Vox

-ユース・ラッシュ-

17 : すごすこと


 そういえば最近は、夢を見ない。
 もうすぐ目が覚めるとわかるまどろみの中で、ぼんやりと夏梨は考えた。
 現世から、ロウの名を知るまでずっと続いていたあの夢と声。それを最近は見ないし、聞かない。
 どうしてだろう、と覚醒に向かう意識の片隅で、思考を回す。
 自分の死を告げたあの声はどうしても好きではないから、聞こえなくなったのはいいのだが、結局あれが何だったのか、それはわからないままだ。
 今度夢を見たときに、ロウに聞いてみよう。そう考えたのを最後に、まどろみは惜しみなく明けた。

「――ねえチビちゃん、起きてってば」
 ごく至近距離からしたその声に、夏梨は一気に目を見開く。そして同時に視界に飛び込んで来た見知った顔を認識して叫びと共に文字通り飛び起きた。
「ぎゃああっ! なに、何してんだよナツル!!」
 寝台で寝ていた夏梨を上から覗き込む形で見ていたのは、院のクラスメイトである御堂ナツルだった。
 彼は寝台から見事に飛びのいて反射で臨戦体勢を取った夏梨に、残念そうなため息をつく。
「女の子なんだから、せめて悲鳴から濁点取ろうよ」
「どうでもいいから質問に答えろ! ここあたしの部屋だぞ!」
「知ってるよ、だから迎えに来てあげたんじゃない」
 ナツルは悪びれずにっこり笑ってそう告げる。
 ここは院の宿舎――いわゆる寮の、夏梨の一人部屋だ。通常二人部屋が普通らしいのだが、偶然人数が合わずに夏梨が一人部屋を貰えることになった。ロウもいるので都合がいいし、煩わしくもないのでありがたいことである。
 とはいえ、一応男女は別れているし、寮監もいるはずなので、こんな朝っぱらからどうやって、と夏梨が訝しい表情を隠しもせず訊ねると、ナツルはいつもの食えない笑みであっさり答えた。
「僕、問題児だからね」
 思わず夏梨はげんなりした顔になった。
 院の生活が始まって早二週間。ナツルの問題児ぶりは既に嫌というほど知っていた。何しろ同じ組になって以来、毎日終始ちょっかいをかけてくるのだ。もはや付き纏ってくると言っても過言でない。
 ナツル曰く、「だって君、見てると面白いんだもん」らしい。反対に面白くないと断じたものには一切興味はないという、だいぶ極端でやっかいな性格のようだった。
 そしてその性格に振り回されているのは教員たちも同様らしく、口は上手いは演技上手だわで彼は院の中でも有名な問題児である。今回もその達者な話術で寮監をだまくらかしてきたに違いない。
「ところで、早く準備しなよ。朝ご飯、食べ損ねちゃうよ」
「え……もうそんな時間?」
 ナツルに呆れた眼差しを注いでいた夏梨はぱっと窓を振り返る。確かにいつも起きる時間よりかなり日が昇っているらしい。差し込む光でそれを判断して、夏梨は慌ただしくハンガーにかけている制服を取りに行った。
「うわ、寝坊しちゃった。ナツル、今何時かわかる?」
「だいたい七時半ってとこだね。にしても珍しいね、君が寝坊なんて。今まで全然寝坊してくれなかったのに」
「まるでしてほしかったみたいな言い方だな……」
「うん、だってじゃないとこうして起こしになんて来れないじゃない」
 一回口実作っちゃえば後はどうとでもなるし、といっそ清々しいまでの彼の打算的行動に、夏梨は思わず呆れて言葉を返し損ねた。
「……ねえ、ところでチビちゃん。些細な疑問なんだけどさ」
「なに?」
 夏梨はため息もそこそこに制服を準備しながらナツルを振り返らないままで声を返す。
 ちなみに彼が夏梨を『チビちゃん』と呼ぶのは、なぜか周囲に定着しつつある夏梨の愛称の『チビクロ』からだ。もう払拭するのも無理そうなため、好きにしてくれと放置している。
「ここ、時計ないの?」
「ないよ」
 あっさり端的に答える。ここ、とは夏梨のこの部屋のことだろう。基本的に部屋に最初からあるのは文机と寝台だけであり、夏梨の部屋にそれ以外増えたものと言えば、本棚もなく積まれた本と制服くらいなものであった。
 すると微妙な間を挟んで、理由を問う声がする。それにも夏梨はこだわらずに答えた。
「だって、お金ないもん」
「お金って……ここ基本的に学費いらないじゃない。君推薦だから他の教材費とかも免除でしょ?」
「そうだけどさ。根本的に持ってないもん、お金」
 更木出身だって言ったろ、と至極当然そうに続けると、不意に背後からがしっと肩を掴まれた。
 きょとんとして振り向くと、ナツルが同情極まれりといった表情で夏梨を見ている。
「……なに」
「僕、今ちょっとだけ捨て犬拾う人の気持ちがわかった」
「は」
「それじゃ君、私服とかもないんだよね。ここまで休日ずっと制服だったのはそういうことだったんだね?」
「それがなんだよ」
 現代で生まれ育った夏梨としては、確かにこちらに来て不便を感じることは多々あった。だが山暮らしを越えた今では屋根があって調理された食べ物があり、整備されたお風呂とトイレ、そしてしっかりした服があるだけでもありがたい。何より常に命を脅かされる心配がないのは心休まることだった。
 こちらに来た当初はやたら時間が気になったが、それも日の昇り具合で判断できるようになってからはそう必要と思わなくなったし、今もそうだ。そんな感覚があるから、夏梨はナツルが哀れみの視線で見てくるのを訝しげに見返すしかない。
「明後日の日曜日」
「日曜?」
「迎えに来るから、出かけないでね」
 ナツルの唐突な申し出に、夏梨は意図が掴めず眉をひそめたものの、明後日に用事があったわけでもないので、とりあえず頷いておく。
「わかったけど……」
「うん、いい子。じゃ、早く着替えておいで」
 機嫌よく笑ったナツルは、ぽんと夏梨の頭を撫でると軽く背中を押す。
 止めていたのは誰だ、と思わず夏梨は半眼になったが時間がないのは変わらないので急いで着替えようと寝巻きにしている(支給物である)一枚の着物を脱ぎかけて、ふと動きを止めた。
 そしてばっと後ろを振り向く。するとそこに、いつもの笑みのままで夏梨を見て、腕を組んで待つ体勢を取っているナツルが見えた。
「ん? 早く着替えなよ、待ってるから」
「――何当たり前の顔してんだこのバカ! 出てけっ!!」

 大声でナツルを外へと追い立てた夏梨は、そのときはまだこれが日課になるとは思ってもみない。


***


「あ、チビクロおはよう」
「おはようチビクロ」
「今日もちっこいなーチビクロ」
「お、チビクロ。今日は怪我すんなよ?」
「チビクロちゃーんっ! 今日お菓子持ってきたの、あとであげるね!」

「なんかあたしの名前が『チビクロ』に改名されようとしてる気がする……」
 いつもの挨拶を交わしつつ、教室の席に着いた夏梨は深々とため息をついた。
 入院して二週間。四月も終わりに差し掛かった頃。
 夏梨はすっかり『チビクロ』の名で親しまれてしまっていた。
「それもいいんじゃない? だってほら、こーんなにちっちゃくてぴったりなんだから」
 こーんなに、の辺りで後ろから抱きすくめられた。だが夏梨は一切表情を動かさぬまま過たず肘鉄を背後のその人物に決める。完全に決まってナツルが声もなくうずくまったのすら気にしない。
「おはよチビクロちゃん。今日も御堂に遊ばれて大変ねー」
「楽しそうに言わないでよ……」
 入院して、二週間。
 三年に編入した夏梨は、運が良いのか悪いのか、同組となったナツルに相変わらず付きまとわれつつ、割と平和な学院生活を送っていた。

 ――あの日。入院式のあとのことだ。
 派手に喧嘩をやらかした夏梨は入院早々に呼び出され、説教を聞く羽目になった。一応被害者なのに、とは思ったが、思ったより説教が短かったのは幸いだった。
 というのも、夏梨が殴られた左腕が、案外重傷なことが途中でわかって、速攻で四番隊送りになったのだ。
 そこで治療してくれたのは試験の日に治療を施してくれたこともある山田七席で、以来(しょっちゅう怪我をするのだが)怪我をするたび専属のような形で治してくれるようになってしまった。
 ともあれ、あの喧嘩から以後、夏梨への周りの視線が変わった。
 もちろん変わらず嫌味で陰湿なそれもあるが、少なくとも関わった者のほとんどは、友好的に接してくれるようになったのだ。
 どうやら喧嘩のときの態度が評判――な、らしいが、正直夏梨は要因をよくわかっていない。おそらくズルしていないと言い切ったのがよかったのだろうくらいには思っている。
 しかし実際には、彼女の人柄が初めて見えたことに理由があった。
 ずっとよくわからなかった前代未聞の推薦を持つ新人。どんなにかずる賢くて生意気で、などと思われていたのが、実際見てみればただの子供。しかも真っ直ぐで、がむしゃらで、余裕もない。素直にただ頑張っているのだ、とよくわかるあの喧嘩は、ある意味夏梨にとってあって幸いだったろう。
 そしてもう一つ、実力が伴っていることも、始まった授業ですぐに証明されたからだ。
 一例として、室内演習場の屋根を吹き飛ばしたり、教師を昏倒させたり、遅刻しそうになって瞬歩を使って怒られたり――というのも頻発させているのだが、おかげで教師内でも優秀生徒並びに問題児、という認識があったりする。
 その飾らない人柄が、受け入れられる大きな要因と言えた。

「ねぇ、今日はずっと三年にいるの?」
 一時間目の授業が終わった休み時間、別にそこが自分の席なわけでもないのに、隣に陣取ったナツルに訊ねられて、夏梨は少し考えた。
「いや……午前中はだいたいいるけど、午後からは一年と二年の授業二つ行って来る。帰って来たら三年の実習入るよ」
「ふうん、相変わらず忙しいねぇ」
 飛び級者の特権として、飛び越した学年の実習及び授業を受けられる、というものがある。そこそこ大雑把な基本を習ってきた夏梨に取って、それは結構ありがたいことだった。何しろ実技はともかく、座学は学ばねば気合で答えが出てくるものではない。
 そして今更に思い知ったのが、浦原が案外優秀な先生だったということだった。試験に関係ないほどハイレベルなものまで教えてもらっていたこともわかったが、それでも彼の授業はとてもわかりやすかったのだ。ついでに、記録書で知っていたものの、夜一がとんでもない鬼道と瞬歩の使い手だというのもよくわかった。今のところ、あれほどの使い手を院の教師にも見たことがない。
(凄いとかいうレベルじゃないよなあ)
 最近、師匠と呼び慕った夜一、浦原、山じい、そして兄を思い返すとき、彼らの軌跡を知った時ほどに落ち込まなくなった。けれどその分、彼らの、特に兄の印象がぼんやりとしてしまった感覚がある。
 伝説と呼んで差し支えないだろう、彼らの活躍は自分とは天と地ほどに遠い気がする。
 ただ、ぼやけてしまったその感覚の中で、唯一はっきりと思い出せるものが一つだけあった。
 ――研ぎ澄まされた霊圧、鋭く冷えた、圧倒的なその力。
 日番谷冬獅郎の霊圧。それだけはなぜか、ぼやけることなく刻み込まれている。
 あれを知ったのは、霊圧のことなど何も知らなかった頃だ。それでも、程近くいた兄より、誰の霊圧よりよく思い出せるのは、彼のものだった。
(……変なの)
 すっきりしない気持ちを持て余しつつも、けれど夏梨はあの霊圧を思い出すたびに前に進むことへの思いを強くする。
 立ち止まってはいられない。


***


 飛び級特権のおかげで、夏梨の顔は学年を越えて院内に広まりつつあった。
 角を立てずに平和な人間関係を築くコツも何となく掴んで、『敵』は確実に減っていた。ナツルに言われた通り、世渡りしだいでいとも簡単に人間関係は調整できる。
 例えば、損もあるが、思ったよりこの容姿は得もあるらしい。子供という外見は夏梨の最大の弱点でありつつも、最大の利点であるのだ。ならばそれを使わない手はない。
 それに気づける程度に夏梨は賢しく淡白で、子供らしくないのだが、どうやらそこをナツルは面白がっている節がある。それが少し気に食わないが、彼の助言は案外役立っているので、あえて何も言わないことに決めた。

「おう、チビクロお疲れ。今日もいい吹っ飛ばしっぷりだったなー」
「蛮原の奴、今日も雄叫びあげてたぜ。見てなくてもわかりやすいよなー、勝負結果」
 などと言いながらわしゃわしゃと頭を代わる代わる撫でてくるのは一年の院生たちだ。
 どうせ振り払っても構ってくるので、されるがままになりながら、夏梨は終わった授業の片付けをする。
 院に入ってから、子供を見たら撫でねばならない使命感にでも駆られるのかと思うくらいよく頭を撫でられたりするので、もう慣れてしまった。
 やけに風通しがいい室内で、夏梨は紙類が飛ばないように気を付けながら、移動用の袋に物を仕舞い込む。
 今夏梨がいるのは一年一組の教室だ。別に窓が開いているわけでもなければ、戸が開いているわけでもない。だというのにやけに風通しがいい理由は、夏梨の隣にあるべきはずの壁の一部が、なくなっているからだ。
「……面白がってないで、いい加減あのバカどうにかしてくれ」
 その抜けた壁の先、外に瓦礫共々転がっている一年の院生を見て、夏梨は疲れた様子でため息をついた。
 周りの友人たちが言う、『吹っ飛ばしたもの』は、あれだ。
 一年一組、蛮原蛮(ばんばらばん)。入院式の日に、夏梨に殴りかかってきたあの院生だった。
 彼はあの日以降、暇さえあれば夏梨の居所を探し回って喧嘩を売ってくる。
 一応貴族の端くれだと言うが、そんな風格はどこにも見当たらない、ただの荒っぽくて喧嘩っ早い、夏梨に取っては非常に面倒な奴になった。
 なぜやたら喧嘩を売ってくるのか、本人曰く「気に入らねえ」「絶対泣かす」らしいのだが、腕っ節は強いとは言え、方や実戦を知らない貴族の息子。片やそうそうたる顔ぶれに師事され、更木を生き延びた実力者。結果は火を見るよりも明らかで、今のところ、蛮原は全敗している。
「仕方ないじゃん、あいつチビクロに喧嘩売るのが生きがいなんだよ」
「んなもん生きがいにしないでよ……」
「ていうかお前いっつも思い切りぶっ飛ばすから、見てて気持ちいいわ。今日は壁だけど、昨日は黒板だったもんな!」
「他人事だと思って……」
 あっちが加減なしの馬鹿力で突っ込んでくるものだから、夏梨も相応の強さでやらなければならず、そのたび周りのものが壊れる。そしてそのたび、説教を食らう羽目になる身にもなってほしい。
 ため息をつきながら、夏梨は席を立った。
「あれ、もう行くのか? 三年の実習、もうちょい後だって言ってただろ」
 その問いに、夏梨は少し表情を引き締めて答えた。
「うん、まあね。――三年のはまだなんだけど、六年のほうに行くことになってるんだ」



***



「えーっ? 更木出身の子がいるの?」
 十一番隊・隊舎。その一角で、やちるは楽しげな声をあげた。
 というのも、偶然隊員たちが立ち話しているところに通りかかり、その内容に興味を持ったからだ。
 唐突に聞き返された隊員たちは、ぐるんとそちらに向き直ると、ちょうどやちるに見下ろされる形でその興味津々と言った目と視線が合う。その途端、彼らは一斉に頭を下げた。
「ど、どうもッス! 更木隊長、草鹿副隊長!!」
 やちるは常の定位置、剣八の肩に乗っていたのである。いつものことだが、やちる一人かと思って振り向くと、平隊士としては非常に心臓に悪い。
 けれどやちるはそれを気にした様子もなく、いつもの誰にも変わらぬ無邪気さで彼らに再度問いかけた。
「ねえねえ、さっき言ってた『更木出身の院生』って何の話?」
「あ……はあ、その、噂で聞いただけなんスけど、今年の新入生に更木出身のガキがいるとか何とか……」
「更木から、ガキだと?」
 ぴくりと眉間の皺を動かして聞き返したのは剣八だ。彼も更木出身ゆえ、あそこの地獄のような現状を知っている。随分昔のことだとは言え、あれがそう簡単にマシになるとも思えない。
 そして彼と共に歩んできたやちるもまた、そのことを知っている。だから、ふとほんの一瞬真顔になって、それからすぐ剣八をいつもの元気な笑顔で覗き込んだ。
「剣ちゃん剣ちゃんっ!」
「……何だ」
 剣八がやかましそうな顔をするのも構わず、やちるは機嫌よく続けた。
「あたし、その子見てみたい! 剣ちゃんだって気になるでしょ?」
「知るか。ガキなんざ弱いに決まってんだろ」
「あーっ! 剣ちゃんダメなんだよ、そーいうの! ヘンケンっていうんだから!」
 いつの間にか知識を蓄えていくやちるに何だかもっともな指摘をされてしまって、剣八は仏頂面で黙り込む。いつもは割と見当違いな言葉を使ったりするが、今回ばかりは正確だった。
「……好きにしろ」
 舌打ちまぎれにそう言った剣八は、ひょいとやちるを犬猫同然に掴んで下ろす。そしてさっさと行ってしまう――と見えたが、結局足を止めて、振り返らないままで言った。
「日暮れまでには戻ってこい」
「はーい!」
 やちるは元気のいい返事を剣八の背中に返し、ダンッと音が鳴ったと思ったときには、そこから姿を消していた。



蛮原蛮*ばんばらばん=オリジナルキャラ
[2010.03.08 初出 高宮圭]