Vox

-ロストチルド・ライド-

06 : であうこと

 湿った土の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、夏梨は目を覚ました。
「……ぅあ?」
 喉から掠れた声が漏れる。夏梨はぼんやりしたまま、寝ていたのか、と横たわった体を感じながら思う。いつの間に寝ていたのかわからない。少なくとも、寝ようとして眠っていたわけではないのは確かだ。
 徐々にしっかりと覚醒していく意識の中で、視界もはっきりしてきた。
 薄暗い天井が目に入る。土と木の根で固められたそれは、人工的ではありえない。
 緩慢な動作で体を起こして、ようやく夏梨は現状を思い出した。
「そっか……」
 呼吸するたびに、瑞々しい土の匂いが感じられる。足元に差し込んだ光を追えば、その光源たる隙間から、青々と茂った木々が見えた。
 ――ここは山だ。
 そして、夏梨が今いるのはその山中の小さな洞窟。
 どれくらい寝ていたかわからないから、正確な時間は知らないが、とりあえず少し前に夏梨はここに逃げ込んだ。
 もっと遡れば、この地――北流魂街80区更木に来たのが今朝のこと。速攻で暴漢に襲われ、血に狂ったような男数人に追いかけられ、夏梨はとにかく逃げた。
 多勢に無勢。それでなくともこちらは素手であちらには刀。ついでに右の二の腕に傷も負っていて、到底立ち向かえる状態ではなかった。
 そして逃げ切ることは案外容易だった。
 それは、夏梨が瞬歩を駆使できたからだ。着いて早々かよ、と思ったものの、伊達に一ヶ月と少しの間夜一に鍛えられていない。逃げ足にはお墨付きを貰っていただけのことはあって、男たちはすぐに撒けた。
 それから夏梨は、瞬歩で程近くに来ていた山に足を踏み入れたのだ。
 記憶を辿りながら、夏梨はゆっくりと自分で整理していく。
(とりあえず隠れる場所が欲しくて)
 いつまた誰に襲われるかわからない。そういう土地だと肌で知った。だから、隠れる場所の多そうな山に入った。そして運良く、この洞窟を見つけたのだった。
 入り口はちょうど子供が入れる程度しかない。これ幸いと夏梨は洞窟に入り、それから。
「……治療、試したんだっけ」
 思い出して、ばっと右腕を見た。着物の袖は切れて、血で無残なことになっているが――その下にあったはずの傷は、ない。
 そうだ。やけに出血する傷と痛みに耐えかねて、夏梨はそれこそ教えて貰ったばかりでろくに訓練もしていない、治療系の鬼道を試した。
 ―― 『よいか。治療系の鬼道は扱いが非常に難しい。失敗すれば命に関わる。間違っても慣れるまで大きな傷には使うなよ』
 そう夜一に言われたのはまだ記憶に新しい。
 そしてたぶん、夏梨が負った傷は決して小さなものではなかった。
(ごめん師匠、使っちゃった)
 心の中で今は遠い師に謝罪して、成功したことに今更ながら安堵する。
 だがそれで合点がいった。夏梨が知らぬ間に気を失っていたのは、おそらくその慣れぬ鬼道を使ったせいだ。
 ちゃんと練習しよう。ここで生き延びるためにはそれが必要だ。
 そう心に決めて、さてどうしようと考えようとしたときだ。
 ぐー。

「…………お腹空いた」


 と言うわけでとりあえず、何か食べ物を探すことに決めた。喉も渇いたし、水もほしい。
 山から少し離れたところに、町らしい家並みがあったことには気づいた。けれど、あんなに血に狂った暴漢を見たあとでは、そこに行くのも気が引けた。だいたい、金もないのに町に行っても仕方がない。見ず知らずの誰かをあてにするのも嫌だった。
 ――となれば、山というのは食料を探すにはおそらくもってこいの場所だと思えた。何がいるか知れないというのは不安だが、探せばたぶん水くらいは見つかるはずだ。
「よし」
 一人ぼっちという事実に気づけば挫けそうになるが、声を出して自分を叱咤する。
 そうやって洞窟を出た、その直後。
「ロ――ッ!!」
「ろ?」
 なんとも奇妙な鳴き声が聞こえた。
 次いで、今度はきゃんきゃん、という、犬のようなそれ。そして、それを圧倒する、太く低い咆哮が響いてきた。
 夏梨はそれで、音しか聞こえない何事かの事態を察した。
 ――犬っぽい何かが、熊っぽい何かに襲われている。
 それで、夏梨が動くには十分だった。
 もしここに他の誰かがいたならば、断固として止めただろう。どうして『熊っぽい』と思って挑戦しに行く必要があるのだ、と。
 けれどたぶん、そうなっていても夏梨は後先考えず動いたに違いない。
 犬は好きだ。
 それで理由は十分なのだ。

 藪を抜けて岩を越える。斜面を上って木々を抜ける。二分も走らないうちに、夏梨はその場に行きついた。
「げ……っ」
 辿り着いて現状を確認した途端、顔から血の気が引いた。
 山の斜面の半ばにある平面な地帯で、二者は睨み合っていた。
 一方は、黒い毛並みの小さな子犬。そしてもう一方は、こげ茶のがっしりした毛に覆われた、子犬の十数倍はあるかと思われる程の大きさの、熊。
 ――確かに熊っぽいとは思った。思ったが、まさかビンゴだとは思ってもみない。
 嘘だろ、という呟きは、子犬のあの妙な鳴き声で掻き消された。その声に負けじとするように、熊も咆哮する。
 状況はよくわからない。
 明らかに熊のほうが有利で、その爪を振り下ろせばすぐにも子犬など殺してしまえるだろうに、微妙な距離を保ったままお互いに牽制しあっている、ように見える。
 一見すれば、子犬を獲物と定めた熊が追い詰めているようだが、しばらくその緊張状態を息を殺して見守っていた夏梨は、それが少し違うことに気づいた。
(あの犬……)
 どうやら怖がって鳴いているわけではない。たまにきゃんきゃんと喚くが、それも噛みつくような吠え方だった。勝手に犬の言葉を想像するとしたら、おそらく。
(なめるな、デカブツ! ……みたいな)
 それなら大したものだ、と若干場違いな感動を覚えかけた夏梨だったが、二者の拮抗状態は長く持たなかった。
 子犬が吠える。熊が咆哮してそれを打ち消す。そしてその巨大な爪を振りかぶった。同時に巨体が子犬に迫る。
 あ、と夏梨が思ったときには子犬は宙を舞っていた。
 小さな体が頼りなく空に映る。その様に、脳裏にフラッシュバックした記憶があった。

 ――執拗に追ってくる巨大な虚。逃げる自分。だがその甲斐なく宙に殴り飛ばされた。

 そのときの心もとなさを夏梨は知っている。そして、助けられたときの安堵も、知っている。
 今ではひどく懐かしい、ずうっと昔のような気がするその記憶は、けれど鮮明にあの声を反芻させる。

 ――おい、生きてるか!

 いつも彼の登場は、ヒーローじみていて。兄に感じるそれにも似た、とんでもない安心と信頼を勝手に抱かせる。守ってくれると思ってしまう。
 そんなのは嫌だ。自分らしくない。守られるばかりでいたくない。
 だから、死神になろうと決めた。
 彼の守ってくれた命を失う。兄の守ってくれた命を失う。家族や友人や親しい人たちが育ててくれた命を、失う。
 だから今度はそれらを守ろうと決めた。強くなりたいと思った。
 ヒーローになりたいと思った。

「――ヒーロー上等」
 夏梨は笑う。そして、跳ぶ。
 霊子を使って足場を作る。そして子犬が熊の攻撃範囲に落ちる直前に、その体を抱きとめた。
 腕に確かなぬくもりを感じる。だがまだ終われない。
 空中から熊を見下ろす。興奮した熊は巨体を動かして闖入した夏梨を狙ってくる。それに向かって、夏梨は片手をかざした。人差し指と親指以外は握り込み、人差し指の先を熊に向ける。さながら、鉄砲を真似るように。
 そして、一度瞬きをしてから、言った。
「破道の四、白雷」
 指先から一条の雷が放たれる。それは熊を直撃し、昏倒させるに至った。もともと殺そうとは思っていないから、それでいい。
「これに懲りて、もう来るんじゃねーぞ!」
 上空から言い放って、夏梨はすぐさまそこから姿を消した。

 とりあえず元いた洞窟に戻った夏梨は、子犬の容態を確認した。
 熊に殴り飛ばされていたわけだから心配したのだが、それに反し、腕の中に大人しく収まった子犬にはどうやら傷ひとつなかった。
「……おっまえ、丈夫だなあ」
 思わず感心と呆れ半分で呟いて、子犬を地面に下ろしてやる。すると子犬は「ロウ」とまた妙な鳴き声で鳴き、尻尾を惜しみなく振って、夏梨にすり寄ってきた。
 素足に触れるふわふわした毛の感触に、思わず夏梨は笑う。
「わ、くすぐったいってば。……お前、野良犬? 見たことない犬種みたいだけど、雑種かな」
 しゃがみこんで、子犬を観察する。基本的な毛並みの色は黒。けれど足先と尻尾の先だけは白で、綺麗に分かれている。耳は立っているがその半分からたれていて、瞳は曇りのない綺麗な緑色をしていた。そして首には、赤い紐で手のひら大くらいのボールみたいなものがくくりつけられている。それも白と黒の二色で、雫のような模様で二分されていた。ちょっと、サッカーボールに似ている気がする。色だけだが。
 夏梨はじっと子犬を見つめた。
 緑の目が、少しだけあの彼の瞳に重なる。たぶん先程、あのときのことを久しく思い出したからだ。
 子犬もきょとんとした風情で夏梨を見返して来ていた。
 一分ほど見詰め合って、夏梨は小さく「よし」と呟く。
「ね、あんたこれから行くあてある?」
 当然だが答えはない。子犬は小首を傾げて、しゃがんだ夏梨の頬に顔をすり寄せた。
 それに夏梨は笑う。
「ないならあたしのとこおいでよ。……まあおいでって言っても、あたしもまだここ来たばっかなんだけど」
 でもさ、と子犬の頭を撫でた。
「こんなとこだ。一人より二人のが心強いし。ちっさい者同士、たくましく生きようぜ」
 それは本心だった。やはり見知らぬ土地に一人というのは心細い。
 夏梨の言葉に肯定を返すように、子犬は「ロウ」とまた鳴いた。
 ほっこりと胸が温かくなる。わけもなく安心して、夏梨は笑う。
「じゃ、とりあえず、食べ物探しながらあんたの名前決めようか」

 そう声をかけると、心なしか嬉しそうに子犬が鳴いたような気がした。


***


「ポチ」
「ろー」
「チビ」
「ろー」
「クロ」
「ろー」
「じゃあタマ」
「ガウっ!」
「なんだお前、そういう犬っぽい声ちゃんと出せるんじゃん」
 山の中を一人と一匹で並んで歩きながら、夏梨と子犬はそんな応酬を繰り返していた。
 二人が目指すのは食料。そして水。ついでに歩きがてら子犬の名前を考えている。
「何がいいんだよ、もう」
 どうやらこの子犬には名前の好みがある、というか夏梨の言葉が正確にわかっているような素振りがあった。例えば安易な名前は嫌で、非常に気のない唸り声で返す。何か話しかけると態度か鳴き声で必ず相槌をくれる。言葉はないのに、一緒にいて会話しているような気になった。
「ところで、この先本当に水あるの?」
 小さな足でちまちませかせか歩く子犬に再度訊ねる。先程夏梨が「この山に住んでるなら水の場所くらいわかる?」と聞いたら任せとけとばかりに歩き出したので、それに着いて行っているのだ。
 子犬はロウ、とフクロウのような妙な鳴き声で答える。たぶん肯定だった。
「じゃあま、よろしく」
 都会育ちの夏梨は山歩きなんてほとんどしたことがない。あてもないので、子犬についていく。たかがいたいけな子犬一匹。だが、意外なほどに心細さは消えた。
「で、あんた名前何がいいのさ」
 ため息まじりに話を戻せば、子犬はやたら「ローローロウ」と鳴くが、さっぱり不明である。だれか翻訳してほしい。
 だがそれも無理な話なので、もう夏梨は聞いたままに返してみた。
「なに、ロウ?」
「ロッ!」
 子犬が瞳を輝かせて夏梨を見上げた。何だかとてもきらきらした目をしているような気がする。
 ビンゴなのだろうか。
「……何、まんま『ロウ』でいいわけ?」
「ロッ! ロロウ! ロー!」
 子犬はくるくる回って、ついでに夏梨の足にまとわりついた。喜んでいる、と見ていいのだろう。尻尾がものすごく高速で動いて周りの草を揺らしている。
「あー、もう、はいはいわかった! わかったから落ち着け!」
 むんずと子犬の首根っこを掴んで持ち上げる。それでも子犬は嬉しそうに尻尾を振っていた。表情はおそらく、満面の笑み。のような気がする。
 どうやら、決まった。
 緩みきったその子犬の顔に、ぷっと夏梨は噴き出す。そして子犬を抱きしめた。
「じゃあ決まりだ。お前の名前は今からロウ。あたしは夏梨だ。よろしくな」
「ロウ!」

 かくして、夏梨の相棒ロウがここに誕生した。


***


「ロウ……あんた天才かも」
「ロ!」
 だろう! とばかりに子犬は胸を張った。ように見えた。
 もう空に夕暮れが迫る頃、夏梨とロウは約半日山を歩き続け、小さなせせらぎに辿り着いていた。
 山の斜面を上ったり下ったり、現在地は既によくわからない。けれど今は、飲めそうな水が目の前にあることで十分だった。
 何しろ朝から飲まず食わず。空腹もさることながら、喉の渇きも半端でない。
 それでも夏梨が慎重に水を眺めていると、ロウはことりと首を傾げて、おもむろにせせらぎの水を飲み始めた。
「……いける?」
「ロウ!」
 頼もしい相棒である。
 夏梨は両手で水をすくい上げて、一口こくんと飲んでみた。山の水特有の冷たさを保った水が、喉を潤すのがよくわかる。
 水ってこんなにおいしいものだっけ。そんなことを考えながら、夏梨とロウはしばらく水を飲み続けた。
 その上にある空は、徐々に徐々に夕暮れに染まり、端から少しずつ夜の色が滲み出てきている。
 喉を潤し、しかし未だ変わらぬ空腹を抱えて夏梨は空を見上げた。
「……今からどうしようかなあ」
 問題は山積みだ。
 まず第一に、死神の学校へ入るための試験がいつどこで行われるか、それを知る必要がある。否、いつかは初っ端に会った死神に教えてもらったから、四月の頭というのは知っている。なら、今はいつか。どうやら現世と季節も変わらないようだから、同じく三月の頭だと思っていいのだろうか。
 そして何より、それまで生き延びることに全力を尽くさなければならない。ついでに訓練もしたいが、たぶんここならやりたくなくても実践の機会はいくらでもあるだろう。
 となれば。
「やっぱ、ごはんと寝るとこだよね」
 一人ごちて、夏梨はせせらぎのそばに座り込んでいた体勢から立ち上がる。
「ロ?」
「ロウ、あんたこの場所覚えられる? 次も来れるように」
「ロウ!」
「よし。じゃあ行こう。早いとこ寝床見つけないと、夜になるから」
 そうして、夏梨とロウは再び歩き出した。






 夜が来た。
 夏梨は初めて知ることだったが、山の夜は不気味なほどに静かだ。
 否、音はある。葉ずれの音や、野鳥の声はする。けれど、それらはどこまでも「静」なのだ。あくまでも静の中にあって、「動」ではない。
「……静かだ」
 ぽそりと呟けば、足元にふわりと暖かなぬくもりが擦り寄ってくれた。それに夏梨はいくらかほっとする。
 夏梨とロウは、しばらく前に見つけた小さな洞窟にいた。そばには枝と枯葉を集めただけの簡易な焚き火がある。火元は鬼道だ。いくら三月とは言えまだ寒さは色濃く残っている。薄い着物一枚では、さすがに寒い。
 頼りない焚き火をどう強くするべきか、と夏梨は拾い集めてきた焚き木をごそごそとする。そのそばから、ぐう、とお腹が鳴った。
「……さすがに野苺だけじゃ、もたないな」
 苦笑して呟く。洞窟を見つける道すがら見つけた野苺をとりあえずの食料としてみたのだが、やはり足りない。
 明日はもう少しまともな食べ物を探そう、と心に決める。だが今は空腹より、疲労から来る眠気のほうが強くなりつつあった。慣れない山歩きは知らず体にこたえたらしい。
「ロウ、おいで」
 ぐいぐいと目を擦りながら、夏梨は子犬を呼び寄せる。
 ロウはとてとてと歩み寄って、首を傾げてからぴょいと膝に乗った。夏梨はそれを抱き上げて、ごろりと落ち葉を敷き詰めた地面に横になる。気分の問題かもしれないが、ただの土の地面よりかは暖かく感じた。
 こんなふうに一人で夜を過ごすのは初めてだった。
 家ではいつも隣に遊子がいたし、空腹を持て余したまま眠ることもなかった。誰か近くにいるのが当たり前で、暖かな布団があることも、食事も当たり前のものだった。
 けれど今は、そうではない。
 しあわせな場所にいたんだ、と今更ながらに思う。思い返したら唐突に寂しさがこみ上げてきて、慌てて俯くと同時にロウの毛並みに顔を埋めた。
 わふ、とくぐもった声が聞こえてくる。心細さがいくらかましなのは、この子犬がいてくれるからだ。もしロウがいなければ、一人でこの夜を過ごさなければならなかった。
 ありがとう、と声にはせずに呟いて、ふと甘い香りが鼻につく。何かの花のような香りだ。花なんか近くにあったろうかと顔を上げるが、するとしかし香りはしない。首を傾げてまた体勢を戻して、その香りが子犬からしていることに気づいた。
「なんか、あんたいい匂いするね。もともと?」
「ロ?」
「まあいいや。にしても肌触りいい毛並みだね。これであんたがもうちょっと大きかったら、あったかくてよかったのに」
 夏梨がそんな無理を言えば、ロウはどこか困ったふうに唸る。ごめんごめん、と頭を撫でて、夏梨はロウを抱き締めたまま、小さく丸まった。
 うとうとと瞼が落ちてくるのがわかる。それに逆らわずに、夏梨は小さな声で呟いた。
「おやすみ」

「ロウ」=オリジナルキャラ
※タイトル変更しました。「Marmelo」改め「Vox」。読みは『ヴォクス』。
[2009.11.08 初出 高宮圭]