その日は、雨だった。
夜から降り続いた雨はやまず、結局一日中降り続きそうな、そんな空があった。
普段から全く客のない浦原商店の戸が開けられたのは、昼下がりのことだ。
さした傘も意味がないほどに走って、夏梨は店に駆け込んできた。
傘を閉じて床に放り出し、そのまま肩で荒く呼吸をしながら、へなへなと座りこむ。
「おいおい、どうした?」
ちょうどテッサイと店の子供たちは品入れに店を開け、浦原は奥で仕事をしている。店番をかねて猫の姿でくつろいでいた夜一は、てくてくと夏梨のもとまで歩み寄った。
あの一件――夏梨の霊圧が不安定になり、虚が大量発生したあれ以来、夏梨は夜一がただの猫でないことを知っている。もともと感づいていたようだが、大したものだと夜一は思っている。兄に比べて、霊圧察知が上手いのだ。
「よる、いちさん……」
荒い息の狭間で、夏梨は座りこんだまま夜一を見た。
その様子はどこか切羽詰っていて、いつも勝気な黒い瞳は、不安げに揺れている。
「……どうした」
改めて、訊ねる。
だが、夏梨は答える前にがたがたと震え出した。濡れて寒いのか、顔色も悪い。
「とりあえず、部屋に入れ。何があったかは知らぬが、安心しろ。そばについておる」
宥めるように言い聞かせ、夏梨は何とか頷く。だがどうやら足に力が入らないらしい。それを見て、夜一はもとの姿に戻った。
「……は」
ぎょっとした表情の夏梨が見上げて来る。いつもならもっとからかって遊んでやるところだが、今はやめておくことにして、夜一はひょいと夏梨を抱き上げた。
「え、え? あ、あんた……夜一、さん?」
「そうじゃ。驚いたじゃろう。これが儂の真の姿じゃ。……じっとしておれ、運んでやる」
「あ、うん……」
まだ釈然としない返答を返しつつ、夏梨はされるがままに運ばれる。
部屋につくと、とりあえず壁に寄りかかる形で座らせ、タオルを勝手に引き出しから拝借して放った。
「あとでウルルの着替えでも借りてきてやろう。しばし待っておれ」
「あ、ありがとう……。でも、その」
「何じゃ?」
まだ驚きが消えないのだろう、夏梨は眉をひそめたまま、促されて続ける。
「夜一さん、先に服着たほうが、いいんじゃ……」
またもすっかり、服のことを忘れていた夜一である。
夜一も夏梨も着替えを終えて、ついでに仕事に飽きたらしい浦原まで出てきて、ようやく話を聞く体勢に入ったのは、夏梨が店に来てから十五分ほど経ったあとだった。
「落ち着いたか?」
「うん」
暖かいお茶を両手で持って、夏梨は息をつく。
「それで、どうしたのじゃ」
夜一が再度問うと、夏梨はためらうように少し俯き、それから思い切ったように顔を上げた。
「……夢を、見たんだ」
「夢?」
「ここのところ、二週間くらいずっと続いてる。花が咲いて、声が聞こえてくるんだ」
夜一は眉を寄せた。
「同じ夢なのか?」
「同じと言えば、同じだけど……連続してる。一昨日の続き、昨日の続き、みたいな感じで」
「続く夢、ですか」
呟いたのは浦原だ。普通夢というのは記憶をもとに見るものだ。起きれば忘れていることがほとんどで、続きを見ることなどごく稀だろう。
「どんな声が聞こえてくるのじゃ?」
「――『聞こえるか』って」
夏梨は、ぎゅっと湯飲みを握って、言う。
「最初は、そうずっと呼びかけてて、応えた日から、どんどん喋るようになった」
最初のほうは、と夏梨は俯いて続ける。
「ただの夢だと思って、深く考えてなかったんだ。でも、一週間続いて、だんだん声が近くなって、花が開いて行って。ちょっと気味悪くって……。それで、夢で、どういうことだって、あんた誰だって聞いたんだ。それからどんどん、夢がリアルになって行った。気温も、匂いも、地面の感触だって覚えてるようになって、意味不明な声と、会話が成立するようになって行って」
こくん、とお茶を飲み下して、夏梨は妙に聞き入っている二人を見る。
「『川辺の桜が咲く』って、その声がある日言ったんだ。じゃあ次の日、本当に咲いて、『裏の家の犬が出産する』って言ったらその通りになって、『向かいのお婆さんが死ぬ』って言ったら、死んだんだ」
「……予言、ですか?」
「わかんないよ! でも、すっごく気持ち悪くて仕方なくて、でもその夢ばっかりで……」
それは確かに、気持ち悪かろう。予知夢というには妙だ。第一、本当に予知夢などというものが存在するのかも知れない。
夏梨は心細さを埋めるように膝を抱いた。
「……今朝の、夢は」
ぽつり、と呟くように、掠れそうな声で、夏梨は言う。
「あたしが、死ぬ夢、だったんだ」
夜一と浦原は音もなく息を呑む。夏梨は膝に顔を埋めた。
音の途切れた室内に、雨の降る音がこもった音で響く。雨どいを伝って落ちる定期的な水音のリズムが、秒針と重なった。
その音が二分ぶん続いてから、夜一はそっと夏梨の頭に手を載せる。
「……恐ろしかったろう」
「……ん」
くぐもった声で、夏梨は顔を埋めたまま、応える。
夜一は、小さな体をさらに小さくしている子供の頭を撫でながら、その胸中を想像した。
――現実に起こる予知夢。それで自分の死を見たとなれば、不安にならぬわけがない。
ましてやまだ年端も行かぬ子供だ。だが、おそらく誰にもそれを言えなかったに違いない。親しい者には特に。
だからこそ、ここに来たのだろう。そのまま抱えるには大きすぎる行き場のない恐怖を薄めるために、ここならば何か手がかりがあると考えたのだ。
「そういうことなら夏梨サン、とりあえず、今日はウチに泊まってってください」
「え?」
唐突な浦原の申し出に、夏梨は少し顔を上げて、きょとんとした。
「今の話だけじゃ、さすがにアタシたちもよくわからない。……その夢を毎晩見るって言うなら、今晩様子をみましょ。大丈夫、お父さんにはアタシから連絡しといてあげますから」
「で、でも」
「夜にはジン太もウルルも帰って来ますから、ヒマってこともないッスよ。一緒に寝れば夢を見ないかもしれないじゃないッスか」
「……そういうもん?」
「そーいうモンです」
気楽だなあ、と夏梨は呆れたように苦笑する。
それから、頷いた。
「じゃあ、そうする。……でも、浦原さん、夜一さん。夢のことは、誰にも言わないで」
「わかっておる。安心しろ、こう見えて口は軽くないぞ」
ぐしゃぐしゃと頭をかき回すと、夏梨はようやくほっとしたように笑った。
***
「あのときは、びっくりしたッスよねえ」
ふと浦原が口を開いて、夜一は苦笑した。どうやら浦原も、似たようなことを思い返していたらしい。
二人しかいない部屋で、夜一は茶をすする。
「ああ。……まさか、夏梨の夢が斬魄刀の夢だとは、思っても見なかったからのう」
「生身の人間が、生きながら死神の力を発現させるなんて、普通はないッスから」
あのあと、その晩。夏梨の様子を見守っていた夜一と浦原は、信じられぬものを見た。
生きた人間が、死神の力に目覚めようとする、その異様な様を見たのだ。
その原因は、やはり予知夢にあった。告げられた「死」の予告。それは逃れ難い事実として、夏梨に死神化を促していた。
それを夏梨に告げた、次の日のことだ。
夏梨は、浦原商店を訪れて、言った。
『あたし、死神になる』
あれも予想外だった、と夜一は思う。そもそも夏梨の夢の正体がわかってから、浦原と二人で死神化を止める手立てを講じていたのだ。死神化を止め、予知夢を現実にせぬために、動き始めていた。
どういうことだ、と訊ねた夜一に、夏梨は困ったような表情で笑った。
『あたしが死なないと、別の誰かが死ぬことになるんだ』
自分がどうやって死ぬか、それを夢で告げられたと言う。それを回避すれば、どうしても夏梨以外の誰かが死ぬことも。
『いつ死ぬかってのは、正確にわからないんだって。けど、そう遠くないうちに、あたしは死ぬ』
『軽く死を口にするな! 死にたいわけではなかろう!?』
『死にたくないよ! 怖いし、やりたいことだっていっぱいあったし……でも、あたしの代わりに誰かが死ぬのは、もっと嫌だ』
小さな拳を固く握って、大きな瞳を揺らして、夏梨は言った。
『だから、あたしは死ぬことになるんだ。でもそれで、やりたいことの一つが、できるようになるから』
『やりたいこと?』
その幼さには似合わない覚悟を持って、夏梨はそこに立っていた。泣きそうな瞳で、それでも決して涙は見せなかった。
『一兄を、助けたい』
一途な視線で、夏梨は夜一を見た。
『守られてばっかりじゃなくて、あたしも一兄を、大切なものを守りたい』
だから、と夏梨は頭を下げた。
『死んでから、死神になるんだって、前にジン太が教えてくれた。あたしが死んでから死神になれるように――あたしを、鍛えてほしい。お願いします!』
その小さな体が震えているのは、目に明らかだった。当然だ。死んでもいい、などと、簡単に言えるものではない。それが言えてしまったのは、幼さゆえの愚かさか、心に宿した覚悟ゆえか。
どちらにせよ、夜一も浦原も、予想を外れた夏梨の申し出に、しばし呆然としたものだ。
「……守りたい、か」
ぼそりと夜一は呟く。その口元には、悲しみとも呆れともつかぬ笑みが浮かんだ。
「やはり、兄妹じゃのう。……ただそれだけで、本当に儂の訓練についてきおった」
夏梨の申し出から後、夜一と浦原は、夏梨のために特別な空間を極秘裏に設け、霊子変換を用いて容赦なく訓練を行った。だが、これには問題があった。まず、はっきりとした残り時間がわからなかった。だから最短で自分の身を守れるだけの実力を付けることだけに焦点を置いた。すなわち、逃げることだ。
夜一がまず教えたのは、瞬歩だ。それから基本的な体術、刀。そして何より鍛えたのが、霊圧察知の能力だ。もとよりこれに素質があったために、殺気と霊圧というものを骨の髄まで教え込んだ。
「いやいや、頭のよさは夏梨サンのが上でしたよ」
浦原が担当したのは、知識のほうだった。尸魂界の歴史から始まり、霊子、虚、死神、瀞霊廷。基本を叩きこんでから、霊術院についてレクチャーし、その試験対策に文字通り明け暮れた。
「飲み込みが早いことったらない。試験対策が予定の半分で終わりましたからねえ。予定外に時間が余ったから、うっかり技術系統と戦術についても教えてみましたが……」
「そんなことをしておったのか……やけに途中からおぬしの戦法に似たことをするようになったわけがわかった」
「おやまあ、実践に応用できたんスか。そりゃすごい。でも夜一サンも隠密歩法とか白打とか、剣術も予定より教えてましたよね」
「思ったより時間があったのじゃ。よい生徒に教えたいと思うのは当然じゃろう?」
夜一が胸を張る。浦原もそれに笑った。
確かに、死の予告が告げられてから、猶予はひと月と少しあった。これには夏梨も驚いていたが、「ラッキーじゃん」と言い放っていたのを覚えている。 いつ唐突に終わってもいいように詰め込み式で教えていたのが少し悔やまれるところだ。
「鬼道の基本を教えて、すぐに六十番台まで打てるようになったのは、さすがに驚きじゃったが……思えば、あの霊力の上がりが、前兆だったのかもしれぬな」
湯飲みを机の上に置いて、夜一は天井を見上げた。
全てにおいて、最悪のパターンを予測して、夏梨を鍛えた。だが、心配ないと思えるのは唯一逃げ足だけだ。それ以外は、さすがに完成させる時間はなかった。
――『師匠!』
夏梨は、夜一のことをそう呼んだ。一回呼んでみたかったんだ、と何とも子供らしい理由からだったが。浦原のことはそのままだった。いわく、『ガラじゃない』らしい。大いに笑ったものだ。
ひと月。
夏梨は、気丈にふるまっていた。いつも通り日常を過ごし、平日は夜に、休日は一日の訓練に耐えた。
弱音は一切漏らさなかった。
けれど。
『もうすぐ、かも』
それは、夏梨が事故に遭う一日前の――そのときは最後と知らなかった、最後の訓練の終わりのことだった。
ぽつりと、夏梨が漏らしたのだ。
『こわいなあ……』
それは、訓練を始めてから初めて聞く、夏梨の弱音だった。
夜一も、浦原も、覚えている。
あの夜、夏梨は泣いた。
子供らしく、声をあげて。
けれどその幼さに似つかわしくない、痛みを伴った声で。
覚えている。
夜一の胸にすがって泣いた、怖がる子供の姿を、ひどく鮮明に。
夏梨をひたすらあやした手のひらを見つめて、夜一は祈るように、交わした約束を呟いた。
「……必ず、死神になって会いに来い、夏梨」
[2009.08.21 初出 高宮圭]