。
「くそ……っ!」
一護は毒づいて、ベッドから立ち上がる。
どうせこんな体質に生まれたのだから、本人に訊ければいいのに、と思う。だがそれが無理なことも知っている。夏梨の死を知らせてから、日番谷が様子を見に行ってくれたのだが、因果の鎖は綺麗になく、魂魄は既に現世にない、と告げられたのだ。
立ち上がった拍子に揺れたベッドに反応して、遊子が少し動く。だがそれ以上はなく、一護は寝ている遊子に布団をかけてやる。
それから、手紙を握りしめて、家を飛び出した。
***
今では馴染みになった浦原商店の戸を勢い良く開ける。
その音に反応して「いらっしゃいませ」と奥から顔を出したのは、テッサイだ。一護を見ると、わかりにくいが驚いたように眉を上げた。
「お久しぶりですな。皆、奥に揃っておられますが。……どうかされましたかな」
「ああ……いや、悪い。浦原さんに、訊きたいことがあるんだ。呼んでくれねえか」
テッサイはどうやら他にあまり聞かれたくないことを察したのだろう。「わかりました」と頷いて、すぐに浦原のみを連れて来た。
「お久しぶりッス、黒崎サン」
浦原は普段の気楽な様子を治めて、一護に挨拶した。
夏梨が死んだことを伝えに来て以来、一護は一週間以上ここに来ていない。同時に死神代行としての仕事も休んでいる。休んで良いと言われたわけではないが、やれと言いに来なかった辺り、気を遣っていてくれたのだろう。
「……大丈夫なんスか?」
「……浦原さん。訊きたいことがあって、来たんだ」
あえて問いかけには答えずに、一護は切り出す。浦原もこだわらずに首を傾げた。
「訊きたいこと?」
「ああ。――霊力が強いと、自分の死期がわかる、なんてこと……あるか?」
浦原がわかりにくく目を瞠る。そして声を低めて「どういうことッスか?」と訊ねた。
「うちのポストに、この手紙が入ってた」
手に持ったままの手紙を差し出す。浦原はそれを受け取り、読んでいいのかと再度問うように一護を見たが、一護は黙って頷いた。
手紙を開いて、浦原はしばらく黙る。
「……なるほど。つまり黒崎サンは、夏梨サンが自分の死をわかっていて回避しなかったのではないか、と考えてるんですね」
「ああ。……そんなことが、あり得るのか」
手紙を再び折りたたみ、一護に返してから、浦原は答える。
「あり得ない、とは言い切れません。……古来から人は、他人の死を離れた場所で悟ったり、自分の死を正確に予期することもありました。ですがこれは、霊力の強い弱いに関係するとは確定できない」
「じゃあ、何で夏梨は……」
「わかりません」
はっきりと、浦原は言った。
「……すみません。申し訳ないですが、アタシにもわからない。――ただ、言えるなら」
一護は手紙を握りしめて、浦原を見た。浦原もまっすぐ一護を見る。
「彼女は自ら死を望んだわけじゃない。そして、怯えて何もできなかったわけでもない」
浦原も、夏梨の死因は知っている。一護と同じ結論に辿り着いたのだろう。
そうだ。普通、死ぬことがわかっていて、平然としていられるわけがない。ましてや夏梨はまだ子供だ。死にたくないと思うのは当たり前で、怖いのも当たり前のことだ。それでも夏梨は誰にも気づかれることなく過ごし、そしてあの親子を庇って、死んだ。
そうでなければ、親子が死ぬしかないとわかっていたからこそ、あえてそれを避けずに。そしてわかっていて避けないことを、手紙で詫びたのだろう。
一護は何も言えなくなって、俯く。
そしてしばらくの沈黙のあと、手紙を握る手の力を緩めて、口を開いた。
「……あのバカ、かっこつけすぎだ」
ゆるゆると、踵を返す。そのまま戸口に向かって、店を出る一歩手前で足を止めた。
「悪い、浦原さん。……もうちょい、時間くれ」
***
一護が帰ってしまってから、浦原は浅く息をついて、奥の部屋に入った。当面ここに居候している死神たち一行は、一護が来たことに気づいたようだったが、浦原が軽く首を横に振って見せたあと、再び仕事に戻った。
「……喜助」
「夜一サン。お仕事、行ったんじゃなかったんですか?」
「戻ってきた。……一護は、何を訊いて来た?」
一人部屋に入るや、どこからともなく姿を現した夜一は、金の目を細めて問うた。
浦原は再び、息をつく。
「彼女が、手紙を残していたようです。『ごめん。ありがとう。さよなら。』とだけ。……それで、彼女が死をわかっていて回避しなかったのではないか、霊力が強いと、死期がわかるのか、とね」
「……なるほどの。それでおぬしは、何と答えたのじゃ?」
「わかりません、としか言えませんでした。……夏梨サンとの、約束がありますから」
低めた声で、浦原は呟く。
夜一も小さく「ああ」と頷いて、軽く俯いた。
――黒崎夏梨。
夜一は、彼女を一護の妹以上に認識してはいなかった。だが今は、まるで我が子のように感じている。
(たった、ひと月)
それだけしか関わっていないというのに、単純なものだと思う。それでも、不思議とあの子供には、そういうものを抱かせるだけの魅力があったと言っていい。兄にもある、不思議と他人に信頼感を持たせる特性を、彼女もまた持っていた。
ひと月前。
浦原商店に駆け込んできた夏梨の表情を、夜一はまだ、覚えている。
[2009.08.21 初出 高宮圭]