Vox

-ユース・ラッシュ-

24 : つながること


 少女が目を開けると、そこには見たこともない景色が広がっていた。
 どろどろと何かが溶け出したような、それでいて触手じみた形を保ち、この空間全てを覆いつくしているものがある。足元には地面らしきものがあって、一本道がずっと先まで続いているようだった。
 ここはどこ、と少女は軽いパニックに陥る。――自分は霊術院にいたはずだ。とても頑張って、何とか今年入学したばかりで。さっきは、校舎にいた。そう、それでよくわからない空の割れ目に飲み込まれそうになって。逃げようとして、それで?
 少女は落ち着かない手を握り合わせて、じりじりと後ろに下がった。だが、反対にその腕を強く引かれた。
「何ぼさっとしてんの、あんた!! 死にたくないなら、走れ!」
「えっ、あ……っ」
 ぴしゃりと冷水をかけられたような気分だった。混乱していた思考にわかりやすい命令を受けて、腕を引かれるままに、少女は走り出す。腕を引くのは自分より小さな女の子だった。
 ゆるいお下げに結った髪が顔に当たって思わず目を閉じたら足元が危うくなった。咄嗟に壁に手をつこうとしたところで、背後からまた違う声が叫ぶ。
「拘流に触れては駄目! 取り込まれてしまうわよ!」
「ひっ!?」
 慌てて手を引っ込める。何だかよくわからないが、危険らしい。
 少女は息を上げながら、前を見る。前方にはいつの間にか動物が走っていた。犬だろうか、漆黒の毛並みをしたその獣は、背中に二人の人を乗せている。一方はほとんど引っ掛けてあるような有様だったが、いずれも霊術院の制服を身に着けていた。周りを見渡すと、他にも何人か霊術院の生徒が必死に駆けている。
「あ、あの、何がっ……どうなって……」
 腕を引く女の子に訊ねて、少女はようやくその女の子が誰であるかに気づいた。――今、霊術院でおそらく一番有名だろう人物、『チビクロ』という通り名がすっかり浸透した彼女であることに。
「ここは断界だ。チビクロが穿界門を開いた。――話は後だ、とにかく走れ」
 駆ける少女のやや後方から、淡々と説明した声があった。見ると、それは避難誘導をしていた霊術院筆頭生だ。その彼に先程少女に壁に触れるなと言った声が言う。
「冬春、怪我人がもう走れなくなるわ。あなただって……」
「俺は問題ない。無理でも何でも走らなければ、拘流は霊体を差別なく取り込む」
 そう冬春と呼ばれた筆頭生が答えた直後だ。拘流が、彼の袖を絡め取る。その拍子にバランスを崩した冬春がよろけて止まった。
「冬春っ!」
「手を出すな、真夜っ」
 手を伸ばそうとした真夜を硬い声で制止して、冬春は拘流から逃れようと腕を動かすが上手くいかない。
「冬春!」
 少女の腕を引いていたチビクロこと夏梨も気づいて腕を離すと、少女に行けと促してそちらに駆け戻った。そのとき、ほとんど同時に戻ったもう一人に気づいて、少女は思わず立ち止まる。
「――袖から腕だけ抜いて」
 上がった息の中で、しかし確かにそう言ったのは、前方の犬の背にいた一人だった。柔らかい蜂蜜色の髪を首の後ろで束ねている男子生徒だ。
 その彼の言葉に驚いた様子で顔を上げた冬春だったが、即座に言われた通りにする。そして腕が袖から抜けた途端、男子生徒は腰にあった浅打を抜くと、袖を断ち切って惜しげもなく浅打を投げ捨てた。
 拘流は袖を浅打もろとも自らの一部として取り込んでいく。その隙を見逃さず、冬春たちは再び走り出した。少女もまた夏梨に腕を引かれて走り出す。
「ナツル、お前、無謀なことを……」
「浅打は斬魄刀だけど、僕のじゃないからね。一緒に取り込まれることはないかと思って」
「それだけではない、お前、無理に動けば傷が――」
「それよりチビちゃん。どうする? ……どうやら、僕らはとことん運がないらしいよ」
 肩袖のない冬春はしれっと答えたナツルにまだ物言いたそうにしていたが、ナツルが後方を指して言ったのに視線を移す。
 そこに見えたものに、少女も冬春たちも、一瞬言葉を失った。
「拘突ってやつか……」
 毒づくように呟いたのは、少女の腕を引く夏梨だ。
 少女はあれ――後方に見える巨大な塊が何か知らないが、どうやら相当まずいものらしい。そういえば、みるみる迫っている気がする。あれに追いつかれたら、間違いなく一巻の終わりだ。
 と、少女は泣きそうになりながら前方に視線を戻して、きょとんとした。
「あ、あれ……? 前にいた、人たちは……」
 少女の呟きに、夏梨たちも前方を走っていた者たちが影も形も見えなくなっていることに気づいたらしい。困惑した呟きが口々にもらされた。
 背後から、拘突が迫る音がする。
「そんな、まさか――」
 この拘流とかいうものに取り込まれてしまったのだろうか。そんな不吉な考えが頭を過ぎったとき、唐突に前を走る夏梨が引いていた手を振り払った。
「え……っ」
「来るな!」
 その叫びに驚いて少女が立ち止まった瞬間、夏梨がまるで穴にでも落ちるように足元に消えた。
「ち、チビクロさん!?」
 少女は焦って足を踏み出す。そして――落ちた。
 重力に逆らわずに落ちていく感覚に、少女は悲鳴をあげることもできなかった。状況の把握に頭が追いつかない。その代わりに、思い出したことがあった。
 霊術院で空の裂け目に飲まれる寸前のことだ。誰かが「穿界門に入れ」と叫んだのが聞こえた。きっと夏梨だ。けれど少女は恐怖で動けずに、結局犬と共に駆け込んできた夏梨に放り込まれるような形で、穿界門に入った。
(助けられて、ばかりだ)

 お礼を言いたかったのに、と思いながら、少女は意識を失った。



***



「ねえ、お兄ちゃん。何か落ちてくるよ?」
 その日、昼下がり。ユウイチは雲に覆われた空を指差して、義兄に訴えた。
 義兄はほりうちひろなり、と言う。ユウイチがここに来て、家族の一員として迎えてくれた優しい人のひとりだ。
 何かって何だ、とひろなりが空を見上げて、まもなく。
 ドカン、と爆弾さながらの衝撃と轟音を立てて、落ちてきたものがあった。
「な、なに……?」
 もうもうと立ち上る土煙が、落下物の場所を示してくれる。ユウイチはおそるおそる、ひろなりと一緒にそこへ近づいた。

「……さすが冬春。咄嗟に吊星やってくれて、助かった」
「いや……皆、無事か?」
「今度はどこに出たのかしら? 断界じゃないなら、どこでもいいけれど……」
「まさか、断界に落とし穴があるとは予想外だったよねぇ……」

 土煙の中からは、人の声がした。ユウイチはきょとんとしたが、ひろなりが慌てて踵を返そうとする。
「家に戻ろう、ユウイチ。もしかしたら旅禍かもしれない」
 ひろなりが腕を引くのに、しかしユウイチは抗った。踏みとどまって、「でも、お兄ちゃん」とひろなりを見上げる。
「旅禍でも、おじちゃんたちみたいな人もいるし……」
 ユウイチの言う『おじちゃん』が誰かわかったのだろう、ひろなりは言葉に詰まって、困った顔をした。
 少し前の記憶になるが、決して薄れることはない。どこからともなく落ちてきた旅禍。詳しくは知らないが、その者たちは結局、この尸魂界を救った。それ以前に、ユウイチは彼らに魂送という形で救われたことがある。
 そんなやりとりをしている間に、土煙が薄くなった。そしてようやく見えてきた人影に、ひろなりが少し安心した様子でユウイチの頭を撫でる。
「……ああ、いや。どうやら今回は、旅禍じゃないらしいよ」
「え?」
「あの制服、霊術院の生徒だ」
 言われて見れば、土煙の中から現れた数人は皆同じデザインの制服を着ていた。ユウイチも何度か里帰りする霊術院の生徒は見たことがあるから、わかる。
 どうやら隠れて様子を伺っていた他の住民たちもそれに気づいたらしく、周りがにわかに賑やかになった。
「何だ、院生が空から降るなんざ、何かあったのか?」
「さあねぇ……最近は何かと物騒だから」
「あっ見て、誰かこっちに来るよ」
「って、ありゃあ……水町さんとこの娘さんじゃないかい?」
「もう一人は、ずいぶん小さいねえ」
 賑やかさに気づいたのか、うずくまる院生の中から一人二人、立ち上がってこちらに来る人影があった。その一人に見覚えがある人が数人いるらしく、住民たちも受け入れる体制で二人を迎えた。
「あの、突然申し訳ありません。私は水町真夜と言います。……ここは西流魂街ですか?」
「ああ、やっぱそうだ。あんた、呉服屋『錦闇』の真夜ちゃんだね。ここは西流魂街で間違いないよ」
「あら、毎度のご贔屓、ありがとうございます。よかった、やっぱりここは流魂街だったのね。……夏梨、どうしましょう?」
 真夜の問いに、夏梨と呼ばれた隣にいるまだ子供と言って差し支えない容姿の少女が答える。
「怪我人はこれ以上動かせないよ。冬春が無線持ってたみたいだから、それで連絡してみよう。……それより、この辺に医者っている? いなくても包帯とかあったら、貰えると嬉しいんだけど……」
「それなら、村長からもらって来ましょう。医者らしい医者はいませんが、村長が一応持ち合わせていらっしゃいますから」
 夏梨の要望に答えたのは、ユウイチの隣にいたひろなりだった。その声にこちらを向いた少女が、ほっとしたように笑う。そして「持ってきてくれたら、助かる」と言い残してばたばたと院生たちのほうに戻っていった。――その少女の顔に、ユウイチは思わず「あ」と呟く。
「どうしたんだい?」
 ひろなりが首を傾げて問うのに、ユウイチはどこかぼんやりとした口調で答えた。
「ぼく、あの人知ってるよ」
「え?」
「――あの人のところ行って来る!」
 言うなり、ユウイチは人だかりを小さな体で潜り抜けて、走り出した。


***


「冬春! 無線、使えそう?」
 戻るなりで聞いた夏梨に、冬春は頷いた。
「ああ。何とか動きそうだ。……やはりここは流魂街なのか?」
「どうやらそうみたいよ。でもまさか、断界から落ちて流魂街につくなんて……」
 信じられない、と言いたげな真夜の呟きに被せるように「面白いよねぇ」と言った声があった。
「本当に、予測不可能なことするよ、チビちゃんは。普通咄嗟に穿界門開けようとかしないって」
「……それでも逃げようとしなかった奴が、何を言ってる」
 無線をいじっていた冬春が不機嫌な視線を向けるが、ナツルはあっさりと笑った。
「あのままいたらどうなるのかなって、気になったんだもん。……君に穿界門に投げ込まれちゃったけどね」
「それで冬春もナツルも怪我したわけ? ……ナツル、あんたやっぱバカでしょ」
 呆れた目でナツルを見ながら夏梨が言うと、ナツルは片手で血の滲む腹を押さえながら、「生きてるんだから、いいじゃない」と言ってのける。
 夏梨が無理やり開いた穿界門に入る直前、ひずみの余波にやられてナツルは腹に、冬春は肩に傷を負った。彼らだけでなく、穿界門に逃げ込んだ十人の院生のほとんどが、重軽問わずどこかに怪我をしている。
 断界で夏梨が手を引いていた少女は無傷のようだったが、未だ意識が戻っていないようだった。
 地獄蝶なしで穿界門を開いたために辿り着いた断界で走ったことや、唐突に墜落したのも響いたらしい。おかげで夏梨たち以外のほとんどが地面に倒れこんでいる現状である。ちなみに夏梨の相棒であるロウは、運んでいた重傷者のベッド代わりになっていた。
 それらを見渡して、夏梨は表情を暗くした。
「……ごめん。たぶん、あたしが無理やり穿界門を開けたから、何か変になったんだと思う」
 焦って無茶をやらかした自覚のある夏梨が口にした謝罪に、しかし冬春たちは即座に否定を返した。
「謝るな、チビクロ。お前の機転がなければ、俺たちはおそらく一人も助かっていない」
「そうよ、夏梨。むしろ私たちは、あなたにお礼を言わなければならないわ」
「ていうか普通、無理やりで穿界門は開けられないからね」
 興味が尽きない子だよ、とナツルが笑ったときだ。ぱたぱたと小さな足音が後ろから近づいてきた。
 それに気づいて夏梨が振り向くのと、駆けてきた小さな少年が口を開くのは、ほぼ同時だった。
「あのっ」
「あれ、あんたさっきの……」
「ぼく、シバタユウイチって言います。覚えてるかわからないけど……ぼく、お姉ちゃんのこと知ってるよ!」
 ユウイチと名乗った少年は、夏梨より少し年下のようだった。やちると同じくらいだろうか。だが、夏梨の記憶に少年はいない。
「知ってるって……あたし、さっき初めて会ったと思うんだけど」
「あのね、ちゃんと話したこともないけど……お姉ちゃん、病院にいたよね? ナースさんだったよね?」
 もどかしそうに伝えるユウイチに、夏梨はしばらく考えて、目を見開いた。
 病院。ナース。確かにそれは、覚えがある。だがそれはここでではない。生きていた頃、現世でのことだ。
「あんた、いったい……」
「インコのシバタって言って、わかる? ――ぼく、おじちゃんとか一護のお兄ちゃんに助けて貰ったんだ」
「インコ……」
 呟いて、すぐに結びつく記憶があった。忘れもしない、あの衝撃的な記憶。そして、一護は夏梨の兄の名だ。

 ――まだ、現世で生きていた頃。
 あるとき夏梨は病院で、インコを見た。
 それは患者が連れていたペットで、患者は兄の友人だった。インコを連れていたからインコのおっさんと記憶したから間違いない。そのおっさんは、兄と共に戦った一人だ。
 インコに別の霊が入っていることは、一目見てわかった。
 わかったと言うよりは、わからざるを得なかった。なぜならそのインコから夏梨に流れ込んだ記憶があったからだ。
 猟奇殺人犯に、目の前で母親を殺されるという、凄惨な記憶。
 おそらく歳が近いせいで共鳴したのだ。母を失った子供という立場が同じだったというのもあったのかもしれない。
 それを見て、放ってなどおけなかった。でも自分ではどうしてやることもできなくて、兄に助けを求めた。
 そして兄は、救ってくれたのだ。それは確かに感じた。兄は、自ら言いはしなかったけれど。

「……思い出してくれた?」
「ああ……うん。あのときは、大変だったね」
 ぽんぽんと頭を撫でてやれば、ユウイチは嬉しそうに笑う。
「夏梨、知り合いだったの?」
 真夜がきょとんとした様子で訊ねて来て、夏梨は頷いた。
「うん。……て言っても、どっちかって言うとあたしの兄貴の知り合いってとこかな」
「兄って……チビちゃん、きょうだいいたんだ。しっかりしてるから、てっきり一人っ子だと思ってたのに」
 ナツルが意外そうに言った言葉に、「兄貴だけじゃなくて、双子の姉もね」と言ってやった。双子かつ末っ子というのにナツルたちが驚いている間に、夏梨はユウイチに向き直る。
「にしても、あんたこそよく覚えてたね」
 夏梨はあの記憶を見たことが印象的だったから覚えていたが、ユウイチのほうはちらと見た程度だったろう。
 するとユウイチは、どこか申し訳なさそうな表情になった。
「お姉ちゃん、ぼくの記憶、見ちゃったでしょ?」
「え……」
「見せちゃったなって、ぼくもなんとなくわかったんだ。だからね、気になったの。……ごめんね」
 あんな記憶を見せて。
 そう言葉にはせず言われた気がして、夏梨はしばらく黙った。その後、ぐしゃぐしゃとユウイチの頭をかき混ぜるように撫でる。そして仕上げるようにぽんっと軽く叩いて、ユウイチを見下ろした。
「あんたのお母さんは、最高だ。――同じくらい最高なお母さんを持つあたしが言うんだから、間違いない」
 そう言って笑ってやれば、ユウイチはしばらくきょとんとして、それから泣きそうに目にいっぱい涙を溜めて、そして笑った。
「……うん!」

 それからしばらくして、ユウイチ、と呼ぶ声が聞こえてきた頃だった。
「あ、ひろなりくんと村長だ!」とユウイチが手を振るのと、
「繋がった」と冬春が無線を掲げたのは少しの差であった。
 ひろなりたちに駆け寄るユウイチを見ていた夏梨は、冬春の声にすぐさま冬春のそばに行く。
 冬春の持つ無線からは、ざらざらと砂嵐が聞こえたが、確かに通信は通じているようだった。
「いける? 冬春」
「呼びかけてみよう。――こちら、霊術院筆頭・時任冬春。応答願います、こちら……」






シバタとの話をずっと書きたくて、ようやく辿り着きました……(捏造すみませ……)!
[2010.07.19 初出 高宮圭]