Vox

-ロストチルド・ライド-

10 : むかうこと

「双天帰盾、私は拒絶する」
 織姫の声とともに、ふわりと広がった霊子の盾が、空にできたひびを覆い込む。じっと集中した織姫はほとんど睨み付けるようにしてそのひびが少しずつ消えていくのを確かめていた。
 やがて全長5メートルほどあったひびが2メートルにまで縮まった頃、パキン、とか細いガラスが割れるような音がする。
「……っ」
 織姫は息を詰めて堪えるが、パキパキパキと更に音は続き、ついには目に見える形で、織姫の盾がもろく崩れた。
「井上さん、もういいよ」
「石田くん、でも……」
 背後に控えていた石田に肩を引かれた織姫は、なおもひびの修復を続けようとする。だが盾が限界なのは目に明らかだった。
「無理をしないで。補修具が少ない今、君のその能力が頼りなんだ」
「……わかった」
 正面から曇りない口調で言われて、織姫はパキンと音を鳴らして六花の盾を解いた。
 空間のひび。黒腔(ガルガンタ)の出現の余波として数多く残されたそれの補修を織姫たちは行っている。ようやく終わりが見えてきたものの、始めのほうに補修を行ったひびがまた現れたりすることもあり、当分まだ作業は続きそうだ。
「井上、大丈夫か」
 ふう、と息をついていた織姫のところに、右腕を発動させたままの茶渡が訊ねてきた。織姫は笑顔で答える。
「うん! 平気だよ。そっちこそ、虚は大丈夫だった?」
「ああ。石田は補修作業か」
「うん。石田くん、死神嫌いだけど……あたしたちの中でいちばんやるの上手いよね。器用だからかな?」
「む……関係あるんだろうか……」
「――うむ、関係あるぞ」
 呆れたような、苦笑するような声音が不意に降りてきて、織姫はぱあっと表情を明るくした。
「朽木さん! そっち、大丈夫だった?」
「ああ。雑魚が数匹いただけだったからな。問題ない。……ところでさっきの話だが」
 話を戻したルキアは、結界で姿を隠して黙々と修復作業をしている石田を見上げた。
「あの補修具は、いわば針と糸のようなものなのだ。亀裂を特殊な霊子によって接合し、固める。……石田が得意なのも頷けるだろう?」
「そっか! 石田くん、お裁縫得意だもんね!」
 すっかり納得した様子で織姫は頷く。その隣で、茶渡も静かに納得していた。
「……だから、一護は下手なのか」
 一護と聞いて、ルキアはその手際を思い出し、呆れた口調で答える。
「あやつの場合、霊圧のコントロール事態が下手なのだ。あの道具は鬼道系のものだからな。その証拠に恋次も下手だろう」
 自分の幼馴染も例に出して、ルキアは「副隊長のくせに不甲斐ない」とぼやく。
 織姫もそれに苦笑するしかないのは、フォローし難いほどにその二人が群を抜いて下手だからだ。
「あっ! で、でも最近、黒崎くんちょっと上手くなったよね? 集中できてるっていうか……」
「ああ……そういえばそうだな。恋次は相変わらずだが、一護はあまりヘマをしなくなった」
「――最近黒崎は、気を張りすぎなんだよ」
 ひょいと割り込んだ石田の声に、皆が振り向く。どうやら作業を終えたらしい石田が降りてきたようだった。
 石田はぱんぱんと埃を払うように手を叩きながら、続ける。
「やたら働いて、何かしていないと落ち着かないみたいだ。……今回だって、町に残ってもいいと言われたのに、虚圏に行ってる」
 今朝、一護を含めた死神たちは虚圏への調査に発った。ルキアが残っているのは、直前に虚が出現し、その対応に当たったままになったからだ。人員は十分いるから、追う必要もなかろうと判断した。
「……夏梨ちゃんが、亡くなってから」
 ぽつりと呟かれた織姫の言葉に、ルキアも表情を沈ませる。そしてふと空を見上げた。
「もう、半月か。――それとも、まだ、半月なのか」
 こればかりは、おいそれと誰も触れることはできない問題だ。
 ただ、時任せにするしか、方法はない。
 動けなかった一護が動き出した。そして今度は止まらない。止まってはならぬとばかりに、動き続けている。それを休めてやるすべを、ルキアたちは持ってはいない。
 ルキアは小さく息をついた。
「……そのうち、一護がぱったり倒れたときにでも説教の一つもくれてやろう、井上」
「……うん、そうだね」
「まあ、ご飯を食べれてるんだから、そこまで心配することもないだろうさ」
 さ、次に行こう。
 石田がそう促して、四人は次の補修場所へと向かい出した。
 ルキアの伝令神機で場所を確認し、しばらく歩いたところで、ふと思い出したように織姫が口を開いた。
「ご飯といえば……そういえば最近、あんまり食欲ないみたいなんだよねえ」
「誰がだ?」
「冬獅郎くん。乱菊さんもちょっと元気ないし……。ねえ、あの二人って夏梨ちゃんと知り合い……じゃ、ないよね?」
「おそらく、知り合いではないだろう。……というか、そうだったのか、全く気づかなかった」
「うーん、あたしの気のせいかもしれないんだけどね」
 以前のままの勢いで相変わらず日番谷と乱菊は織姫宅に居候している。ルキアも一護の家に居候のままだ。恋次や一角、弓親は結局行く当てもなく浦原商店にいる。

 そしてその居候組と一護は今、虚圏にいた。



「ひずみって、デカすぎねえか、これ……」
 そのどす黒い亀裂――もはや穴と言っていいほどのそれを前に、一護は思わず呟いた。
 それはそこにいた全員がもれなく思ったことだったようで、誰もがしばらく言葉もなく虚圏の一角にできたそのひずみをただ眺めていた。
 ――数日前、現世のひびの補修を行っていた日番谷先遣隊は、浦原から虚圏に巨大なひずみがあるという報告を受けた。
 早いところ様子を見たほうがいいと言うので、尸魂界に連絡を入れてすぐ、日番谷たちは虚圏にやって来たのだ。
「浦原がでかいだろうとは言ってたが、まさかこれほどまでとはな……」
 日番谷が呟くと、その手にあった四角い機械がピーピー鳴った。
「測定、終わったんですか?」
 ひょいと隣にいた乱菊が日番谷の持つ測定機を覗き込む。
「そのようだな。――ったく、とんでもねえ数字だ」
「えーと……直径2870メートル、全長891メートル、霊的濃度レベル6……!?」
 読み上げた乱菊は目を疑いながら読み上げた。
「はあ!? レベル6って、隊長クラスがレベル5設定なのに、どんだけ……」
 思わず声を上げた恋次に、一角も続けて叫ぶ。
「てか、直径ほとんど3キロあんじゃねーか! こんなもんどこからどう閉じろってんだよ!」
「騒ぐな、やかましい」
 測定機を懐にしまった日番谷が低く言って、周りが口をつぐむ。
 日番谷は巨大すぎるひずみを睨み付けて、しばし逡巡した。
 目の前には見ているだけで飲まれそうになる漆黒がある。底無しの闇をたたえた泉のような、構える気すら失せさせかねない果てのない恐怖が渦を巻いているような。
 そして日番谷はしばらくの沈黙の後、口を開いた。
「……このひずみは保留だ。誰も手を出すな。映像記録はしておけ」
「え、でも隊長。霊子サンプルは触れないと採れませんけど」
「採らなくていい。――これはおそらく、触れないほうが賢明だ」
 そう言うや、日番谷はざりりと砂を鳴らして踵を返す。
「他の場所のひずみを調べに行くぞ。――この件は浦原の調べを待って、俺が尸魂界に報告しに行く」
 おそらくは、隊首会に持ち込まれる事態かもしれない。
 そう低く呟いた日番谷だったが、もう一つ過ぎった嫌な予感を口にすることはしなかった。

 今が三月半ば。
 日番谷が情報を持って尸魂界に帰るのは、三月の末か、四月の頭になるだろう。



***



 彼が少し久しぶりなその部屋に入ると、いつも通りにかしこまった声が静かに出迎えた。
「お帰りなさいませ、総隊長。長期の遠征、お疲れ様でした」
 一番隊副隊長である、雀部だ。どうやら出発前に飛ばした地獄蝶は、きちんと役目を果たしたらしい。
「長く空けてすまなかった。――何か変わりは」
「は。南流魂街、東流魂街のひびの補修はすべて終わったようです。西も大方が終わりつつあります。北はいかがですか」
「うむ、特に酷いところは終えた。追加で一隊応援に当たらせれば、もう数日で終わるじゃろう。現世のほうの報告は」
「届いております。一時期、死神代行の黒崎一護が抜けたことで若干の遅れはあったようですが、日番谷隊長の采配ですぐに取り戻し……今は全員で作業に当たっている模様です。現世のひびの補修はあらかた終わったようですが、虚圏に巨大なひずみがあるとのことで、今はそちらに。また、一度補修した場所が再び開くなど、補修具の耐久性についての指摘を日番谷隊長と、浮竹隊長がされています」
 総隊長は隊首室の席に座ると、肘をついて眉をひそめた。
「黒崎一護が一時期抜けたというのは」
「詳しいことは報告されておりませんが、妹御が急逝されたそうです」
 詳細を調べますか、と雀部は問うたが、総隊長はそれにゆっくりと首を横に振った。そしてすぐに、話を戻す。
「補修具の改良はどうなっておる」
「進んでいます。ですが現存のものの在庫切れも近いかと」
 それから、と雀部は机のそばに山と積まれた書類の一枚を差し出した。
「真央霊術院の受験受付が始まりました。あの騒動でいつもより受験者は少ない見込みですが、比較的手の空いている四番隊、三番隊が対応しています。九番隊の一部も請け負ってくれているようです」
「ふむ……今年はどんな生徒が来るかのう」
 志願書の一枚を眺めながら、総隊長は目を細める。
 それから、すいと雀部に視線を移した。
「入院の願書一式を一部、くれんかの。――それから、推薦書も一部」
「は……まさか総隊長、誰かを推薦されるおつもりですか!?」
「推薦など、何年ぶりかのう……。五十年、いや百年……」
「わっ、私が知る限り、総隊長自らが推薦されて入院した者は、おりませんが……っ」
「そうだったかのう。まあ、よい。ほれ、少し急いで持ってきてくれんか。山で弟子が待っておるもんでのう」

 のんびりと催促した総隊長に、雀部は一瞬驚きで呆然としたものの、すぐさま一番隊副隊長たる機敏さを見せて、要求されたものを取りに走ったのだった。




***




 夢ではいつも、二つの声を聞いた。
 一つは、ここに来る前からずっと聞こえていた、あの声。ずっと遠い、深遠から響くような。けれどすぐ近くで聞こえる、あの声。
 もう一つは、目の前でぺらぺら喋る、相棒の声。

 夢ではいつも、四季もむちゃくちゃな花が咲く場所にいた。
 ふんわりした柔らかい甘い匂いがして、足元に花畑、上には空のようで空でない、青があった。
 そして目の前には、不思議な声でぺらっぺら人語を話す、ロウが。

 夢ではいつも、ロウがずっと自分の名前や何やについてこれでもかと言うほど話していた。
 そしてそれを、夏梨は聞いていて、相槌を打って、聞き返して、名前を覚えて。
 名前を、覚えて。

 夢では、いつも――。


 夏梨は、ぱちりと目を覚ました。いつも匂う、薪の燃えかすの匂いがした。
 それから、夢でも感じた甘い匂いが体を包み込んでいて、目覚めたのを察したように覗き込んだのは、夢でぺらっぺら喋っていた、相棒。
 まだ眠気でぼんやりした頭で、夏梨はロウの頭に手を伸ばした。
 そして、長々した息を、吐いた。
「……なんだよ、もう」
 寝起きでかすれた声は、呆れた響きをより強くして、耳に届ける。
 呆れたのは、自分にだ。あれだけ散々夢を見てきたのに、今頃になってようやく気づくなんて。
 きょとんとしたように緑の目を瞬かせたロウに、夏梨は力の抜けた声のままで続けた。

「お前が、あたしの斬魄刀だったのかよ……」

 ――三月二十七日。霊術院入院試験まであと六日と迫ったその日の朝、夏梨は相棒が相棒たる所以を、彼の名前を、ようやく知った。



***



「なにこれ?」
 山じいがロウの背に夏梨を乗せたあと、ひょいと差し出した竹筒に、夏梨はきょとんとして首を傾げた。
「絶対になくさず持ってゆけ。中に受験票と志願書が入っておる。そしてこれが、推薦書じゃ」
 そう言って山じいが示したのは、分厚い絵馬のような板だった。それに何か文字が書いてあるが、まったく達筆すぎて読めない。
「あ、そっか。受験ってやっぱり色々いるんだ……」
「当たり前じゃ。ほれ、ここに拇印を押せ。自分の血でな」
「血って……」
「間違いなくお前だという証明になる。霊体の血はすなわち霊子の塊じゃからな」
「はあ……」
 わかったようなわからないような微妙なニュアンスの返事をして、とりあえず言われた通りにする。そして拇印を押したあとに、中央に書かれた夏梨の名前らしきものをじっと見て、次いでがばっと山じいを見た。
「なっなんであたしの名前っ!!」
「ほう、どうやら合っていたようじゃのう。よかったよかった。それは書き直しが効かんのでの」
 板の中央には、墨筆での縦書きでしかと夏梨の名前が書いてあった。――『黒崎夏梨』と、間違いなく。
 山じいはひげをなでながら、伸びやかに笑う。
「お前の兄は、黒崎一護。――そうじゃな?」
「だっ……から、なんで……」
「いや、これを取りに帰ったときに、現世の日番谷先遣隊からの報告を聞いてな」
 山じいから聞き覚えのある名前がぽんぽん飛び出して、夏梨はもはや驚くのを通り越して硬直してしまう。あまり上手く頭が回らなかった。
 しかし山じいは、そんな夏梨に構わず相変わらずの笑みで、しかし少し真面目な声音で続ける。
「黒崎一護の妹が、急逝したと聞いた」
 夏梨は声もなく目を瞠る。山じいは、すいと手を伸ばすと、夏梨の頭を撫でた。
「……お前の守りたいものは、おそらく守られることを容易に許しはせぬだろう」
「……う、ん」
「じゃがお前の能力は、育てればそれを許容して並べるほどの力になろう。――驕りを持つな、誇りを持て。己の力を見誤るな。……お前の兄の名を聞けば、驚く者は隊長各に多くおるだろう。じゃが儂は、この一ヶ月お前と過ごした上で、お前の力を見ての推薦じゃ。それを忘れるな」
 推薦書と竹筒を受け取った夏梨は、ひとつ、大きく頷いた。
 そして、にっと勝気に笑ってみせる。
「そもそも、黒崎って苗字なんか、きっと他にもいるよ。まさか妹だなんて思わないって」
 ていうか、と夏梨は眉をひそめた。
「ホント一兄、何してんの……」
 呟いてから夏梨は気を取り直すように一度頭を振ると、山じいを改めて見た。そして頭を下げる。
「――今までありがとうございました!」
「……うむ。儂もなかなかに、楽しませてもらった」
 夏梨は頭を上げると、くしゃっと子供らしい笑みを浮かべた。
「じゃあ、約束! あたしは黒崎夏梨。山じいの名前は?」
 それに山じいは、一瞬の間を置いてから、ほっほっほと笑った。
「――儂の名は、山本元柳斎重國。死神じゃ。入院したら、会いに来ると良い。また稽古をつけてやろう」
 うっかり「長っ」と顔に出してしまった夏梨だったが、すぐに笑みに戻して、「はい!」と頷いた。
「じゃあ、あたし、そろそろ行くね。一応今日二十九日だから余裕あるけど、早めに着きたいし」
 と、夏梨がロウに繋いだ紐を掴み直したとき。
 夏梨、と山じいが声をあげた。
「なに?」
「お前はこの一ヶ月、本当に強くなった。特に最後の数日は、時間を忘れて始解の訓練に励んだのう」
「……うん?」
「いや、本当に良い気迫じゃった。というわけで儂は、お前を止めなかった」
 つらつら言葉を重ねる山じいがそろそろ訝しくなってきて、夏梨は相槌の代わりにじと目の視線を返す。
 すると山じいは、夏梨を見て、朗らかに言った。
「最後の試練と思って、踏ん張ると良い」
「え?」
「今日は実は、四月一日じゃ」
「は」
「済まぬ、始解の訓練に夢中じゃったから、言いそびれておった。……人間追い詰められると本領が出ると言う。応援しておるぞ」
 ほっほっほ。
 そして山じいは、笑いながらひょいと瞬歩で姿を消す。
 夏梨は、しばらく山じいが消えたそこを凝視して硬直していた。
 だが、ふと我に返って、腹の底から叫ぶ。

「ふっざけんな、クソジジイ――――ッ!!!」


 ――四月一日。夏梨は徒歩三日の道のりを一日で越えるべく、相棒と共に猛烈に駆け出したのだった。

[2010.02.01 初出 高宮圭]