――人間とは、かくも脆いものだったろうか。
是、脆いものだったのだ。ただ、彼がそれを忘れかけていただけで。
「……隊長」
ふと声をかけられて、日番谷は夕焼け空に投げていた視線を戻す。振り返れば、そこに彼の副官たる松本乱菊が、厳しい表情で立っていた。
いつもの気楽な表情ではないことと、一週間と少し前にあったあの出来事を繋げて、日番谷は用件の内容を察する。
だが、あえて訊ねた。
「どうした」
乱菊はためらうように少し視線をずらし、だがすぐに日番谷に戻す。
「……あたしに、休暇、くださいませんか」
「そんな暇が、あると思うか?」
「一日だけで結構です。それが無理なら、数時間、尸魂界への一時帰還の許可をください」
「許可できない」
乱菊に背を向け直して、日番谷はそれを一言で切り捨てた。
「どうしてですか」
「お前が何をしに帰るのか、わかっているからだ。……やめておけ」
「隊長、あたしは……」
「あいつの魂魄がどうなったか、調べに行くつもりだろう」
日番谷の低い声に、乱菊が反応する。図星だったらしい。
あいつとは、黒崎夏梨のことだ。少し前に、あまりに唐突に事故で死んだ子供。死神代行黒崎一護の妹であり、日番谷とも乱菊とも、接点があった子供だ。
「流魂街に入った魂魄の情報はいちいち記録されない。膨大すぎるからな。紛れてしまえば、まず見つけられない」
「わかってます、でも――」
「時間をかければ、あるいは見つかるだろう。だが今は、そんな余裕はない。見つけるまで、あいつが流魂街で生き延びられるかもわからない」
夕焼け空の中に立ち止まって、隊首羽織と髪をその色に染めながら、日番谷は淡々と言い放った。それに乱菊は言い募る。
「見つけられれば、力ある者として保護することもできます」
「……なら、仮に見つけられたとして、お前はあいつに何て言う気だ?」
「え……」
問いの意味が掴めず、乱菊は眉をひそめる。
「『お前は死んだけど力があるから死神になれ』とでも言うのか」
付け足された言葉に、ようやく乱菊ははっとする。いくら素質があると言っても、彼女は子供にすぎない。流魂街で幾年も過ごせば別だろうが、死んだばかりの子供に戦いを覚えて死神になれというのは、いささか酷な話だ。加えて、彼女と乱菊たちは生前の接点がある。大人でさえ受け止め損ねることもある「自分の死」という傷を、えぐるような真似はしたくない。
乱菊は口を閉ざして、視線を落とした。
それからしばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……あたし、あの子が事故に遭う少し前に、会ったんです」
唐突にも思える話の転換に、日番谷は乱菊を振り向く。乱菊は視線を足元に向けたまま、話を続けた。
「会った?」
「はい。浦原商店で、あの子――夏梨ちゃんに」
――それは、二週間程前のことだ。乱菊は仕事で浦原に渡す資料をまとめて、それを届けに行った。そこに偶然、遊びに来ていたらしい夏梨が居合わせたのだ。
何度か会ったことがあるだけだったが、夏梨は子供らしい人懐こい笑顔で、ぱたぱたと手を振ってくれた。
それから『お姉さんが遊んであげるわ!』という理由付けのもと、そこでそのまま仕事サボりに入った乱菊は、浦原商店の子供たちも巻き込んで遊び倒した。更には、うっかりそこで子供たちと昼寝をしてしまったのだった。
そのとき、ちょうど夏梨は、乱菊のすぐそばで眠っていた。
一足早くに目覚めた乱菊は、無邪気な子供たちの寝顔に囲まれて、しみじみと平和を感じていたのだが、そのとき聞いた、印象に残っている言葉がある。
『おかあさん』
子供たちの中で一番に目を覚ました夏梨が、半覚醒の状態で、ぽそりと呟いたのだ。それから、寝ぼけたまま乱菊に擦り寄って来る。
一瞬意表を衝かれた乱菊だったが、その仕草の微笑ましさに、寝ぼけた子供を抱きしめた。しばらくしてしっかり目を覚ました夏梨は、自分が乱菊に抱きしめられていることに最初こそきょとんとしていたが、すぐにじゃれるように乱菊に抱き付いてきた。
『乱菊さん、お母さんみたい』
『あら、夏梨ちゃんみたいな娘だったら大歓迎』
そう言って笑い合ったことは、まだ記憶に新しい。
そして、それから少しして、夏梨は事故に遭った。
――ほとんど、それだけの繋がりだ。それ以前にも話したことはあったけれど、個人的に関わったのは、あれが最初で最後だったろう。
けれど、乱菊は夏梨を気に入っていた。
あの無邪気な子供が唐突に命を落とし、尸魂界へ行ったという事実は、自分でも意外な程に衝撃だったのだ。せめて流魂街のどこにいるかくらいは把握したいと思う程度には、夏梨のことが気になる。
だが、乱菊はそれ以上日番谷に言い募ることはしなかった。
「……気にしてました。隊長のこと」
日番谷が、ぴくりと反応する。
乱菊は、日番谷が夏梨を気にかけていたことを知っている。最初はその子供の身に余る力の強さを案じていたようだが、何度も関わるうち、少なからず気に入っていただろうことも。
「元気ならいいって言ってましたけど……会ってなかったんですね」
「……ああ」
染みるように夜の色が夕焼けに広がっていく。少しずつ冷たさを増す風に髪を遊ばせながら、乱菊はただ夕日を眺める日番谷を見た。
「隊長」
「何だ」
「また会えると、思いますか?」
その問いかけの意味を、日番谷は正確に理解した。――既に死し、膨大な尸魂界の魂魄の中に紛れた彼女と、死神である日番谷たちが再び会えるとすれば、彼女が流魂街を生き抜き、死神を志したときだろう。
だがそれまでに、いったいどれだけの時間がかかるか。治安の悪い地区に飛ばされてでもいたら、生き抜くことすら困難な話だ。
何年、何十年――何百年。
「……さあな」
日番谷は肯定せず、だが否定もせずに、沈み行く夕日に背を向けた。
***
「よう」
日番谷と乱菊が集会場所兼現世任務の本部としている浦原商店へ帰りつくと、久しぶりに見る顔が茶を飲みながら手を挙げた。
どうやらその他の面々はまだ任務から帰っていないらしい。
日番谷は幾度か瞬いてから、静かに声をかける。
「……いいのか」
訊ねられた張本人の黒崎一護は、それに曖昧に苦笑した。
「……正直なとこ、全然ダメだ」
ここのところ二週間ほど、一護は死神代行としての仕事を休んでいた。その理由を誰もが知っていたゆえに何も言わず、まだ時間を要するだろうと誰もが、日番谷とてそう思っていた。
けれど一護は意外なほどにすっきりとした表情で今、日番谷の前にいる。
「けど、ダメだって言ってたら、いつまでたってもダメなまんまなんだよ。……そんなでうじうじしてんの、夏梨が許すわけねえだろ」
そう言って一護はわざとらしく高い音を立てて湯飲みを机に置いた。
「だからダメでも何でも、今俺にできること、やるしかねえんだよ。……じゃねえと、あいつに会えねえ」
それに反応したのは乱菊だった。「会う?」と呟いて、眉をひそめて一護を見る。
「会うって……あんたまさか、あっちに行こうって言うんじゃ……」
だが一護は、それをきっぱりと否定した。
「違えよ。確かにそれも考えた。……けど、あいつなら、行かなくても会いに来る」
「え……」
目を瞠った乱菊に、一護は真剣な眼差しを天井に――その上に投げて、言い切った。
「死神になって、必ず会いに来る」
日番谷と乱菊は、一護の断言を聞いて、しばらく瞠目して言葉を失った。三人しかいない室内は、一気に静寂になる。
その中で、先に言葉を発したのは日番谷だった。
「死神になるのは、そんなに易くない。第一、なれたとしてもどれだけの時間がかかるか……」
「俺と同じで、あいつはそんなに気が長くねえよ。……それに、俺が死神なのを知ってる」
なら、と一護は続けた。
「あいつは、なる。どんなに大変でも。……ホントは勧めたかねえがな」
それはしかとした確信ある言い方だった。
そして一護は立ち上がる。
「だったら俺も、うじうじしてられねえだろ」
言って、代行証で死神の姿を取った。そのまま言葉を失くしたままの日番谷たちの隣を通り抜け、戸口へと向かう。どうやら今から仕事を再開するらしい。
「黒崎」
日番谷は低く一護を呼びとめた。一護が振り向く。
「――その確信に、根拠はあるのか」
振り向いた一護は、日番谷の問いかけに、自然に笑って答えて見せた。
「俺の妹だからな」
[2009.09.08 初出 高宮圭]