ぱちぱちと薪が爆ぜる音で、夏梨は目を覚ました。
岩肌の天井が目に入り、頭を傾けると甘い香りがする。その覚えのある香りに、意識が覚醒へと導かれた。
「ロウ……?」
呟いて見ると、胸の傍らにぴったりとくっついて眠っていた子犬姿のロウが途端にぱちっと目を開いて、ぶんぶんと尻尾を振りながら体を摺り寄せてくる。
まるで心配したと言いたげなその動作に、その小さな体を抱いて体を起こした。
そして辺りの景色を見渡して、きょとんとする。
どうやらここは岩造りの洞窟か何かだ。だが、明らかに人の手が加えられていた。薪が爆ぜているのは壁際にある暖炉の中で、壁には二箇所に照明となるランプのようなものがかけられている。
「ここは……」
驚きながらずり、と手をついて、今まで自分が寝ていたのが藁と毛皮でこしらえられた寝台だったことがわかった。丁寧に布団代わりの毛皮もある。
いったい何がどうなって、と混乱を持て余していると、人の気配がした。だが、敵意はない。気配にだけは寝ていても気づけと叩き込まれた所以で、わかる。
どうやら出入り口らしいところを見ていると、そこから現れたのは落ち着いた色合いの着物を着たひげの長い、杖を持った老爺だった。
「起きたか。調子はどうじゃ」
「あ……大丈夫、です……」
「それは、何よりじゃ」
老爺はしわがれた優しい声で言いながら夏梨が座る寝台のそばに来た。彼が近づくと、ふわりと何ともすきっ腹を刺激する良い匂いがした。それはどうやら彼が手に持つお椀からしている。
食べ物。わかった瞬間に、情けない音が腹からした。
すると老爺は朗らかに笑った。
「ほっほっほ、さ、食べるといい」
「……い、ただきます」
差し出されたお椀を受け取って、箸も受け取る。湯気の立ち上るそれはどうやら味噌でよく煮込まれた汁物だった。一口汁を飲むと、とろみのついた濃い味噌の味が広がる。中に入っていた野菜や肉にもよく味がしみていて、特に肉は噛むと口の中で肉汁が絡んで絶品だった。
ほとんど三日ぶりの食事は、どんな馳走も叶わないと思うほどに美味しく、夏梨は一度も箸を休めることなく食べてしまった。
ごちそうさまでした、と一息ついたところで、いつの間にか寝台の下でロウも食事を貰っていたことに気づいた。どうやら相当夢中だったらしい。
「あの……ありがとうございました」
少し恥じ入りながら老爺を見ると、腰掛に座っていた老爺は相変わらず朗らかな表情で「元気そうで何よりじゃ」と言ってくれた。それに照れ隠しで少し笑いながら、夏梨はまだ晴れない戸惑いを口にする。
「おじいさん、あたし、なんで……ここ、どこ?」
「昨夜、山頂でお前を拾った。ここは黎霊山にある儂の隠れ家じゃ」
れいれいざん、というのはこの山の名前だろうか。
そんなことを一瞬思ったが、すぐに山頂、という言葉にびくりとした。その反応を見て取ったのだろう、老爺は俯いた夏梨の頭を静かに撫でた。
「……お前が見たのは、血狂いの者たちじゃ。連中は虚の霊圧に影響されて、自我を失い血に狂っている。ああなっては殺すしか手はない。放っておいても共に殺し合う。……あんなものを見ては、気を失うのも仕方あるまい」
老爺は宥めるような口調で言う。それで、夏梨はわかった。
(あたしがやったと、思ってない)
おおかた、偶然その場に居合わせて巻き込まれ、気を失って命を取りとめた運のいい子供ぐらいに思っているのだろう。――けれどそれは、違う。
「あたしが、やったの」
老爺が頭を撫でる手を止めた。
夏梨は俯かせていた視線を上げて、老爺を見る。
「あの人たちを倒したのは、あたし。……この子と、一緒に」
ロウを見下ろすと、ロウはひょいと寝台に上がって夏梨の膝の上に乗った。そして肯定するようにロゥ、と鳴く。
老爺はゆっくりと表情を驚愕に変えた。そしてしばらく黙ってから、「なるほど」と低く呟いた。
「それで、あの傷か。治すには少々骨が折れたぞ」
驚いたのは夏梨だ。
「信じるの?」
「力の強さは、必ずしも体の大きさには比例せぬ。……何より、顔を見ればわかる」
そう言うと、老爺は腰掛から立ち上がる。
「動けるなら、ついて来ると良い」
老爺は洞窟を抜けた。共について行った夏梨が出た、ではなく抜けた、と思ったのは洞窟が驚くほど大きかったからだ。夏梨が寝かされていたのは寝室として使われている小部屋のようで、そこを出ると居間の代わりをするような広い、これもよく手を入れられた空間があった。そこからいくつか通路があり、老爺はそれぞれに食料の保管部屋や奥に泉がある場所などを教えてくれた。うっかりすると迷いそうなほどだ。
だが老爺は隠れ家と言うだけあって迷わず道を選び、外に出た。
外はどうやら昼過ぎくらいだった。相変わらずの山の景色が広がっている。
だが、夏梨はその平和な風景の異常にすぐ気づいた。
「あれ……」
青い空に、不自然な黒のひびがあった。現世にいたころにも見た覚えがある。――あれからは、虚が出てくる。
「見えるか。よい目をしておる。……少々、下がっておれ」
老爺はそう言うと、持っていた杖を、『抜刀』した。杖が、見る間に刀に姿を変えたのだ。
下がれと言われずとも、下がらずにはいられなかった。それほどまでに凄まじい霊圧が、老爺から発せられていた。
同時に、空のひびから巨大な虚が顔を覗かす。いつか虚の大群に追われたときに見たことのある、鼻の高い能面のような仮面の、異質な虚。それが三体ほど、ひびから出てこようとしていた。
「じいさん!!」
あれは、まずい。声をあげるが、老爺は夏梨を一瞥して、朗らかに笑った。
「この霊圧を受けてなお顔色一つ変えぬか。ふむ……童子(わらし)よ、気を失うでないぞ」
言ったかと思うと、老爺の持つ刀が一瞬で炎を帯びる。それを一振りすると、三体の虚が出てくるより早く、それらは一瞬で灰燼と化した。
夏梨は熱風と巨大な霊圧に思わず膝を折りそうになった。だが、ロウがさっと夏梨の前に出ると、姿を大きなものへと変える。途端に、吹き付ける霊圧と熱風が甘い香りをまとう軽い風になった気がした。
老爺が刀を片手に振り向く。その一瞬前にロウもぽんっと器用に子犬の姿に戻った。
夏梨は老爺のもとまで駆け寄る。
「じいさん、あんた死神なのかよ!?」
「ほう、わかるか。じゃが、話は後じゃ。――血狂いの連中が来るぞ」
老爺の言葉の通り、昨夜も見た自我を失い、血走った目の者たちが四人、どこからともなくゆらりと現れた。
「こいつら、どこから……っ」
「先程も言ったが、こやつらは虚の負の霊圧に呑まれた者たちじゃ。最近は虚が頻出するせいで、血狂いになる者が増えておる。――気をつけろ、こやつらは何かを殺すことしか考えておらぬ」
そんなことは、昨日の戦いでわかっていた。けれど、老爺が構えるのを背中で感じながら、体が固まって動かない。
こわい。
昨日も感じたその感情は、今のほうがもっとずっと強かった。
怖い。きっと戦えば勝てる。それはわかる。わかるからこそ、怖い。勝ってしまう――殺せてしまう。それが、わかる。
(あたしの覚悟あんて、こんなものか)
情けない。なんて弱い。でも、怖い。
体が震え出す。同時に吐き気がこみあげてきて、それをきつく唇を噛みしめることでやり過ごす。
「隠れておれ」
「え……」
老爺が背中を向けたまま口を開いた。
「まだお前は幼い。じゃが儂が山頂で見た惨状を引き起こすだけの力が本当にあるなら、その力は幼くあることを許しはせぬ。幼くあることは、罪ではない」
罪ではない。つまりそれは、幼くあれば何も背負わなくてもいいと、そういうことだろうか。昨夜のあの力も、子供の過ちで終わるのだろうか。このまま怖がって、身を縮めて、守ってもらうことで。
それで、いいのか。
「……そんなの、嫌だ」
きつく、手のひらを握り締めた。昨日牙を振るったことでずたずたになったはずの手のひらは、老爺の治療のおかげだろう。跡形もない。
「あたしは、もう絶対死なないって、決めたんだ。絶対あきらめない、絶対強くなる。守られるばかりじゃなくて――誰かを守れるようになるって、決めたんだ!」
腹から叫ぶと、足元にいたロウがその声に応えるように姿を大きく変えた。
老爺はその変化を、振り向くことなく正確に読み取った。
(儂の霊圧をこれほど近くで受けても畏れず、内なる恐怖をもその覚悟で打ちのめす)
――これは、とんでもない原石を拾ったかもしれぬ。
老爺は、口の端を嬉しそうに持ち上げた。
(そしてこの、並ならぬ霊圧)
育てれば、どこまで伸びるか。
「ならば、戦場において子供であることをやめろ。力を持つ者として、一切の責任を担うことをも覚悟せよ。ためらうな、だが常に思考せよ。自らの振るう力を理解し、成すべきことを見失うな。――戦うとは、そういうことじゃ」
子供であることをやめろ。
その言葉は、夏梨の中に真っ直ぐに響いた。戦場において、子供であることは何をし、される理由にはならない。守られる理由にもされたくない。
強くなる。戦う。
それを決めたなら、ためらうことは許されないのだ。
ロウが鳴いた。空を突き抜けるような、澄んだ、けれど力強い声だった。
それに負けじとするように、夏梨も声を張り上げた。
「――行くよ、ロウ!」
***
「浮竹隊長ー! 日番谷先遣隊からの定期報告入りました」
「おお、そうか。ありがとう、清音」
報告を受けて、浮竹は通信室に向かった。
対破面戦の終着後、日番谷先遣隊が現世の対処にそのまま当たることになってから、隊長副隊長が揃って不在になる十番隊の代理指揮を浮竹が担っている。実質的に執務をする者がいなくなった十一番隊は、射場が馴染みの所以で何かと面倒を見ていたりしている。ただし浮竹はしょっちゅう臥せるので、十三番隊副隊長の二人を始め、京楽や七緒が支援したりしてくれていた。
そんなわけで、定期的に入る報告も浮竹が受けているのである。
通信室に入ると、設置された画面に映像通信が映し出されていた。
「久しぶりだなあ、日番谷隊長! 元気かい?」
『相変わらずだな、てめえは……。元気かはこっちの台詞だ。こないだの定期報告では臥せってるって京楽が出てたじゃねえか』
呆れた風情の日番谷が、画面の向こうでため息をつく。
「はっはっは、大丈夫だよ、ありがとう。……さて、それじゃあ報告を聞こうか」
『ああ。……現世のひびは、あらかた補修は済んだ。ただ、虚圏にも異常があるってことが確定された。どうやらあっちにでかいひずみがあるらしい。黒崎一護を含める死神全員でその確認と補修に向かう』
「町の守りは?」
『浦原と四楓院、黒崎以外の現世の戦力は置いて行く』
「なら、問題ないだろう。……その人数でそれだけの範囲を対応するのは大変だろうが、こちらも手が足りていない状況でな。にしても、一護くんも虚圏のほうに行くのは意外だな。町のほうに残ると言わなかったのかい?」
浮竹が何気なく訊くと、日番谷は若干表情を曇らせた。
『……動いていてえんだろ、余計なことを考えないように』
「何か……あったのかい?」
人のことを言うにはには暗すぎるように思える日番谷の表情に、浮竹は引っかかりを覚えつつ問い返す。
『このあいだ、黒崎の妹が事故で死んだ』
思わず、返す言葉に迷った。それは軽く流せる話でもない。
「……一護くんは」
『二週間ほど動かなかった。……今は、バカみたいに働いてる。どっか吹っ切った様子だが、本調子ではなさそうだ』
「そうか……」
それでなくとも、幼い頃に母を亡くしている一護は家族思いだ。簡単に吹っ切れる問題ではないだろう。
「――知り合いだったのかい?」
訊ねると、日番谷は何の話だとばかりにきょとんとしたが、浮竹が続けた言葉に、苦い表情を浮かべた。
「その、一護くんの妹と。……痛そうな顔をしているよ」
『……少し、関わったことがある程度だ。俺だけじゃない、松本も、他の連中も、顔くらいは知っていた』
日番谷は低く呟いて、沈黙した。その表情は傍目にわかるほどに痛みを伴っている。――だがきっと、普段はそんな表情も押し殺しているのだろう。不意に浮竹に訊ねられたせいか、繕い損ねた本音が見えた。
きっと、少なからず知り合いだったのだ。痛みを感じる程度には。
「……無理をしてはいけないよ。一護くんにも、伝えてくれ」
『ああ。……それで、そっちは?』
一度首を振って、日番谷は気分を切り替えたような素振りで、視線を上げた。この辺りが、彼の強さだと浮竹は思う。
「こちらは先程も言ったが、どの隊の隊長も部隊も尸魂界のひびの補修にてんてこ舞いの出ずっぱりだ。おそらく君たちが見つけた虚圏のひずみだが、こちらでも十二番隊がそれと似た巨大なひずみを見つけている」
『場所は』
「北流魂街に接した虚圏内だそうだ。そのひびから大虚がしょっちゅう現れては、霊害を撒き散らしている。虚の負の霊圧に呑まれて、血に狂う者が続出しているらしい」
『やっかいだな……対応はどうなってるんだ?』
「総隊長が直々に出られたよ。情けないことだが、他に動ける人員もいなくてね。俺もこれから別の場所の対応に向かう」
総隊長、と聞いて日番谷はやや驚いたようだが、納得した様子でもあった。
『まあ、総隊長の実力なら力押しでどうにかできるかもしれねえな。現状では十二番隊や浦原の補修具を使ってるわけだが、そっちの残りはどうなってる』
「もう残りは少ない。……それにこれは、少し申し訳ないんだが、あの補修具は長く効かない。重ねて保護の術をかけたりしなければならなくてな。改良が進められているよ」
『それは、浦原も言っていたな。……何か対策が見つかったら、連絡してくれ。こちらからも入れる』
「ああ、わかった。……そうだ。日番谷隊長、今度の定期報告は、一度こっちに帰って来るといい」
浮竹が笑顔で言うと、日番谷は唐突になんだと訝しげに眉をひそめた。
「おいしい菓子屋ができたんだ。持って行ってあげたら、きっと一護くんたちも喜ぶと思うんだが」
日番谷はそれに意表を衝かれたように一瞬黙ってから、苦笑した。
『……悪いが、今はやめとく』
「え?」
『今そっちに帰ったら、探したくなる』
低く呟かれた言葉の意味を浮竹は図りかねて、けれど訊くこともできずに、いつもと変わらぬ挨拶を交わして、通信は終わったのだった。
***
「ほう、夏梨とな」
「そう。夏の梨で夏梨。こっちの犬はロウ。おじいさんは? 死神なんでしょ」
「ほっほっほ、好きに呼ぶと良い」
「またそれだ……」
夏梨と老爺は洞窟の中に戻ってのんびり夕食を食べていた。メニューは猪肉料理である。大きな葉で包んで甘辛いタレと蒸し焼きにしたもの、味噌を塗って香ばしく焼いたもの、真ん中では猪鍋がぐつぐつ言っている。なかなか豪勢な食卓だった。
この猪、実は先程仕留めたものである。
血狂いの者たちを倒したあと、夏梨は相変わらず作った牙でずたずたになった手を握りしめて、老爺にあることを頼んだ。
――あたしは、死神になるんだ。死神になって、強くなって、誰かを守れるようになりたい。だから、ここで生きていかなきゃいけない。でも山で生きる術も知らない、悔しいけどこのままじゃ死神になる前に死んじゃう。そんなのは嫌だ。絶対嫌だ。だから、
「だから――弟子にして!!」
「よき心意気じゃ。よかろう!」
――という感じで、両者即決で話は決まった。
以降、昼からの時間を山を練り歩いてひたすらサバイバル講習のようなことに時間を費やし、山とは何ぞや、得物を得るにはどうすれば、罠の仕掛け方――などなど、ひたすら知恵を叩き込まれた。
そして本日の仕上げとばかりに老爺が仕留めたのが、猪だったのだ。
老爺はしばらくはこの山にいるらしく、洞窟は好きに使って良いと許しを貰ったし、これから先は修行三昧だと既に念押しされている。
もう今日だけでもへとへとなんだけど、というのは言わないでおいて、夏梨はため息をついた。
そういえば名前を聞いていなかったことを思い出して訊いたのだけれど、老爺はのらりくらりとごまかすばかりだ。
「……じゃあ、ほんとに好きに呼ぶよ。いい?」
「ふむ、構わぬ」
「じゃ、山じいで」
「ほ?」
老爺が驚いた様子で箸を止めた。夏梨は首を傾げる。
「何でもいいんでしょ?」
「なにゆえじゃ?」
訊ねられて、簡潔に夏梨は答えた。
「山にいたお爺さんだから」
だから、やまじい。
そう言うと老爺は、少し間を置いてから楽しげに笑った。
「ほっほっほ! ふむ、よいよい。ではお前は、儂をそう呼べ。儂は夏梨と呼ぼう。……姓はないのか?」
「あるけど……」
と、夏梨は言いかけて、にっと笑った。
「山じいが名前教えてくれたら、あたしも教えるってことで」
「――ふむ、なかなか良い筋をしていそうじゃな」
かくして老爺――山じいは、夏梨の師匠と相成った。
彼が実はとんでもない大物で、その名を山本元柳斎重國と言い、死神の総隊長たる者であることを夏梨が知るのは、まだ先のことになる。
[2009.11.22 初出 高宮圭]