Vox

-ロストチルド・ライド-

12 : ためされること


 四月二日、午前七時三十分。

 ――真央霊術院の受験受付をしていた四番隊の隊員は、その子供が出した志願書、推薦書を前にきょとんととしていた。
「……ええと、何だこれ」
 思わず呟いてじーっとそれを見つめる。
 彼が見ていたのは推薦書だ。上質な霊子で作られた特殊なそれは、初めて見る物ではない。今まで受け付けた中にも推薦書を出した者はいた。だから彼が見ていた推薦書は、そちらではない。
 もう一つの推薦書だ。
(これって、どう見ても『推薦書』じゃなくて『推薦板』だよな)
 子供は推薦書を二つ出したのだ。一つは紙の、一つは板の。
 新人である彼は、その板の推薦書を見るのは初めてだった。だが間違いなく『推薦書』と書いてあるからそうなのだろう。それにばかり目を取られて、隊員は考え込んだまま処理の手を止めた。
「……どうかしましたか?」
 手を止めたことを訝しく思ったのだろう、隣で受付業務をやっていた院生の青年が声をかけてきた。
 人手不足が極まる中、恒例ではあるが霊術院の在院生の上級生も試験の手伝いをしているのだ。中でも彼の隣にいたのは現六回生の筆頭院生だった。
 新人隊員の目から見ても優秀なその青年は、しかしにこりともしない。つまり愛想がないのだ。
「あ、いや……お前、この推薦書何かわかる? おれ、見たことないんだ」
 訊ねてから、院生に聞くのは見当違いかとも思った。だがその院生は隊員が示したその板の推薦書を見て一瞬動きを止め、次の瞬間ものすごい勢いで立ち上がる。勢いが凄すぎて、大きな騒音になった。
「わあっ!? ちょ、なに、どうした?」
 驚いて思わずのけぞった隊員だったが、院生の青年は板を凝視したまま動かない。
 かと思うと、突然半分だけ開けられていた受付の窓を勢い良く全開にした。そして、驚いた表情でいる受付の処理を待っていたその受験生を見て、信じられぬ口調で呟く。
「……子供?」
「おーい、院生!? 聞いてるか? おいって!! これ何かわかんのか?」
 隊員が騒音に集まってきた受付の人目を気にしつつ言うと、院生の青年は我に返ったように振り向いて、やけに慎重に推薦書だという板を持ち上げた。
「――これは、隊長が推薦されるときだけに特別に使われる推薦書です」
「……は? たっ隊長って……隊長ォォ!?」
 一瞬意味を理解し損ねかけた隊員だったが、叫んだ瞬間、周りにいた他の受付担当の隊員、院生たちが一斉に驚愕の声をあげた。
「嘘だろ!? 隊長の推薦なんか、聞いたことねーぞ!!」
「はい。今まで前例はほとんどありません。だからこの推薦書は幻と言われています。……しかし今、確かにここにあるのは、そうです」
 院生は自らもまだ驚きを隠せない声音で言う。受験を手伝う院生たちは皆事前に一通りのレクチャーを受けるから、それで覚えていたらしい。ちなみに隊員たちはレクチャーを受けない。皆院生のときに受けているからだ。だがおかげで、記憶は薄かったりする。
 そして更に、院生はその推薦書に信じられぬ一説を読み取った。
「推薦者……一番隊隊長、山本元柳斎重國……!?」

 一瞬の沈黙。
 そして、

「総隊長ォォォォ!!?」

 奇声とも悲鳴とも取れぬ驚愕の叫びが一斉に響いた。
 しかしそこに追い討ちをかけるように、また新たな驚愕が襲う。
「待て、待て待て待った!! これ見ろよ、こっちの普通推薦書、副隊長二名の連名推薦だぞ!?」
「連名推薦!? 聞いたことねえぞ!」
「誰だよ、推薦者は!」
「檜佐木副隊長と、吉良副隊長ッス!!」
「どっちも今実質隊長やってるようなもんじゃねえか、その二人!!」
「なんだよこの受験者、受ける前からもうほとんど合格決定みたいなもんじゃねえか!! どんな奴だよ!?」

 その場に集まった者たち全員が、がばっと窓口にいたその受験生を振り向いた。ちなみに情報保護のため、受付内部の声は特別なマイクを使わないと外にほぼ聞こえない仕組みだ。なので一斉に視線を向けられた受験生は、ぎょっとしたように一歩引くだけだった。
 受付にいた彼らは、その受験生の容姿を見て、一様に固まってから、異口同音で呟いた。

「子供……?」

 ――とりあえず、しばらく彼らの驚愕の嵐は治まることを知らなかった。




***





 試験は二種類ある。
 一つは、実技。その者の死神としての素質を試すもの。
 二つめは筆記。ここでは基本的な学力と知識が試される。
 どちらかと言えば実技のほうが重要視される。――とは言え。
(……まずい、よなあ)
 大きな試験会場の中、指定された席についた夏梨は、ため息を禁じえなかった。何しろ周りは皆本を開いて勉強をしている。一方で夏梨は試験勉強の用意などまるでなく、筆記用具がなんとかあるくらいだ。
 だが、それも仕方ないと言ってしまえばそうだ。ひたすら山じいの修行に耐え、毎日を何とか生き延び、とりあえず試験に間に合うだけを考えてやって来た。――その間に勉強する暇などなかった。
 要するに夏梨は、筆記試験はひと月前に浦原に叩き込まれた試験対策の記憶だけを頼りにせねばならない状態なのである。
 だが、最初にあるのは実技だ。
 とにかくそこは全力で、と心に決めたとき、ちょうど移動開始を促す鐘が鳴った。
 今待機場所としているここは、筆記試験に使う場所なのだ。ここから実技の実地場所に移動し、集団での実技試験が行われる。――そう浦原に教わった。
 どうやら院生らしい姿の者が要所要所で誘導している。行くか、と力むことなく夏梨は席を立った。するとちょうど隣の席だった受験生も同時に立ち上がろうとしているのが見えた。見た目は中学生くらいに見える年頃の少女だ。だが、どうやらかなり緊張しているらしい。がたがたと体全身が震えていて、強張っているのがわかる。大丈夫か、と思うや、案の定だった。少女は無理して立ち上がり、椅子を蹴飛ばし――派手に、こけた。
「ふぎゃっ!?」
 などという悲鳴と共にその受験生は、こともあろうに夏梨のほうにダイブよろしく突っ込んでくる。
 夏梨は咄嗟に避けようとした。だが、避けたらこの見るからにドジそうな少女は受身も取れずに顔面から床に落ちるのではという予測が過ぎる。
(ああ、ちくしょっ!)
 内心で毒づいて、夏梨は瞬時に少女を受け止める方針に切り替えた。しかし体格差は大きい。できるのは、障害物をどけることと、クッションになることくらいだ。
「そこ、どいてっ!」
 判断するや、夏梨は騒音に驚いて近場で足を止めている他の受験生に叫び、少女の進行方向にあった椅子を蹴飛ばし、空間を設ける。そして次の瞬間突撃してきた少女の頭を抱え込むような形で受け止めた。
「いっ……」
 夏梨は思わず呻くが、何とか飲み込んで、ほとんど押し倒すような形で夏梨の胸に突っ伏している少女を見下ろした。
「あんた、大丈夫?」
「はっ!?」
 衝撃に怯えて目を瞑っていたらしいその少女は、がばっと顔を上げると、至近距離にある夏梨の顔を見て固まった。
「……おーい、ちょっと、聞いてる?」
「あっ!! はっ、はい!! あれ、あの、あたしなんで……。あっ、たっ、助けてくれたんですか……!?」
 何とか状況を飲み込んだらしい少女は、至近距離のままで夏梨を見つめる。夏梨は若干身を引きながら、頷いた。
「まあ、ね。……ところで、どいてくれたら嬉しいんだけど」
「すっ!! すみません、今すぐにっ!!」
 言うや、少女は今度は勢い良く立ち上がりすぎて、机にぶつかって倒しそうになる。「ああっ!」などと聞こえるが叫ぶ前に止めろという夏梨の内心の突っ込みに応えてはくれない。ぐらりと傾いた机が小柄な夏梨の上に降って来る。
(次から次へとッ!)
 仕方ない、蹴飛ばすか。そう考えたがこれまた机は大きい。ならば避けるか――しかし周りには人だかりがあった。
(なら――)
 と、夏梨が次の手を若干講じかけた瞬間だった。
「はい、セーフ」
 ガンっ、と大きな音がしてふわりと小さな風が起こる。爽やかな香りが鼻をかすめ、夏梨は目の前にある大きな背中を見た。
「だいじょぶ?」
 くるりと振り向いたのは、そこの通路で誘導をしていた院生の一人のようだった。優しい顔立ちをしていて、柔らかい髪のその青年は制服が男用だから男性とわかるものの、女物を着れば女と見まがうほど綺麗な顔をしてにっこり笑っていた。
「あ、うん……」
 どうやら助けてくれたらしい。夏梨が頷くと、青年は身軽に立ち上がった。そこで音を立てて机が元に戻り、夏梨はその青年が何をしたか理解する。
「結界……」
「わかるの?」
 夏梨が呟くと、青年は意外そうに夏梨を見下ろした。
 夏梨は曖昧に頷く。
 青年は今、夏梨を庇って一つ目の結界を張った。そして机が跳ね返りで飛ばないよう、机にも。それを一瞬でやったのだ。
 と、そこでようやく夏梨の耳に周りのざわめきが入ってきた。
「……おい、見ろよあいつ。まだガキだぜ」
「子供が何でこんなとこいるんだよ、場違いだろ」
「見たとこ貴族でもねえし。誰かの連れ子が迷子になってんじゃないのかぁ?」
「おいお前、来るとこ違うんじゃねえの? 子供の待機所はあっちだぜ」
 ぼそぼそと夏梨を見て言い合う者もいれば、嘲笑を浮かべて言葉を投げてくる者もいる。
 夏梨は眉をひそめてそれを一瞥したが、すぐに息をついて座り込んでいたところから立ち上がった。
「……何か言ってるよ?」
 いいの、と笑顔のままで訊いて来たのは、助けてくれた院生の青年だ。そんなことを訊きながら、本人には何もする気があるように見えない。完全に第三者だ。
「……いいよ、別に」
 どこでもこんなもんか。
 そんなことを思いながら、夏梨は淡々と返した。しかし、どこまでも冷えた視線を言葉を投げてきた周囲に向けて。
「あ、あのっ! ありがとう、ございました」
 唐突に高い声が降って来て、夏梨はきょとんとした。見ると、先程助けた少女がまだそこにいた。
 周囲の視線が気になるのか、顔が真っ赤だ。それでも一言礼を言うためにいたらしい。
 それは素直に嬉しくて、夏梨は少し心が和む。
「うん、どういたしまして。……あたしも、あんたがいてくれよかった」
「え……?」
 小さく笑って返し、夏梨はすいと冷えた視線をまだぼそぼそと言い合っている人だかりにやった。そしてまた困惑顔の少女に戻すと、さも少女に言うように、続ける。
「――よかったよ。ガキみたいな嫌味しか言えない奴らばっかじゃなくて」
 一瞬、人だかりのざわめきが静まった。しかしぴりぴりとした視線を背中で受け流して、夏梨は少女に小さく「ごめん」と呟く。この少女を使ってしまったことで、彼女はしばらく注目されるかもしれないからだ。
 だが少女は真っ赤なままでぶんぶんと首を横に振った。そしてがばっと頭を下げてダッシュで走り去ってしまう。
 夏梨はそれを若干ぽかんとして見送ってから、息をついた。それと大差なく、再び移動を促す鐘が鳴る。それで再び足を止めていた受験生たちは動き出した。
 夏梨も行こうとして、そういえば自分も助けられたことを思い出す。一言言っておこうと振り向いて、眉をひそめた。
「……なに笑ってんの?」
 夏梨を助けた院生は、声を殺してくつくつと笑っていたのだ。首の後ろで一つに束ねられた印象的な赤茶の柔らかい髪が震えている。
「いやいや、ごめん。ツボに入ったよ、もー」
 青年はほとんど人がいなくなった試験会場の中で、ついには腹を抱えてけらけらと笑い出す。
「普通、あそこでアレ言う? 聞いてた受験生全員に喧嘩売ったようなもんだよ、バカじゃないの」
 それでなくてもその歳で余計な顰蹙(ひんしゅく)買ってるのに。
 青年が続けた言葉に、夏梨はまたひとつ息をつく。
「……喧嘩も何も、どうせここにいる奴みんな敵みたいなもんだろ。それに」
「それに?」
「やられたらやり返す主義だから」
「ぶはっ!! あはっ、あははははーー!!」
「……あんた、喧嘩売ってんの?」
 思い切り噴き出して大爆笑した青年に、夏梨はこめかみに若干青筋を浮かべる。しかしさっきのように冷えた視線を送らなかったのは、青年の笑いは馬鹿にしたような、嘲るようなそれではなかったからだ。ただ単純に可笑しくて爆笑しているらしい。
「いやー、君、いい性格してるね。僕、君みたいな子大好き。苛めたいよね!」
「たった今あんたにお礼言おうとか思った気持ちが消えた。じゃ」
「あー、待ってよ。僕も行くー」
「なんで!」
 何なんだあんた、と夏梨がいかにも迷惑そうな表情をするが、青年は全く気にした素振りもなくにこにこ笑って、夏梨が手に持っていた受験票をひょいと取った。そしてそこにあった名前を見る。
「へえ、カリンでいいのかな? 何だか美味しそうな名前してるね。良く言われるでしょ」
「今初めて言われたけど!?」
「あっ、あと何か仲間意識! 僕の名前とも似てるよ、運命だねぇ」
「……ホント何なんだよ、あんた!」
 調子が狂う。ばしっと受験票を取り返し、夏梨はずかずかと進み出した。すると青年も当たり前のように着いて来る。
「僕はね、三年一組の御堂ナツル。ほら、似てるでしょ?」
 『おどう』って書くけど読みは『みどう』だからね、などと言うのはどうでもいいので聞き流す。
「どこが」
「夏梨の『夏』と僕の『ナツ』」
「言っとけ」
 もう緊張感もどこへやらだ。夏梨は筆記の試験会場を出ると、言われていた集合場所に行こうとした。だが、不意に腕を引かれる。ぎょっとして見上げると、ナツルが相変わらずの笑顔で腕を引いていた。
「何して……」
「君はこっち。推薦受けてるんでしょ? 推薦者は実技のみ別室で個別受験なんだよ。知らなかった?」
「……そうなの?」
「そうなの。もっとも、他の人はあっちに一回集まってそこから行かされるんだけど。院生の案内つきなら行っても問題ないし」
 と言うわけで行こう、とナツルはすたすたと歩き出す。
 夏梨は引っ張られるままに着いて行きながら、相変わらず周りから感じる視線に眉をひそめていた。受験生だけではない、院生や死神たちからもだ。
 するとふと、軽いが先程までとは違う真剣な口調の声が降って来た。
「――くだらないものに、いちいち気を取られなくていいよ」
「え」
「くだらないものを気にすること事態がくだらない。要は世渡りなんだ。言いたい奴には言わせておいて、涼しい顔で上を行くのも一手。そいつの言葉を利用して丸め込んで、味方につけるのも一手。売られた喧嘩を買って、思う存分叩きのめして行くのも一手。――だけど最後のは、賢くないよ」
 時と場合を考えるんだ、とナツルは進みながら言った。
「君は、頭は悪くないね。だったらわかるでしょ。どう世を渡るのが上手い手か。いつどの手を選べばいいか。喧嘩の買い方も、ひとつじゃない」
 そしてナツルは一つの部屋の前で足を止めた。後ろにいた夏梨を振り返ると、それまで見せていた笑顔とは違う、どこか感情の滲んだ笑みで、小首を傾げてみせる。
「その口調も、僕は好きだけど。使い方ひとつで、また手は変わる。……ちゃんと合格してね。――僕は、君の選ぶ一手が楽しみだから」
 ナツルが言い終わると同時に、ドン、ドン、という破裂音が離れたところからした。夏梨が視線を巡らすと、少し距離があるところから不意に声がした。
「普通受験の者の実技が始まったな。ここはたまにとばっちりが飛んでくるぞ。――御堂。引率ご苦労だった」
 見ると、奥から出て来たらしいその青年もまた、院生のようだった。落ち着いた短い黒髪と、あまり変わらない表情にどこかで見たような既視感に夏梨は首を傾げたが、答えに辿り着く前にナツルが「いいえ」と答える。
 見上げると、ナツルはまたずっと浮かべていた感情のわかりにくい笑顔に戻っていた。
「ここにおられるということは、試験監督のお一人ですか。さすが六年筆頭ですね、時任(ときとう)先輩」
「……用が済んだなら、戻れ。受験生はここで引き取る」
 ナツルの笑顔に対して、時任と呼ばれた先輩の院生は硬い、むしろ不快そうなまでの表情で返す。
 夏梨がそれに何か妙な空気を感じている最中で、ナツルはすいと夏梨の隣をすり抜けた。
「じゃ、失礼します。じゃあね、おチビちゃん」
「だっ……」
 誰がチヒだ、と思わず反射的に言いそうになった夏梨は言葉を飲み込んだ。ナツルがすっと口元に人差し指を立てて見せたのだ。それで、思い出す。――時と場合を、考える。
 だから夏梨は、静かに息を吸って黙って向こうにいた時任という院生のほうへ歩みを進めようとした。
 だが、その彼がふと目を瞠ってこちらに走り出す。何が、と思うと同時に普通受験者の実技試験場だという方角から、鬼道らしい大きな塊が飛んでくるのが見えた。
 とばっちりが飛んでくる、というのは先程聞いた言葉だ。だがそれにしてはでかすぎるだろう。
(――暴発)
 過ぎったのは、夜一との修行のときのことだ。当初夏梨は鬼道を暴発させてはああいった塊を量産していた。
 何だ今日はもう、アレか、厄日か。
「こっちに!」
 ぐい、と肩を引かれる。同時に、瞬時に回りに結界が築かれたのがわかる。どうやら時任という院生のようだ。かなり強固な結界のようだから心配はない。だが夏梨は、はっとして後ろを振り返った。
「あいつが……っ」
 視線の先にいるのは、鬼道の塊にぽかんとした様子のナツルだ。
「ナツル、来い!!」
 夏梨の耳元で大声を張ったのは時任だった。ナツルがそれに気づいてこちらに駆け出す。だが、間に合わないのは見て取れた。時間は、ない。
 だから夏梨は、叫んだ。

「縛道の八十一、断空!!」

 ――瞬間。ドォン、と空気をびりびりと震えさすほどの衝撃が走る。しかし夏梨は、目を閉じなかった。
 やがて振動が静まり、しゅうしゅうと音を立てていた蒸気の煙が晴れる。
「……あれ?」
 きょとんとした声をあげたのは、時任の結界の寸前で尻もちをついた体のナツルだ。その目の前の廊下の柱は、鬼道の衝撃で吹き飛んでいる。
「わあ、僕、無事だ」
 なんで? と時任のほうを見やったナツルだったが、同時に時任の結界が解かれたのを見て、時任の仕業ではないと判断したらしい。そして、その隣で膝をついていた夏梨を、見た。
 夏梨はその視線を受けて、長く息を吐いた。
「あー……成功した……」
 言い終わると同時に、ナツルの目前に築かれていた不可視の障壁が消える。
「……なん、だと……?」
 心底信じられないと言いたげな声音で呟いたのは、時任だ。床に膝をついたまま、夏梨を見下ろす。
「受験生、お前がやったのか」
 あまり感情の起伏が感じ取れない言い方だったが、驚いているらしい。夏梨は小さく頷いた。
 それに時任がまた驚いたように声を失くす。するとそれに代わるように、楽しそうな声が降ってきた。
「すごいすごい! 面白いなあ、八十番台の詠唱破棄かぁ。六年どころか平隊士だってできたもんじゃないよ、普通。……ねえ君、もしかして僕が思う以上に凄い子?」
 などと言いながら覗き込んで来るナツルに、夏梨は思わず呆れた。緊張感のない奴め。
「はあ……。で、あんた、無事なんだよね」
「ん? うん。この通りピンピンしてるよー」
「じゃ、それで貸し借りナシってことで」
「……へ?」
「さっき試験会場で助けてくれただろ」
 あっさり言って、夏梨はよっこらせと立ち上がる。そして淡白に続けた。
「言ったでしょ、やられたらやり返すから」
 一方的なんて、まっぴらごめんだ。
 内心でそう呟いていると、また頭の上で「ぶっは!!」と盛大に噴き出した声がした。
 若干イラっとしてじと目で見上げると、やはりナツルが爆笑している。笑い上戸なのか知らないが、悪意はないとはわかってもいちいち笑われては腹が立つ。
「――放っておけ。そのうち止まる」
 一言文句でもと思いかけたところで、背後から声がかかった。振り向くと、どうやら驚きから立ち直ったらしい時任が落ち着いた視線で夏梨を見ていた。
「今は試験が先決だ。着いて来い」
「あ、はい」
 先導して歩き出した時任の後ろについていく。どうやら奥に進むらしいのがわかって、夏梨は角を曲がる手前で後ろを振り返った。
 視線の先で、まだ笑っているナツルが見えた。
 それに気を取られていたから、夏梨は気づかなかった。先を行く時任が、ぽつりと呟いた独り言に。

「――さすが、推薦に足る逸材と言うわけか」

御堂ナツル*みどうなつる / 時任冬春*ときとうふゆはる =オリジナルキャラ
[2010.02.07 初出 高宮圭]