Vox

-ユース・ラッシュ-

22 : おとずれること


 占いなんて、信じる性質ではなかった。
 双子の姉は占いやおまじないが大好きだったけれども、兄も占いを毛嫌いしていた。
 いくら占ったって、本当のことはわからない。正確無比な未来など、知ることはできないのだ。

 そう、思っていた。
 あの夢の声を、聞くまでは。



***



 声がする。

 ――キコエルカ、きこえるか、聞こえるか。

 胸の中心に、声が落ちてくる。
 その感覚は嫌いだったはずなのに妙に懐かしく感じられて、夏梨は抵抗もなく、夢に落ちた。
 青々とした初夏の草原がある。けれど至る所に咲いた花は四季がめちゃくちゃで、見たことのない巨大な花も咲き誇り、甘い香りが風に煽られる。統一感のない、けれど爽やかで甘やかな空間。
 久しぶりに訪れるその空間に、夏梨は一人でいた。
 以前までは、ここがどこかもわからないでいた。けれど今はわかる。ここは、夏梨の精神世界だ。それを理解しているからこそ、相棒の姿がないことが不可解だった。
「あたしの相棒は、どうした?」
 はっきりとした意識を持って、話す。今まではできなかったことだが、今はできる。
(今は、邪魔だ)
 声が答えた。まともに話すことなどほとんど初めてだったが、そんなことはどうでもいい。
「邪魔って、何だよ」
(お前があれの名を正しく知ったゆえに、この声が響かない)
 声は、いつになく饒舌なようだった。あるいは夏梨がしかと向き合ったからこそなのか、それはわからないけれども。
(だが、それもまた良きこと。世界が確立したからこそ、この声は再び響く)
「……意味わかんない」
 憮然と思ったままを口にすると、声はしばらく沈黙した。そしてその沈黙を夏梨が訝りかけた頃、辺りの様相が一変する。
 一瞬で色が白黒に褪せ、かと思えば崩れるようにぼろぼろと端から世界がはがれてゆく。その向こうから現れるのは単調な黒で、息を呑む間に世界は黒に塗り潰された。
「おい! 何だよ、これ!!」
(この世界で、声は姿を与えられる。そう定義されている。ゆえに声は、形となり、音となり、より確かな事象を伝える)
「何、言って……」
 夏梨は声を張ろうとしたが、それは途中で途切れることになった。周りの景色が、また変わったからだ。
 そして広がった光景に、夏梨は凍りついた。

 抉られた地面、無残に壊れた校舎、赤い水溜りに倒れ伏した動かない友。

 それには、確かな見覚えがあった。
 夢だ。
 この間見た、あの夢と全く同じそれが、今も目の前にあった。
 そしてそのときに思った思考もまた、再生される。
 ――喰われた。
 体中から、熱が引いていく感覚が夏梨を襲う。けれどそれは最初に感じた戸惑いや恐怖のせいではなかった。
 衝撃で凍りかけた思考が、今それが目の前にある意味に気づいてしまったからだ。
「……待ってよ」
 我知らず震えた声で、夏梨は呟く。その目は繰り広げられている光景を見つめたまま、瞬くことすら忘れている。
「まだ生きてたとき、あたしはずっと、あんたの声を夢で聞いてた」
 そして、自分自身が死ぬ夢を見た。
 そう、見たのだ。聞いたのではなく。だというのに、夏梨は疑いもなく夢で聞くあの声が見せたものだと思った。
 事実、それは間違いなかった。なぜなら夏梨は現にその通りに死んだのだから。
 ――この夢に響く声は、決して過たぬ予言を可能とするのだから。
「なら……ならこれも、そうだって言うの!?」

 叫んだ声に応えはなく、ただ夏梨の目の前には手の出しようもない予言が形を持って、繰り広げられ続けていた。



***



「舐めてんじゃねえぞ、てめえ!!」
 開口一番で、彼は怒鳴った。
 けれどそれを向けられた夏梨はあいにくまだ半覚醒で、ぼんやりとした意識でそれを聞いたから、近所迷惑なほどの声量にも目を瞬かせた程度の反応しかしなかった。
 それが更に癇に障ったのか、壁を殴りつけた鈍い音が聞こえる。どちらかというと拳のほうが痛そうだった。
 そんなことを考えながら、ようやく意識を覚醒させた夏梨は、確認するように青年を呼ぶ。
「蛮原……うるさい」
「ああ!?」
 こめかみに青筋を浮かべる勢いで凄む青年は、院生だ。その名を蛮原蛮と言う。霊術院の合格発表の日以来、勝手に因縁をつけて、暇さえあれば夏梨に喧嘩を売ってくるはた迷惑な人物である。ついでに言えばいつも雄叫びをあげるからうるさくて仕方ない。一応貴族らしいが、そんな気配は微塵も感じたことがなかった。
 寝起きに何でこいつが、とぼんやり考えて、夏梨はそういえば寝起きであることに眉を寄せた。
「……なんであたし寝てたの? ていうかここ、四番隊?」
 寝ようと思って寝た記憶は一切ない。体を起こして周りを見渡して、夏梨はきょとんとする。
 清潔感のある白い壁と、寝ている寝台、薬の匂い。間違いなく、現在地は四番隊の救護所だった。
 総隊長の容赦ない鍛錬のおかげで怪我をしょっちゅうする夏梨はすっかり常連なので、間違いようもない。だが今は、自ら来た覚えがなかった。
 確か、院でいつものように授業を受けていたことは覚えている。そろそろ模擬卒業試験がどうのという話を聞いて、そして休み時間に入った。その後だ。最近は静かだった蛮原が突っ込んで来た――そして。
「ぼーっとしてたから、かーくんまともに攻撃食らっちゃったんだよ?」
「そうだっけ……って、うわっ」
 ひょこっと前触れもなく現れたピンク色に、夏梨は一拍遅れて驚いた。
「や、やちるちゃん?」
「剣ちゃんが隊首会行っちゃったから、遊びに来たの!」
「あ、そう……久しぶり」
 にぱっと無邪気に笑うやちるに笑みを返す。そう言えば最近は進級試験で忙しくしていたから、会うのは久しぶりな気がした。
 寝台の上にすっかり上がりこんで足をぱたぱたさせるやちるは、「久しぶり!」と元気に返して、それからくるっと蛮原のほうに顔を向ける。途端に蛮原が固まるのがわかった。
「この子、面白かったんだよ! かーくんが倒れちゃったあと、パニックになってすっごい絶叫してね!」
「うわあああァァ!!!  草鹿副隊長、おおお俺はこれで失礼しますッ!! ――くっ黒崎てめえ、いつまでも舐めくさってると今度こそただじゃおかねえからな!!」
 蛮原はそう喚くや、迷惑この上ない騒音と共に走り去って行った。
 やちるはそれを声をたてて笑いながら見送ったが、ふとそれを引っ込めると、今度は夏梨に向き直って首を傾げて見せた。
「かーくんをここに運んだの、あの子なんだよ?」
「え」
「目が覚めるまでいるって、ずーっとここで立って待ってたの。何ともないって、診た人が言ったんだけどね。すっごい心配してたみたい」
「……あいつ、あたしのこと嫌ってるのに」
 それは間違いない。何しろ初対面で殴り飛ばされ、その後ずっと喧嘩を売られ続けている。
 夏梨の呟きに、やちるは笑った。
「いい子だね!」
「……また、お礼言っとかなきゃね」
 変な奴だ、と口には出さずに苦笑して、夏梨は浅く息を吐いた。腕を動かしたりして、体の動きを確かめる。どうやら問題なさそうだった。よく覚えていないが、咄嗟の受身くらいは取れたのだろう。山での経験が功を奏したようだ。
「かーくん、どうしたの?」
「え?」
 不意に問いかけられて、夏梨はきょとんとして視線をやちるに戻した。
 やちるは相変わらず足をぱたぱたさせながら、思い返すように天井を見上げて続ける。
「何でぼーっとしてたの? いつもならあんなの、避けられてたのに」
 それは事実だっただけに、夏梨は一瞬返す言葉に詰まった。
 今まで蛮原に奇襲をかけられて防げないことはなかったし、今回特別彼が腕を上げたというわけでもない。詰まるところ、夏梨の気が抜けていたに過ぎないのだ。やちるはそれを的確に見抜いていたようで、夏梨は自身へのため息と共に「さすがだね」と呟いた。
「……今朝、変な夢、見てさ」
 手のひらをゆっくり開いて、閉じる動作を何となく繰り返しながら、夏梨はぽつりと話し出す。
「夢? 怖いの?」
「怖いって言うか、気味が悪いって感じかな。……前にも見たんだ。そのときは、夢が現実になった。それで、もしかしたら今度も本当になるかもしれないって、それが気になって」
 やちるはしばらく、目をぱちぱちとさせて夏梨を見つめていた。その視線を困惑と受け取った夏梨は、言葉を付け足す。
「ごめん、変なこと言った。忘れていいよ。あたしも忘れるし」
 あんなの、ただの夢なんだから。
 そう続けようとして、しかし叶わなかった。ちょうど言葉に被せるようにして、病室の戸が開いたのだ。
「む、ここか」
 戸を開けた主の声は聞こえた。しかし、姿が見えない。というか、顔が見えなかった。見えるのは胸から下くらいなのだ。
 思わずそれを凝視した夏梨だったが、現れた巨体は若干狭苦しそうに入り口をくぐって、やっとその全貌が明らかになる。
 見るからにふかふかした毛並みと、時折ぴくぴく動く耳。そしてつぶらな瞳は巨体に反して凶暴さを一切感じさせない。それでようやく誰かを理解した夏梨は、驚いて声を上げた。
「狛村隊長!?」
「あー、わんわんだ!」
「草鹿副隊長もいたのか。久しぶりだな、夏梨。また派手にやったようだが……相棒が心配しているぞ」
 狛村が言うや、彼の頭からタイミングを計ったように夏梨の寝台へ飛び降りた小さな影が一つ。夏梨の相棒たるその子犬は、夏梨の胸に突進してぱたぱたと尻尾を振った。
「ロウ……あんたいないと思ったら、また狛村隊長のとこ行ってたの?」
「儂のところへと言うよりは、五郎のところだ。良い遊び相手ができて、五郎も喜んでいる」
 寛大な狛村の言葉に、夏梨はすみません、と苦笑で返す。
 ロウは少し前から、狛村の飼っている五郎のところへ遊びに行くのが日課のようになっているのだ。夏梨の知らぬ間に勝手に七番隊に忍び込んだらしい。犬同士気が合うのかもしれないし、はたまた言葉をわかってくれる狛村に単純に懐いているのかもしれなかった。
 ともかく、ロウのおかげで良いのか悪いのか、またも隊長格との顔見知りが増えた夏梨である。
「ねぇねぇ、わんわんはこの子連れて来るために来たの?」
 やちるがロウを抱き上げながら問うと、狛村は巨体を揺らして頷いた。
「自力で戸が開けられないと言うのでな。気晴らしも兼ねて来たまでのこと」
「ああ、こないだ戸突き破って卯ノ花隊長に怒られたから……って違う! あんた何狛村隊長にどうでもいい頼みごとしてんだっ!」
 ロウの頬を両手で引っ張ると、至極嫌そうにロウはじたばたとする。大きくなればともかく、この姿でロウは人語を話すことはできない。それをある意味上手いこと使っているような気がした。
 と、不意にロウが夏梨のおしおきへの抵抗をやめる。あきらめたというよりは、何か固まったように動きを止めたロウに、夏梨は眉をひそめた。
「ロウ?」
 呼びかけた、その刹那。
 ――頭から冷水を浴びせられたような、嫌な感覚が夏梨の全身を襲った。
 そして、疑問も疑心も不安さえ吹き飛ばして、確信する。

 『あれ』が、起こる。
 夢が、現実になる。

 叫びだしそうな衝動は、過たず行動に変わった。
「む?」
「かーくん?」
 寝台を飛び出し、狛村とやちるがあげる声にも構わずに、手近な窓を押し開ける。開くや、硬直から立ち直り、心得た様子のロウが躊躇なく身を躍らせて、姿を大きなそれに変じた。
 その背に掴まったところで、夏梨は空の様子がおかしいことに気づく。
 真っ黒な雲が、ずるずると音を立てるように一箇所に集まって来ている。
「行け!!」
 あのひびが、出てくる前に。
 焦燥で速まる鼓動を感じながら、夏梨は叫ぶ。応えて、ロウが駆ける。
 ばきばきという、陶器が割れるような音がした。夏梨はその音に、びくんと体を震わせる。
 ――だめだ、まだ出てくるな。
 しかし、音はやまない。真っ黒な雲は、空の一部を支配しきった。そうしていびつな亀裂が、空に描かれる。
 すっかり見慣れた校舎が前方に見えた。同時に夏梨は、早口で文言を唱え始める。
 異様な事態に、多くの院生たちが外に出て来ているようだった。その中には馴染みの顔ぶれも多い。その視線が空の亀裂でなく、勢いを殺さぬまま疾走してくる夏梨に集まった。
 空の亀裂が、ばりばりと音を立てる。
 恐怖に呑まれた者が逃げ、悲鳴をあげる。
 夏梨も、叫んだ。

 そして。

 夏梨が霊術院に辿り着いた瞬間、緩慢な動作で醜悪な口を開いた空の化け物は、その場所を喰らったのだった。




[2010.07.05 初出 高宮圭]