「いっやーん! 可愛いー! ちっちゃーい!」
夏梨が一番隊の隊首室を出ると、聞き覚えのないテンションの高い女性の声がした。同時にむぎゅうと頭から全身を抱きしめられて、身長差のせいで顔を胸らしき豊満なそれに押し付けられる形になる。そのまま力を緩めてくれないものだから、危うく夏梨は窒息するかと思った。
だがその寸前でなんとか腕を突っ張って、ようやく体が解放された。
「ぶはっ! ちょ、なに……」
「あ、ごめんなさいね、苦しかった?」
嫌味なくかけられた声に顔を上げて、夏梨はようやく自分を窒息させかけたその女性を見た。
まず目に止まったのは、その長く艶やかな黒髪だ。高い位置でツインテールにしているが、それでも二の腕ほどまである。歳は十八前後くらいに見えたが、やたら色っぽい整った顔立ちと深い紫のような瞳が印象的だった。服装からして院生のようだが、なぜここに、とそこまでを夏梨は一気に考える。
ここは一番隊の隊舎のはずだ。今隊首室から出てきたのだから間違いない。確か隊舎には、呼ばれない限り院生は入れなかったはずなのに。
そう思ったのが顔に出たのか、前に立った院生は、始めのハイテンションはどこへやら、にっこり笑ってみせた。
「初めまして。私は六回生の水町真夜よ。あなたを迎えに来るように言われて来たの」
「迎え?」
「そうよ。……もしかしてあなた、今日が何の日か忘れてないかしら?」
そう言われて、夏梨はちっともピンとこなかった。
この一週間、一日のほとんどを一番隊の隊首室内にある小さな部屋で過ごしていたから、いまいち日数感覚が鈍っているようだ。部屋から出るのは食事と入浴時のみで、それも人目を避けるために不規則な時間で取っていた。
夏梨が黙っていると、真夜と名乗ったその院生はくすりと笑って夏梨の手を引く。そしてそのまま歩き出した。
「ちょっ……あの、先輩!?」
「あら、名前で呼んでくれなきゃ嫌よ。その可愛い声で、真夜お姉ちゃんと呼んでちょうだいな。……ああん、今が急ぎでなきゃ、目一杯可愛がってあげるのに」
心底残念そうに言う真夜に、夏梨は思わず返答に困った。真夜の意図が一切読めなかったのだ。
とりあえず会話を続けるために、要望どおりにしてみることにする。
「えっと……ま、真夜先輩?」
「“お姉ちゃん”」
「……真夜姉」
「あら、いいじゃないそれ。なあに、夏梨」
手を引かれながら機嫌よく、あっさり名前を呼ばれて、夏梨はきょとんとした。
「何であたしの名前……」
すると真夜は当然のように答えた。
「あなたは有名人だもの。……て言っても、噂が独り歩きしてるばかりで、名前とかはあまり広まってないけれど」
「そうなの?」
「ええ。もっぱら広まってるのは、そうね……『チビクロ』かしら」
「は?」
犬の名前のようなそれに自分との関連性を見つけられず、夏梨は間の抜けた声で返す。
すると真夜は、悪戯っぽく笑ってこう説明した。
「あなたのことよ。あなた、この一週間ずっと宿舎にも帰ってなかったし、歓迎会にも出なかったでしょう? おかげでどんな奴だっていうのがちゃんとわからなくて、『小さくて黒い』っていう大ざっぱな見た目だけが広まったのね」
「それで、チビクロ……?」
「そういうこと。まあ実際はこんなに私好みだったわけだけれど。――さあ、行くわよ」
止まりかけた夏梨の手を再度引いて、真夜はようやく着いた隊舎の出口から足を踏み出す。
室内との明度の差に思わず夏梨は目をすがめた。だがすぐに、目の前に広がった光景に目を見張る。
眼前に、見事に美しく咲き誇った大きな桜の木があった。太い幹は長い年月を感じさせ、堂々と伸ばした枝は両手を広げて全てを歓迎し、祝福しているようにも見える。
その桜を見て、夏梨はようやく思い出した。
「そっか……今日、入院式だ」
「正解」
柔らかく微笑んだ真夜が、また夏梨の手を引きながら歩き出す。
隊舎前を抜け、霊術院のある近辺に出ると、にわかに辺りが騒がしかった。
院生が多く動き回っていて、夏梨に目を留めて不躾な視線や言葉を投げてくる輩も多い。
無遠慮に集まる視線の中でふと足を止めた真夜が、口を開いた。
「あなたについて、いろんな噂があるけど……」
夏梨が見上げると、真夜は人目も構わず、夏梨を抱きしめた。
ぎょっとして、夏梨は体を硬くする。
「本当でないなら、気にすることはないわ。口さがない連中が色々言ってくるでしょうけど、ちゃんとあなたを認めてる人も多いのよ。私だって、期待している一人なんだから」
そして一旦体を離す。
公衆の面前で何を、とは思ったが、励ますために抱きしめてくれたことがわかって、夏梨は何となく嬉しくなった。だからお礼を言おうとした、のだが。
「真夜姉ありが……」
「あぁん、やっぱり抱き心地いいわぁ。やっぱりこのサイズがいいのよね。髪もサラサラだし、腰も細いし。あーっ! 着飾らせたい……」
などと言い出した真夜にまた抱きしめられてしまう。
今度は本格的にわけがわからず、夏梨は絶句した。
だがいつまでも固まっているわけにもいかず、何とか思考を動かそうとした頃だった。
「――何を暴走している」
ぐい、と真夜が強制的に夏梨から引きはがされたのだ。
解放された途端にほとんど反射で夏梨は真夜と距離を取った。すると真夜の背後に、助けてくれたらしい院生が見える。
「あ」
夏梨は思わず声をもらした。その院生には見覚えがあったのだ。
(試験のときの……)
院生は、試験のときに見た、時任と呼ばれていたあの彼だった。
「あら、冬春じゃない。可愛いものを愛でてる最中よ、邪魔しないでくれないかしら」
「俺はそんなことをさせるために筆頭権限を貸与したわけじゃない」
「ふうん? 私のこの性格を知っていて貸与したんだから、了解の上だと思っていたのだけれど」
「……確かにお前が可愛いもの――特に小さいものに目がなく、抱き着きぐせ及び着せ替え願望を持って暴走するのはよくよく知っているが……それを是とした覚えはない。今回もお前がどうしてもと言うから――」
「ああ、もう。はいはいわかってるわよ。だって見たかったんだもの、噂の『チビクロ』ちゃん」
あっさり開き直りとも取れる態度になった真夜は、またすぐにっこり笑って夏梨を振り向いた。
「ごめんなさいね、驚かせちゃったかしら? この人は私の同級生で現筆頭の、時任冬春よ。……って、確かもう会ったことあるのよね」
また大人っぽいしとやかな雰囲気に戻った真夜に紹介されたその院生は、黙ってすっと一歩夏梨のほうへ踏み出した。
短い黒髪と、あまり変わらない表情。――間違いなく、あの試験の日に共に『とばっちり』に巻き込まれたあの院生だ。
「……時任冬春だ。合格おめでとう」
「黒崎夏梨です。……この間は、ありがとうございました」
ここまで無表情だとこれが素なのだとはわかる。ぺこりと頭を下げると、短い相槌が返った。
筆頭、ということはつまり、今の院生の中で一番の実力者ということだ。
確かにできそうな雰囲気あるよな、と妙なところで夏梨が納得しかけたところで、学院前の時計を見上げた冬春がすいと踵を返す。
「式が始まる。新入生はこちらだ」
***
入院式は厳粛に、滞りなく行われた。
静かな緊張感ある式の中、しかし夏梨は、終始心ここに在らずの状態だった。
じっとしていると、頭に浮かんでくるのは読んだばかりの記録書の記憶だ。
――あんなに遠い所に、自分は行けるのだろうか。
巻き込まれてやる、と山じいに啖呵を切った。けれど、巻き込んでもらえる場所に辿り着くことすら、今は困難に思える。
(一兄)
ずっとずっと、いつだって一人で抱え込む。全て抱え込んで、それでも全部護って見せることができる。あの大きな背中を、助けることなどできるのだろうか。
(……冬獅郎)
隊長、という立場が、ここへ来てどれだけ凄いものかを理解した。それを背負い、あの壮絶な戦争を勝ち抜いたあの少年は、どれほど夏梨の知らない世界を見、生きてきたのだろうか。
夏梨は虚ろにため息をついて、力なく開いた手のひらを見た。
――なんて、遠い。
少し騒がしい事態になったのは、式のあと、新入生のクラス発表が行われた演習場でのときだ。
「――っらあアァッ!!」
掲示板に張り出されたクラス分けを見た内の一人が、突然雄叫びをあげて、掲示板を殴り壊したのだ。
破壊された掲示板のそばにいた新入生たちは悲鳴をあげて遠のく。
夏梨もその中の一人で、すぐに離れようとした。だが、それは叶わなかった。
ダン! と頭に響く衝撃音が全身を打つ。何が起きたのかすぐには理解できなかったが、とにかく夏梨は息を詰め、咄嗟に衝撃を加えた加害者を蹴り飛ばそうとして――事態を把握した。
「何でなんだよ……ッ」
目の前に、一人の男の新入生がいた。夏梨はその男に、力任せに掲示板の残骸に叩き付けられたのだ。
男は強い怒りを、むしろ憎悪すら感じるほどの目で、夏梨を睨みつけた。
「何でお前みたいな何の苦労もしてねえガキが、こんな待遇受けてんだよ!!」
男は叫んで、その大きな拳を手加減なく夏梨に振りかぶる。
夏梨は避けなければ、と思ったが、実際に体は動かなかった。
(なんて目だ)
あんな目で見られたのは、初めてだった。自分が他人にあんな目をさせているのか、と過ぎったその一瞬が、いけなかった。
バキ、と嫌な音がして、夏梨は背後にあった掲示板もろとも後ろに飛ばされた。殴られる瞬間、咄嗟に腕で庇ったものの、見事に拳が決まったのがわかる。修行ですり込まれた反射で受身と同時に体勢を立て直すことはできたものの、拳を受けた左腕が痛くて、思わず膝をついた。
「いっ……」
こぼれそうになった声を、何とか飲み込む。でないと、夏梨の事態に気づいて待たせていた場所からすっ飛んで来たらしいロウが、今にも相手に襲いかかりそうだった。
だめ、と身振りだけで示して、夏梨は立ち上がる。そして殴り飛ばした男を見た。
周りにはすっかり観衆ができあがっている。皆何か口々に言っているが、誰も止めない。別に止めてほしいとも思っていないが、こういう空気が夏梨は嫌いだった。
新入生のその男に見覚えはない。だが、叫んでいた内容で、だいたいの理由は察せられた。
「……こんな待遇って、あたしが三年に編入を認められたこと?」
わざと左腕を庇わないように意識しつつ、淡々と訊く。
夏梨はこのクラス分けで、一年のどこにも名前がなかった。ただ一人だけ、三年への飛び級編入を認める告知が、別途張り出してあったのだ。
男は感情を抑えられない様子で叫ぶ。
「推薦もだ! 俺は貴族だぞ!? なのに席官クラスの推薦ひとつ取るのに、どれだけ苦労したと思ってる! 何回も受けて、ようやく通ったんだ! それなのにお前は、流魂街出身のくせに副隊長二人・隊長一人の推薦を、なんで当日滑り込みで取れるんだよ!? セコいマネして合格して、得意な顔してんじゃねえ!!」
「……だから、なに」
感情を抑えるように、夏梨は意識を痛みに持っていくように左手を握り締めた。
「つまりあんたは、あたしがズルしたって言いたいの?」
「違うとでも言えるのかよ!!」
「違うよ」
無理やりに落ち着けた声で、夏梨は言い切った。
男が、一瞬驚いたように息を詰め、すぐにまた怒りの表情に戻す。
「てめえ、ぬけぬけと――」
「あたしは、ズルなんかしてない。推薦してくれた人たちに誓って、絶対だ」
それには明確な自信があった。正直、山じい以外の檜佐木と吉良の二人は、どうして推薦してくれたのかよくわからない。けれど、その人たちを裏切るようなことは、絶対にしていない。
真っ直ぐ言い切ると、男のみならず周りの観衆と化した野次馬たちも、少し静まった。
だがすぐに、男は声をあげた。
「ふ……っざけんなァ!!」
叫ぶや、男はまた距離を詰める。しかし夏梨はあえて逃げずに、男が襟首を掴み上げるのをそのままにした。
「俺は、俺はなぁ!! てめえとは違うんだよ、こんなとこでちんたらやってる暇なんかねえんだ! 早く兄貴たちに追いついて、やらなきゃなんねえことがあんだよ!!」
身長差のせいで、持ち上げられては息が詰まる。だがそれのせいだけでなく、夏梨は目を瞠った。
ここまでほぼ無抵抗だった右手に力を込める。そしてゆるりと持ち上げると、襟首を掴む男の手をガッと音がするほど、強く掴んだ。
「……あたしだって」
低く呟いて、どんどん男の手を掴む力を強くしていく。
その不穏な空気に気づいたのか、周りがざわめくのがわかった。
いつの間にか教師や他学年の院生なども集まりつつあったのだが、夏梨は気づかない。
「あたしだって――急いでんだよ!!」
叫ぶと同時に、夏梨は近距離にあった男の頭に、思い切り自分の頭をぶつけた。
ゴィン! というさも痛そうな音がして、周囲も男も、夏梨さえも言葉を失くす。
だが、その中で夏梨は一番立ち直りが早かった。頭を押さえてうずくまった男の前に仁王立ちして、その襟首を強引に持ち上げる。
「あんたの事情なんか知らない。どんな苦労してきたかとか、名前だって知りゃしない! でも悪いけど、同情して誰かを待ったり譲ったりする余裕なんか、あたしにはないんだよ!!
あたしは、進まなきゃいけない。どんなに遠くても、無謀でも無理でも何でも、進み続けなきゃいけないんだよ!」
そうだ。じゃなきゃ、追い付けない。じゃなきゃ、また――
「置いていかれるのは、もう嫌なんだ……!!」
いつだって、背中を見るばかり。見送るばかり。
そんなのは嫌だ。そんなのはもうごめんだ。
だから、ここまで来たのに。
(立ち止まってなんか、いられないんだ)
鬱々と考えていたことの結論を不意に見つけ出して、夏梨は思わずふっと力を抜いた。同時に持ち上げていた男の襟首も離して、その場に座り込む。
すぐにロウが心配そうにすり寄ってきてくれて、少しほっとした。
「――あーあー、ハデにやったねぇ」
周りのざわめきを聞きながら、さてどうしようかと思いかけた矢先に、その声がした。
何かどこかで聞いたことのあるその声に、夏梨はどこかおそるおそる顔を上げる。
「はぁい。元気そうだねぇ? 噂のチビクロちゃん」
「あんた……御堂ナツル……っ」
視線の先にいたのは、試験の日にやたら絡んできたあの院生だった。相変わらずの食えない笑みで、ぱたぱたと手など振っている。
「あ、覚えててくれてありがとう。合格おめでと。いやーそれにしてもさっすが規格外な子だよね。初日からこんなギャラリーしょっちゃって」
「好き好んでしょってない!」
「照れない照れない。なかなか見応えあったよ。ていうかそっちの君、馬鹿だねぇ」
ナツルは食えない笑みを浮かべたまま、夏梨の前で呆然としたように言葉を失っている男の新入生に、容赦のない言葉をかけた。
「君だってわかってたろうに。ここ、ズルして入れるほど甘くないよ?」
「そ、れは……」
「だいたい、貴族なんかのちっぽけな矜持に何の意味があるの? そんなもののためにここに入ったって言うなら――全く、虫唾が走るね」
今まで浮かべたことのなかった感情の見えない冷たい表情で、ナツルは静かに、けれど鋭く突き刺すような言葉を放つ。
思わず夏梨はそのナツルの冷たい横顔にびくりとしたが、すぐにナツルが新入生の男に興味を失った様子でくるっと夏梨を振り向いたから、思わず少し身を引いた。
「にしても、三年になるなんてホントに運命感じない? 君って相当運あるよ。さすが僕のクラスメイト!」
「運命なんか一切感じない――って……え、ちょっと待って。今なんて……」
相変わらずの調子に眉をひそめて返そうとして、夏梨は思わず耳を疑った。
しかしナツルは、変わらずの笑みで繰り返す。
「僕のクラスメイト、って言ったの。――ようこそ、真央霊術院三年一組へ」
[2010.02.25 初出 高宮圭]