Vox

-ロストチルド・ライド-

07 : いきること

 声がする。

 ――キコエルカ、きこえるか、聞こえるか。

 ああ、そんなに何回も言わなくたって聞こえている。ずっと、聞こえていた。
 胸の中心に落ちてくる、その声。
 夢の中で夏梨に死の予言を告げ、死神になれと言った、その声。
(また、あんたか)
 まだ浅い夢の中で、夏梨は応えた。映像はまだ浮かばない。薄い暗闇が少しずつ開けて行く。夢に意識が入り込む。黒の霧が晴れて行くようにして、その場所は現れた。
 青々とした初夏の草原がある。けれど至る所に咲いた花は四季がめちゃくちゃで、見たことのない巨大な花も咲き誇り、甘い香りが風に煽られる。統一感のない、けれど爽やかで甘やかな空間がそこにあった。
 夏梨はその場所に立っていた。今までは見るだけだったその風景の中心に、確かにいた。
(聞こえるか?)
 ―― ああ、聞こえる。今までよりずっと近くに。
(そこにいるか?)
 ―― あたしは、ここにいる。
 そう答えた途端に、強い風が花びらや草葉を舞い上げた。くるくると色とりどりの花びらが舞う。
 くるくる、くるくる。
 回って回って、逆さまになり、姿を変える。

(ありがとう)

 とても嬉しそうな響きの声が、あたたかいものが、全身を包み込んだ気がした。


 甘い香りがまだ、残っている。
 夏梨はぼんやりと目を覚まして、感じた香りにそう思った。
 あたたかい。
 いいにおい。
 寝ぼけた頭で、それを追いかけるように寝返りをうつ。――すると、柔らかくてふかふかした、あたたかいそれが、包み込んでくれた。
(気持ちいい)
 ――などと思ったのもつかの間、夏梨はふととんでもない違和感に気づいて、文字通り飛び起きた。
「なんで……っ」
 ここは流魂街の山中のはずだ。申し訳程度の枯れ葉のベッドがあたたかいわけがない。ふかふかなはずも、柔らかなはずもない。体が痛くなることはあっても、気持ち良く眠れる寝床などではなかったはずなのだ。
 そう思って、ばっと自分が今まで寝ていた場所を見て――原因は知れた。けれど同時に驚きすぎて固まった。
「は……っ!?」
「ロウ?」
 きょとんと首を傾げて犬が鳴いた。その特徴的な鳴き声は間違いなく夏梨が拾った子犬のもので、見た目もロウで間違いない。
 けれどただ一つ、大きさだけが違っていた。
「何……ロウ、あんたなんで大きくなってんだよ!?」
 眠る前は胸にすっぽり収まるほどだった子犬は、今や反対に夏梨をすっぽり包み込めるほどまでに大きく成長していた。
 かわいらしい雰囲気が強かった顔は凛々しく、犬らしく――というよりは狼じみた顔になり、くるくる丸まっていた尻尾は長くて美しい。足もそれはたくましく、鋭利な爪が見えるし、口元からも凶暴そうな牙が見えていた。
「ロロウ?」
 だめ? とでもいいたげに首を傾げる動作は可愛いのだけれども。
「だめってことはない……けど……な、何事だよ……」
 尸魂界ではこんなこと珍しくないのだろうか。尸魂界に来てようやく二日目の朝を迎えた夏梨にはわからない。
 夏梨がまだ呆然と大きくなったロウを見上げていると、ロウは不意に立ち上がって、ひょいと空中へ跳躍した。そしてくるりと一回転して――次に地面に降り立ったときには、拾ったときの大きさに戻っていた。
「……、……いや、いやいやいや待ってよあんた」
 夏梨は思わず頭痛を堪えるように額を押さえる。
「大きさ自在なわけ!?」
「ロウ!」
 おうともよ! と言ったように聞こえた。
 もう夏梨は突っ込む気力さえ起きない。しばらく沈黙して、深く息をついた。
「……もう、いい。突っ込まない」
 これはもう、深く考えたら負けだ。そう思うことにして、夏梨は存外楽に眠れたせいか、思ったよりも軽い体で立ち上がる。
 洞窟の入口から、爽やかな朝の空気と朝日が差し込んできていた。
 それを見てから子犬の姿を取ったロウを見下ろして、夏梨は体を伸ばす。
「おはよ、ロウ。……とりあえず、ごはん探そうか」



***



 ひらひらと黒い蝶が舞い寄って来る。
 それを指に止まらせた地獄蝶の世話係の隊員は、蝶が伝えた伝言に、慌てて再び蝶を放した。
「おい、何やってる。全部籠に戻さないと……」
「たっ、隊長からの伝言です。『山に行く』とのことで、副隊長にまで伝えろと……」
 それに、注意をした先輩隊員のほうもぎょっとした顔で、「そ、そうか」と頷く。隊長、副隊長が誰かと言うのは、自分たちの隊ゆえに名を出さずともわかる。だからこそ、緊張した面持ちを隠せなかった。
「……最近多いですね、隊長の個人遠征」
 ぽつりと地獄蝶の世話係の隊員がもらす。
 山に行く、というのは実はその言葉通りではない。個人の遠征に向かうとき、彼らの隊長は『山へ行く』と言うのだ。隊長自らが出向かねばならぬと判断された戦地へ。
「まだ空間の『ひび』は直りきっていない。……それだけの敵が出る可能性があるからこそ、うちの隊長も他の隊長格も出ずっぱりだ」
 まあ、と隊員はため息をついた。
「十番隊の隊長副隊長が不在で隊の動きが通常より悪い、かつ十一番隊の実質的な仕事をしてた席官の人たちがいないってことも原因なんだろうが……。文句も言ってられない。日番谷先遣隊はかなり少数で現世の対処に当たっておられるからな」
「そうですねえ……。まあ、僕ら下っ端平隊員になんか、できることなんてないんですけどね」
 半ば無意識に虚しいことをあっさり言い放った後輩隊員だったが、事実ゆえに先輩の隊員も何も言えない。
「……北流魂街の、山」
「え?」
「いえ、さっきの地獄蝶の伝言で、そう言ってて。……北流魂街でそんなにひびが酷いところって、ありましたっけ?」
「北流魂街は特にひびが多いから、特定は難しいな。だが……黎霊山の辺りは、特に酷いらしい」
「れいれいざん? ああ、尸魂界の五名山の一つの」
 ああ、と先輩隊員は頷く。五名山とは、名の通り尸魂界で素晴らしいと名高い五つの山だ。自然豊かで美しく、だが険しいと聞く。
「じゃあ隊長、今回は本当に山に行ったのかもしれないんですねー」
 何気なく隊員は言って、ほとんど見えなくなりつつある地獄蝶を目で追った。

 地獄蝶はひらひらと、優雅に空を飛んで行き、やがて、空の青に紛れて消えた。



***



 ――世の中そんなに甘くない。
 夏梨はそれを、嫌というほど思い知っていた。
 空は既に夕暮れ。辺りは薄暗くなりつつある。意味もなく、今何時だろうと考えた。
 結局今日一日、食べ物を見つけることはできなかった。
 小さな木の実はある。だがほとんど腹の足しにはならない。動物もいるが、夏梨に捕まってくれるものはいなかったし、たぶん捕まえても食べるなどできないだろうこともわかっていた。かと言って、小さなせせらぎには魚などいない。
 空腹は過ぎると何も感じなくなるらしく、今はとりあえず平気だ。だがこのままではすぐに体が持たなくなるのは目に見えている。
「あーあ……どうしよう……」
 思わず独り言を呟いて、夏梨は疲れた体をごろりと横にした。すかさずロウが傍らに寄りそう。どうやらくっついているのが好きらしかった。
 と、洞窟の外がずんと一気に暗さを増した。どうやら、天気が崩れようとしているらしい。今のうちに焚き火を起こしておこうと、雨が吹き込んでも濡れない場所に焚き火を作ることにした。とは言えあまり深くない洞窟なので、場所も限られているのだけれども。
 グルル、とロウが不穏な唸り声をあげ始めたのは、焚き火を作り終え、摘んで来た野苺で腹を慰めているときだった。
「どうしたの、ロウ?」
 その鳴き方は明らかに敵に対する威嚇の声だった。ロウは洞窟の外を睨んで、唸っている。
「何かいるのか?」
 まさかまた、あの血に狂った男たちのような。
 それを危惧して、夏梨は注意深く洞窟を出た。狭い洞窟に入られてはかなわない。

 そしてまさに、その途端だった。
「ああアアァッ!!」
 声をあげて、躍り出た男がいた。手には刃こぼれのした、刀がある。
 咄嗟のことだったが夏梨は一瞬でそれを見極め、後ろに距離を取った。だが下がったそちらからも斧のような刃物が付き出されて、着物の裾を少し裂いた。
「くそ……っ! こんな山にまでっ」
 だてに夜一に咄嗟の反応を鍛えられていない。気配を探りながら、前後を囲まれた状況をどうするか考える。
 だが反応を決めるその前に、一方の男に踊りかかった陰があった。
「ロウ!!」
 姿を大きく変えたロウだ。背後のほうにいた男に狂暴な牙をむいている。
 それに触発されたように、もう一人の男が夏梨に斬りかかって来た。毒づきながらそれを避ける。
「破道の三十一、赤火砲!」
 避けざまに鬼道を放つ。それは見事に命中し、男は呻きながら倒れた。だがまた新たな気配を感じて振り向く。やはり新たに現れた男がいた。目は血走り、至るところに返り血があり、ぶつぶつとずっと何か呟いている。そしてその後ろからも、周りの薄闇に紛れるように異様な者たちがいるのがわかった。
 老若男女関係ない。誰もが血に飢えたような赤い目をしていて、まるで毒を吐くようにずっと呟いている。
「殺したい殺したい殺したい殺シタイ殺シタイ殺シタイ殺シタイ――」
 おかしい。
 いくらなんでも、おかしすぎた。
 ここがどんなに血に飢えた者の集まる地であっても、ここまで盲目的に誰かを殺そうとするだろうか。昨日まみえた男たちにはまだ、戦いたいという意志があるように見えた。けれどここにいる連中には、それがない。ただあるのは、殺意だけだ。
 まるで機械的に、何かを殺したがっている。
 四方から刃が襲ったのは、夏梨がその殺気に呑まれた一瞬だった。腕を、足を、頬を、腹を切られる。
「ぐっ……!!」
 相手には得物があり、こちらは素手。しかも多勢に無勢とは、不利も不利だ。
「――ロウ! 来い!!」
 夏梨は声を張り上げて、瞬歩を使った。一瞬遅れて、ロウが傍らに現れる。だがすぐ、追ってきた人影もあった。
 今度ばかりは逃げられないことはわかっていた。とりあえず、どこか戦いやすいところに移動するつもりだ。
 夏梨は傷ついた体をずる、と引っ張る。するとロウが鳴いて、不意に夏梨の襟元を咥えると、ぽいっとそのまま自身の背中に放った。
「うわっ、ロウ?」
 咄嗟にロウの背中にしがみつく。それと同時に、ロウが駆け出した。夏梨は突然のことにとりあえず振り落とされないようにするのが精一杯だ。首に金属質の首輪みたいなものがあって助かった。
 障害物の多い山の中を、闇に紛れながらロウは器用に駆けていく。
 そしてロウが止まったのは、どうやら山頂の開けたところだった。
「……ここで、思う存分戦えって?」
 ロウの背中からずるずると下りた夏梨は、問いかけに肯定するように唸った大きな犬――というよりは狼を見る。
 漆黒の狼は暗闇の中でもはっきりと見える美しい緑の瞳を持ち、いっそ神秘的に見えた。
 ざわざわと木が鳴っている。あの血に飢えた連中が追ってきているのだ。それはわかったけれど、不思議と心は落ち着いていた。
「きれいな、目だね」
 すいと手を伸ばして、柔らかな毛並みに触れる。澄んだ緑の目は、まっすぐ夏梨を映していた。
 その瞳と、似た色を思い出す。――何度となく守ってくれた、その色。
 強くて、鮮やかで、安心する、その色。
「……うん」
 緑の輝きを見つめて、夏梨は頷いた。ぐいと頬の傷を拭う。
「あきらめないよ。あたしは絶対、生き延びて、死神になる。誰かを、守れるようになる」
 斬られたところ全てが痛かった。深くもないが、そう浅くはないらしく、血が流れる感触が止まらない。
「あたしまだ、あんまり強くないよ。武器だってない、鬼道もそこまで使いこなせるわけじゃない。怖いし、痛い。たぶん今は、あんたのほうが、強いよね」
 でも、と夏梨はロウの首にぎゅうと抱きついた。
「絶対強くなる。一兄みたいに――冬獅郎みたいに、強くなる」
 そして、緑の目に、至近距離で目を合わせた。痛みを堪えて、笑ってみる。
「宣言だよ。――今から絶対死なないって、あたしの覚悟」

 ―― 『覚悟を持ってください。斬るならば斬る。守るなら守る。そして、必ず生きることを』

 浦原が言った言葉を思い出す。

 ―― 『それができなければ、死ぬだけです』

 だったら、やってやる。
 何がなんでも生きのびて、強くなる。
 風が吠えた。木が騒ぐ。殺気めいた足音が近づく。
 だがその音が、不意に掻き消えた。
 唐突に視界が開け、足元から沸き出るように光の粒が溢れる。淡い緑色の光の粒は夏梨とロウの周りだけに円を描いて沸いており、光の粒の壁となって、全てのものの進入を拒んでいた。
(――武器が無いなら、牙を成せ)
 頭に響いた声に、夏梨ははっとした。それが何の声か、何故かわかった。
 真っ直ぐに見据えてくる緑の瞳に、視線を合わせる。
(臆したならば、自らを穿て)
 漆黒の大狼は、その鼻先を夏梨の足元に寄せた。そして目だけを上げて、夏梨を見る。
(力が足りぬなら、俺を呼べ)
 鋭く美しい眼光はとても狂暴で、しかし慈愛に満ちていた。
(幼き我が主よ。我が声を聞く者よ。お前がその覚悟を失わぬ限り、お前と共に俺は在ろう)
「ある、じ……?」
(花は灰に。刃は花に。地を詠い、空を堕とせ。光が届く限り、全ての事象はお前の定義に頭を垂れる。――失われた声を、聞け)
 ごう、と光の粒が空に吸い上げられるように立ち上る。夏梨はその中心部にいた。
 痛みはない。血も止まっている。ロウの声が、聞こえる。
 なんだか、よくわからない。それが本音だ。
 けれど、わかったこともあった。
「あたしと一緒に、戦ってくれるんだね。ロウ」
 ロウは夏梨の頭の倍ほどもある大きな頭を、その体にすり寄せた。ふわりと甘い香りが広がって、首にある白と黒の丸い飾りが、まるで枝から落ちる花のつぼみのように取れる。
 両手のひらより少し大きいそれは、まるでサッカーボールのようだった。
(牙を成せ、夏梨。お前には力が無い、牙が無い。だがだからこそ、成せる。――さあ、廻せ!)
 ロウの声が体中に響く。光の粒が白黒の球を包み込む。
 同時に光の壁が弾けた。周りにはりついていた血に飢えた者たちがなだれ込んでくる。
「――行くよ、ロウ!」
 夏梨は光る球から、それを引き抜いた。柄もつばもない、真紅の刀身。
 何のためらいもなく全てが刃のそれを掴んで、夏梨はロウと共に駆け出した。
 刀身から、霊圧が迸る。斬撃は霊圧を呑んで肥大化し、刃に伴って敵をなぎ倒す。
 ロウは吠えて敵を硬直させ、そこを鋭い爪で容赦なく引き裂いていく。
 剣戟と叫び、そして赤と黒。その中にいて、夏梨は相反する二つの自分を感じていた。
 生きる。
 ただそれだけのために牙を振るう。何かを奪う。
 戦う。
 敵を倒すその悦びを、恐怖を塗り替えるほどの強さで感じる。
 けれどそれが怖くて、牙を離したくなる。
 それでも。

「負ける、もんか……ッ!!」
 声を出すと、同時に嘔吐感がこみ上げた。その場にずるずると座り込みながら、吐く。
 いつの間にか、辺りはすっかり闇に包まれて、雨が降り出していた。
 夏梨とロウの他に動くものがなくなった山頂を、洗い流すように打つ。
 ぜいぜいと肩で息をしながら、硬く握りしめていた赤い刃を取り落とす。すると刃は花びらになって消えた。けれど握っていた両手は、切れてずたずたになっている。確かに夏梨が刃を振るった証拠だった。
 無性に泣きたかった。
 小さな子犬の姿に戻ったロウがすり寄ってくれる。けれど、そのぬくもりにすがることはしなかった。そして泣くこともまた、しなかった。
 ただ、叫んだ。
 言葉にならない、悲鳴のようながむしゃらな叫びは夜の山に響き、やがて雨の中に溶けるように消えた。


***

 暗闇の中、彼は山頂に辿り着いた。手元には鬼道を光源にした明かりがある。
 突発的な霊力の爆発で、新たに空間にひびができたためだ。山頂の上空には今、裂け目ができつつある。
 その原因は何かと思っていたところで、その光景を目にした。
 山頂には、戦いのあとがあった。幾人もの老若男女が倒れ伏し、見開かれた目には異様な暗い輝きがある。その中でまだかろうじて動けた者が不意に彼に踊りかかったが、一撃で斬り伏せられた。
 その一撃で、彼はこの場に倒れた者たちが血に狂っていたことを察した。
(哀れな)
 雨の中の惨状を見渡して、彼はふと動いているそれを見つけた。
 犬だ。
 一匹の子犬が、傷だらけで倒れた小さな子供を守るように、その傍らで彼を威嚇していた。
 始め、子供は死んでいるかと思われた。だがどうやら、生きている。
 彼は静かに子供のそばに膝をついた。子犬が牙をむく。しかしその鼻面を一つ叩くと大人しくなり、子供を案じるようにうろうろと歩き回る。
「大丈夫じゃ。任せておけ」
 そう言ってやると、子犬はじっと彼を見つめ、やがてぱたりと倒れた。どうやら、気を失ったらしい。
 彼は子供を抱き上げ、子犬も抱えて、それからふと思い出したように空を見上げた。
 空の裂け目からは、巨大な虚が顔を覗かせている。
 ふむ、と彼は呟いて、子供と子犬を片手に抱き直すと持っていた杖を抜いた。同時に、雨すら焼き尽くす炎が空を駆け、一瞬で虚を消し去った。

 彼は空の裂け目が閉じるのを確認し、刀を杖として納めると、子供と子犬を抱えて、山頂を後にしたのだった。

[2009.08.09 初出 高宮圭]