Vox

-ユース・ラッシュ-

21 : かわりゆくこと



 どうしてこんなことになった?

 目の前に広がる光景を、夏梨は上手く理解できずに、ただ目を見開いて立ち尽くしていた。
 けれどいくら見つめても、眼前の光景は変わってはくれない。
 ――抉られた地面も、無残に壊れた校舎も、赤い水溜りに倒れ伏した動かない友も。
 見開いた瞳に焼き付いたまま、消えてはくれない。
 声は出ず、足も手も動かず、目を閉じることすらできなかった。
(喰われた)
 唐突に思考が動いて、そんな言葉が思い浮かんだ。だが、自分の思考に戸惑う。
(喰われたって、何に)
 するとまるで答えを示すように、灰色に曇った空が歪んだ。まるで水面のようにぐにゃりと曲がったかと思えば、次には陶器が割れるようなばきばきという音を立てて、空に巨大なひびができあがる。
 三日月を寝かしたようなその形は、まるで空が醜く笑っているように見えた。
 その隙間から覗く、途方もない闇。あれが喰ったのだ、と疑問を持つ余地もなく理解する。

 ――あれが、霊術院をその中の人もろとも、喰ったのだ。



***



 ぱんっ、と目の前で拍手が打ち鳴らされて、夏梨は目を覚ました。
 目を開くと、見慣れた木目の天井が見える。かと思えばよく馴染んだふわふわした感触のものに視界を遮られて、「こらっ」とそれを引き剥がし様に夏梨は起き上がった。
「おはよう、チビちゃん」
 仮にも主の顔にのしかかるとは何事かと子犬姿の相棒を叱り付ける一拍前に、当たり前のように声をかけられて、夏梨はようやくそこに彼がいることに気づいた。
「ナツル……あんたはまた、性懲りもなく……」
 もう怒鳴る気力もわかないで、夏梨はにこにことした笑みで寝台の下に座り込んだナツルを見た。
 ここは女子寮だ。だがナツルは首尾よく一度忍び込んで以来、ほとんど毎日のように朝やって来る。結構早起きなほうだと自負しているのだが、どうやら彼はそれ以上に早起きだ。
「だいぶ寝苦しそうだったみたいだけど、何か悪い夢でも見た?」
 ナツルは夏梨の呆れた視線を気にした様子もなく、夏梨を見上げる。寝台と床で高低差があるから、夏梨のほうが今は頭二つ分ほど上だった。
 問われて、夏梨は一瞬ぎくりとする。――何か、とても嫌な感覚が脳裏を掠めたからだ。だがそれは本当に一瞬で、捕まえる前に霧散してしまう。
 言われて見れば、そう暑くなかったはずなのに体が汗ばんでいた。
「……何か、すごく嫌な夢だった気がする」
 思い出そうとすれば、嫌に鼓動が鳴って、夏梨は膝の上のロウをぎゅうと抱きしめる。
 そうだ。とても嫌な夢だった。まるで斬魄刀と対話するときのように五感がはっきりしていて、やけに現実じみていた。けれどそれがどんな夢だったか、それが思い出せない。
「嫌な夢なら思い出さなくていいさ。ほら、君の相棒が心配してるよ」
 立ち上がったナツルは、寝台の上に腰掛け直して、ロウの頭をつつく。
 何だか思い出さなくてはいけないような気がしてならなかったが、ナツルの言うことももっともかと思い直して、気分を切り替えるように思い切り伸びをした。
「……で、あんたは何してんの?」
「やだな、いつものことじゃない」
「許した覚えは一切ない。……だいたい、何であんたはこんなことしてんの。面白いとか興味とか、もうそんなのどうでもいいくせに」
 だいぶ伸びた髪を掻き上げながらわかりきったことのように言えば、ナツルは少し驚いたように瞬いて、それから笑った。
「うん、そうだね。もう興味とかはどうでもいいかな」
 あっさり認めたナツルは、相変わらず食えない笑みを浮かべる。だが、ふとその笑みを消して、ただ夏梨を見た。
 その瞳が今までのナツルが見せたことのない感情をたたえているように見えて、夏梨は思わず動きを止める。
「でも、――君は起きるから」
「起きる……?」
「そう。眠っても、必ず起きる。まだ小さい君は、成長を続ける。君は変化をし続けるから。――その先が予測不可能だから、僕は君に期待するんだ」
 いつもの笑みを欠片も浮かべない静かな表情で、ナツルは語る。その紫がかった瞳に自分が映っているのが見えて、夏梨は咄嗟に視線を逸らした。
 するとナツルが、小さく笑うのが聞こえる。そして立ち上がったのも気配でわかった。
 そっと視線をやると、部屋の戸に手をかけたナツルが、首だけで振り返っていつもの笑顔で笑っている。
「でもそろそろ、君を見ているのも限界だね」
「え……」
「だって君はもう、僕のクラスメイトじゃないもの」

 よくわからないことと、今更なことを言い残したナツルは、そのまま夏梨の部屋を後にした。
 そしてそれから、彼が朝に部屋に来ることはなくなったのだった。


***


 ガン、とよく響く音がして、びりびりと痺れるような強い衝撃が木刀を通じて伝わって来る。
 その衝撃の重さに夏梨は思わず息を詰めたが、対する相手は文字通り眉一つ動かさずに次を打ちこんで来る。
 それを受け流しながら後退していると、ふと相手が「どうした」と口を開いた。
 彼が手合わせ中に口を開くのは珍しいから少し驚いたが、一切打ち込みは緩まない。さすが現筆頭だな、と思いつつ、一度その刃を受け止めて、夏梨も答えた。
「聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「仕合をやりながらで良ければ、聞こう」
「時任先輩は、御堂ナツルと知り合いだよね」
 ナツルの名前を出した途端、一瞬太刀筋がぶれた。それを見逃さずに払うが、そう易々と体勢を崩してくれる相手でもない。
「……あいつが、どうした」
 今夏梨は、授業の一環で木刀での仕合をやっている。勝敗を決めるものではなく、ただの鍛錬だ。だから生真面目な彼がこうして話してくれている。でなければ「無駄口を叩くな」で終わりのはずだ。夏梨の知る時任冬春とは、そういう人物だった。
「この間、何か変だったんだ」
 一瞬力勝負に持ち込まれそうになって、それを何とか回避したあとに打ち込みながら、夏梨は続ける。
「あたしそう言えば、あいつのことよく知らないなと思ってさ。先輩なら、何か知ってるだろ?」
 すると冬春は夏梨の打ち込みを全てかわして、瞬歩で背後に回り込むと、相変わらずの抑揚のない口調で答えた。
「あいつは元から変だ」
「うん、否定はしないけど」
 瞬歩なら、冬春より夏梨のほうが速い。一瞬で距離を取り直して木刀を振り下ろす。だがそれは、同じく一瞬で形成された結界で阻まれた。結界の精度は、冬春のほうが上だ。
「御堂は、色々面倒くさい奴だ」
「うん」
 即座に同意を返しつつ、夏梨は結界ごと一発蹴りを入れてやる。弾かれた冬春がほんの一瞬体勢を崩したのを見逃さず、その足元を強かに打つ。冬春はさすがに顔をしかめたが、わずかに過ぎないし、夏梨が打ったのは防具がある場所だ。
「その面倒くさい内容は、今ここでは話せない。後回しにするが」
 すぐさま体勢を立て直した冬春は、今度は容赦なく正面から打ちこんで来た。どうやら力勝負に持ち込むつもりらしい。そして続ける。
「今ひとつ言うなら――あいつはこれからも三年以上になる気はないし、かと言って退学もしなければ、死神になるつもりもない」
「どういう、こと?」
「あいつは留まることで、変化を起こそうとしている。……そのためにあいつは、進むことをやめた」
 かわしきれずに力勝負に持ち込まれた夏梨は、じりじりと耐えながら、少しずつ壁際に追い詰められていく。額に汗が伝う感覚がする。夏梨が力負けするのは、もう時間の問題だった。
 耐えながら、それでも話を続ける。
「ナツルは、ずっと三年にいるってこと?」
「そうだ。あいつが三年をやるのは、もう今年で三度目になる」
 思わず夏梨は耳を疑った。そしてその瞬間、競り合った木刀は、夏梨のほうが押し切られる形で力負けとなった。
「はあい、冬春の勝ち!」
 仕合が終わった途端、ひょいと沸いて出てきた人物に、夏梨はきょとんとした。
「真夜姉、いつから見てたの? 自分の仕合は?」
 長い黒髪のツインテールを揺らして、自他共に認める美人である真夜は「もちろん終わったわよ」と綺麗に笑った。そして用意よく、夏梨と冬春に手ぬぐいと水筒を渡す。
「これは勝敗をつけるものではない」
 受け取った手ぬぐいで汗を拭きつつ、冬春は真夜に意見する。だが「わかってるわよ」の一言で流された。
 彼女の前では冬春もかたなしだ、と水を飲みながら夏梨は密かに笑う。そして一息ついてから、冬春に声をかけた。
「ねえ、時任先輩、さっきのことなんだけど……」
「それより先に、ひとついいか」
 珍しく言葉を遮られて、夏梨はきょとんとした。すると隣から真夜が茶化すように口を挟む。
「あら、冬春がそういう言い方をするときは話が長いのよねえ。暑いんだから、さくっと簡潔にお言いなさいよ」
 そう言われて、冬春は仏頂面のまましばらく黙り込んだ。どうやら真夜の言葉通り簡潔に述べようと考えているらしいが、それらしい表情は一切浮かべない。
 そして、沈黙のあと。

「冬春と呼べ」

 実に簡潔だった。
「……ねえ冬春、あなたが色々悩んだことは察するけれど、簡潔すぎることに気づいてちょうだいな」
 もう呆れを通り越した眼差しで真夜は冬春を見る。だが冬春はわずかに眉をひそめて、「お前が言ったくせに」と呟く。
「……ええと、呼ぶのは別にいいんだけど、何で突然?」
 夏梨が問うと、ようやく冬春は理由を口にした。
「俺はもう、お前の『先輩』ではない。――お前は、俺たちのクラスメイトだろう」
 相変わらず抑揚のない口調だったが、それが心からの言葉であることは、目を見ればわかった。
 夏梨が六年に進級し、冬春や真夜とクラスメイトになったのはつい一週間前のことだ。
 梅雨が明け、夏草が青々と陽光に照らされ出す七月の半ば。
 前代未聞の速さで進級を重ねる夏梨はすっかり有名だったし、六年には以前から実習で馴染みもあったので他より溶け込むのも早かった。だがそういえば、以前からの慣れでほとんどの人を呼ぶときは『先輩』を付けている。
 冬春は、もう同級の仲間であるから、それは必要ないと言ってくれたのだ。
 夏梨は思わず頬が緩むのを自覚する。だがそれを隠さずに、冬春を見上げた。
「じゃあ、冬春。あんたもあたしの名前、ちゃんと覚えろよな」
「……難易度は高いが、努力する」
 その答えは真面目なものだ。なぜなら彼は人の名前を覚えるのが大の苦手なのである。
 それを知っていたから、夏梨は真夜と顔を見合わして笑ったのだった。



***



「あ、檜佐木さん。帰ってたんですか」
「よう、吉良。久しぶりだな」
 休憩室に久しぶりな顔を見つけて、吉良は声をかけた。
 檜佐木の九番隊は長らく遠征任務で、ほとんど戻っていなかったのだ。
「本当に久しぶりですね。遠征は終わりですか?」
「ああ、ようやくな。まったく当たりが悪かったぜ。補修しても補修してもひびが出てくる地域に当たっちまってな。……ま、現世はもっと面倒だろうが」
「例の巨大なひずみですか。十二番隊の新しい補修具は?」
「何とかかんとかってとこだな。いつまで持つかわかんねえから、定期的に調査隊は出すことになった。……だがどうやら、ひずみが移動したようだって話だ」
 湯飲みを傾けながら、檜佐木は真剣な表情になる。
 数ヶ月前に浦原喜助が虚圏に見つけた巨大なひずみ。それがかの崩玉の残滓であると判明してからしばらく経つが、有効な手段は講じられていない。うかつに手を出せばどうなるかわからないということで、その辺りは研究者たちにほぼ丸投げの状態だ。
「移動って……動くものなんですか? あれ」
「さあな。だが、じゃなきゃ俺たちはまだ遠征してるさ。ひずみによって引き起こされるひびが治まったから、帰って来れてんだからな」
「じゃあ、現世のほうも?」
「それはわからん。だがあの人たちが帰って来てくれるなら、この多忙も多少はマシになるだろうな……」
 是非ともそうなってもらいたい、というニュアンスでぼやいた檜佐木に、吉良も苦笑を返すばかりだった。彼も実質隊のトップとして、多忙を極める身なのである。
 二人して同じタイミングでため息をついて、檜佐木は気分を変えるように話題を変えた。
「そう言えば、あいつはどうなった?」
「あいつ?」
「夏梨だよ。こないだようやく知ったんだが、三年に飛び級編入したんだってな」
「やだな檜佐木さん、いつの話ですか。もう七月ですよ?」
 吉良は笑うが、何しろ檜佐木は四月からこちら遠征を繰り返していたので、入試のとき以来夏梨には会っていないのだ。
「とは言っても、僕も四番隊に行ったときにたまに会うくらいなんですけど。あの子の面倒は、総隊長が直々によく見ているみたいですよ。一応僕らにも推薦の師事権ありますけど、出る幕なさそうですよね」
 などと吉良は笑ったが、檜佐木は目を瞬かせた。吉良の言い分が訝しかったのだ。
「『僕らにも』って、あいつ推薦したのは俺たちだけじゃ……」
 若干の戸惑いを持て余しつつ口にすると、反対に吉良のほうが驚いたような顔になる。だがすぐに一人で勝手に納得したらしく、「檜佐木さんはあのあとすぐ遠征でしたもんね」と苦笑した。
「僕も後で知ったんですけど、あの子を推薦した人が、もう一人いたんですよ」
「もう一人って……ちょっと待て、まさか……」
 先ほどの話の流れから察したのか、みるみる驚きの表情に塗り変わった檜佐木に、吉良は頷く。
「はい。総隊長です」
 ね、出る幕ないでしょう。
 などと笑う吉良は、どうやら以前に驚き尽くしたらしい。言葉を失った檜佐木に、更にもう一つの衝撃を突きつけた。

「あとあの子、この間六年生になったそうですよ」

 更に動けなくなったらしい檜佐木を横目に茶を飲みながら、吉良はいっそ達観した気分で、推薦は間違っていなかったとしみじみ思う。
(それにしても)
 まだ驚きを持て余している檜佐木に、更に実は、彼女がやちると追いかけっこしていたり、浮竹や京楽とも顔見知りだったり、四番隊の常連で密かに卯ノ花も目をかけているようだったり、ペットを通じて狛村とも知り合いだということを言ったらどうなるのだろうか――と多忙で疲れた頭で考えるのだった。




[2010.06.27 初出 高宮圭]