『……こちら、霊術院筆頭・時任冬春。応答願います、こちら――』
「時任!! 聞こえるか、俺だ!!」
確かに届いたその音声に、技術開発局にいた百目鬼がオペレーター席のマイクを引っつかんで、なりふり構わず叫ぶ。すると、ざりざりとうるさいノイズが一瞬一際大きくなり、ハウリングしたようにキンと耳に痛い音を立ててから、『百目鬼先生』という声をはっきりと届けた。若干の雑音はあるものの、会話に差し障りはない。
「お前、無事なのか!」
『はい。俺を含めて十名無事です。怪我はしていますが、皆命に別状はありません』
その報告に、長い安堵の息をついた百目鬼を初めとして、先程より柔らかくなった空気が技術開発局内に流れた。
『……ですが、俺たち以外の生徒たちは、ひずみに呑まれたようです』
常から感情の起伏を感じさせない冬春だが、淡々とした声音に滲んだ悔しげなそれに、百目鬼は前のモニターに映された廃墟じみた霊術院を見て、声を少し落ち着けた。
「……そうか。だが、お前たちだけでも助かってよかった」
と、百目鬼が本心からのその言葉を伝え終わるや、百目鬼の持つマイクをひったくるようにして取った者があった。技術開発局の現局長たる、涅マユリである。
「長話は後にしてくれたまえヨ。――時任とか言ったネ。念のために聞いておくが、さっき霊術院で穿界門を開いたのは君かネ?」
すると突然変わった声に驚いたのか、冬春にしては珍しく動揺した様子の返事が返った。
『いえ……俺ではありません』
「なら用はない。さっき穿界門を開いた子供に代わりたまえヨ」
不穏に低められたマユリの声音に、冬春も言い知れない何かを感じたらしい。少し間を空けた後に肯定を返すと、通信機を受け渡す音ががちゃがちゃと聞こえた。
涅隊長、とさすがに非難する調子でで百目鬼が声をあげたが、マユリは素知らぬ顔で自身の前にある画面を睨みつけている。
『――代わりました』
しばらくの雑音の後、冬春に代わって聞こえてきた少女の声に、やちるが嬉しそうに「かーくん」と呟く。声の主は間違いなくチビクロこと夏梨であった。
「穿界門を開けたのは君だネ」
声が変わったことを確認するや、何の前置きもなくマユリが切り出す。すると微妙な間があった。それから、少し通信機から遠ざかったような音量で、
『……誰?』
『涅隊長だ、十二番隊の隊長で、技術開発局の局長でもある。印象的すぎる声だから、おそらく間違いない』
『あー、それわかるなあ。耳に張り付きそうな声だよねぇ』
『声だけじゃないわよ、一目見たらうっかり夢に出てきそうよね』
『お姉ちゃん、村長が包帯とか薬とか、持ってきてくれたって!』
『ありがと、ユウイチ。あ、その人村長さん?』
「……ちょっと待て、あいつらどこにいるんだ?」
ぼそりと呟いた檜佐木と同じく、局にいる誰もが怪訝な顔になった。そんなときだ。
「あ……あーーっ!!!」
「うるせえぞリン! 何叫んでんだ!」
唐突に悲鳴のような声をあげたのは、忙しなく機器を操作していたリンだ。阿近に一喝されて、それでもわたわたとするのをやめられないらしい。
「あの、あのっ!」
「何だ、さっさと言え」
「とっとりあえず、モニター出します!」
ひっくり返った声で言ったリンは、それでも操作を過たずに前のモニターに一つの映像を映し出した。
そこに映ったものに、一瞬どよめきが走る。――モニターには、通信をしている冬春たちを始め、傷を負って倒れた院生たちおよそ十名が、映し出されていた。
リンはひっくり返った声のままで、その映像がどこからのものか、伝える。
「ざ、座標番号3365,77,02……西流魂街、防衛監視装置からの、リアルタイム映像です」
「西流魂街だと? 何故そんなところに……貸せ!」
今度マユリからマイクを奪い取ったのは砕蜂だった。マユリが「何をするんだネ!」と騒いだが、砕蜂は構わずマイクに叫ぶ。
「二番隊隊長・砕蜂だ。穿界門を開けたという院生はお前か!」
『あれ、また変わった? ……あ、ええと、はい。そうですけど……何か失敗したみたいで、断界から落ちたら、流魂街で』
「断界から落ちた? どういうことかネ、詳しく――」
「邪魔をするな。――正直に答えろ、貴様、浦原喜助を知っているのか」
砕蜂が興奮したそのままで訊いたそれには、しかし返答がなかった。代わりに、やいのやいのと話す声が聞こえる。映像を見る限り、どうやら夏梨たちは流魂街の住人と話しているようだった。
『うちにある治療具はとりあえず一式持って来たのじゃが、足りるかね?』
『うん、十分だよ村長さん。ありがと』
村長と呼ばれる老人から大き目の箱を受け取った夏梨は、無線をその箱の上に置いて話を続ける。
鬼道での治療がどうのと話し出した夏梨たちを砕蜂は睨むように、他の者たちはどこかぽかんと見ていた。だが、その者たちの中で、静かに総隊長に進言した者があった。
「……四番隊の一個小隊を西流魂街に向かわせます。勇音、手配をしますよ」
進言したのは卯ノ花だ。総隊長も頷き、卯ノ花と勇音が局を出ようと踵を返す。
まだ村長と夏梨たちの会話は終わらないらしく、その間に少し冷静さを取り戻した砕蜂がため息をついて、マイクを適当に隣にいた白哉に押し付けた。
白哉はそのマイクを、黙って更に隣の浮竹に渡す。浮竹はそれを咄嗟に受け取ってしまい、少し困った顔をした。だがとりあえず保留としたらしく、隣の京楽に話しかけた。
「何にせよ、無事でよかったじゃないか。それにしてもあの子はいつも驚かせてくれるなぁ」
「ホントに、無茶のやり方が普通じゃあないね。あの子を見てると、何となく一護くんを思い出すよ」
「一護くんか、確かにね。一護くんは無茶の代名詞みたいな子だからなあ」
浮竹があははと笑って、京楽も笑う。
その会話をやや後方で檜佐木と聞いていた吉良が、ぼそりと呟いた。
「……檜佐木さん、夏梨くんの苗字、覚えてます?」
「奇遇だな、俺も同じこと考えてたとこだ。……いや、まさかとは、思うが」
そんな会話をしている間に、夏梨たちのほうに動きがあった。どうやら怪我の治療を自分たちで始めたらしい。おかげで通信機が何故か村長の手にあった。
『……ところでユウイチ、この方たちとは知り合いかね?』
ユウイチというのは村長の隣にいる少年のようだ。少年は笑顔で頷く。
『うん! あのね、村長も知ってると思うんだけど』
そして少年は、夏梨を指差して満面の笑顔で言った。
『このお姉ちゃん、一護お兄ちゃんの妹さんなんだよ!』
その一言は、一瞬で隊長格の面々の動きを奪うだけの破壊力を備え持っていた。
***
「あれ、一兄ここにも来たの?」
ナツルに慣れた手つきで応急処置を施し終えて、夏梨がユウイチたちを振り向く。ユウイチはこくんと頷いた。
「お姉ちゃんたちみたいに落ちてきたんだよ」
「ホント何してんだか……って、何か村長さん固まってるけど」
大丈夫?と夏梨が首を傾げたときだ。村長の手にあった無線から、突然キインという耳に痛いハウリングが鳴った。驚いた村長が思わず無線を取り落としそうになって、それをユウイチが慌てて受け止める。
「村長、大丈夫?」
「う、うむ……すまぬのう、ユウイチ。ところでお嬢さん、あんた本当に――」
村長はどこかうろたえたような様子で夏梨を見る。それだけで兄の何を知っているかは察せられた。どうやら一護は流魂街でも有名らしい。
「一護って――黒崎一護?」
夏梨の背後からも、驚愕の滲んだ声音がかかった。ナツルだ。だが振り向けば、ユウイチの声が聞こえたらしい真夜や冬春も動きを止めて夏梨を見つめていた。
彼らの表情を見て、彼らもまた兄を、その偉業を知っていることを理解する。流魂街にまで広まっているのだ、霊術院の生徒たる冬春たちが知らないわけもない。尸魂界を揺るがすかの戦争と、それに置ける兄・一護の英雄然としたその活躍を。
隠していたわけではない。だが、どこかきまりが悪くて夏梨は苦笑を口元に滲ませた。
その沈黙が何よりの肯定となり、ナツルたちは殊更呆然とする。
と、そこで夏梨は無線が再び沈黙してしまったことに気づいた。ユウイチが持ったままの無線に耳に近づけてみるが、砂嵐さえ聞こえない。
「あれ……切れた?」
「え」
「叩いたら治るかな?」
「待て」
いかにも古めかしい無線を、容赦なく叩こうとした夏梨から慌てて無線を取り上げたのは、冬春だった。取り上げて、そして彼にしては珍しく、わかりやすい呆れた表情で夏梨を見る。
「……お前は本当に、びっくり箱のような奴だ」
一緒にいると、ひたすら一方的に驚かされる。
普段ちっとも驚いた素振りなど見せないくせに、その彼からそんなことを言われて、夏梨はきょとんとする。
「……いつ驚いてたのさ」
思わず訊ねた夏梨の問いに、冬春の後ろにいた真夜とナツルが吹き出した。
「それを言ってはダメよ、夏梨」
真夜が夏梨の隣に来て、からかうように冬春を見る。
「まあ、冬春にしてはいい表現だと思うけどね。……もうないの? 僕たちを驚かせる仕掛け」
憮然とする冬春の後ろで、手当てを受けた脇腹を庇いながら、ナツルが起き上がった。驚いた顔から一変して、なぜかこの上なく楽しそうな表情の彼にも、夏梨はきょとんとしてしまう。
その視線に応えるように、ナツルは続けた。
「君のこと、ずっと近くで見てたんだよ。今聞いたことも、まあ君ならありなんじゃない?」
「そうね、オチとしては悪くないわ。ねえ、冬春」
「……チビクロだからな」
あきらめるようにつかれたため息に、彼らの声音や表情に、これまでとの違いは感じられない。それを見て取って、夏梨は思いがけず自分がほっとしていることに気づいた。
肩の力が抜ける。頬が緩む。
隠しているつもりはなかった。けれど今まで誰にも言わなかったのは、誰より夏梨がその事実を知られたときにどうしていいかわからなかったからかもしれない、と今更思う。
他人がどう思うか、そういうことを気にする性質ではない。夏梨は無意識に、自分で自分の持つ生まれに戸惑っていたらしかった。
それをあっさりと肯定されて、気が抜けた。――ただし、このとき通信の途絶した無線の向こうでは到底あっさりと肯定されてはいなかったのだが、それを夏梨が知る術はこのときにない。
どうやらユウイチの声が聞こえたのは、近場にいたナツルたち三人だけらしい。少しそれにほっとしながら、夏梨は目をぱちくりとさせているユウイチの頭を一つ撫でて、その手にある無線を引き取った。
ざり、と再び無線が息を吹き返したのは、そのときだ。
お、と言って四人して無線を覗き込む。そして聞こえて来たのは、
『――逃げなさい!!』
ばりん、と皿を重ねて割るような音がした。目を見開いてそちらを見れば、頭の上の空に、直径一メートルほどのあの穴があった。
小さいが、底なしの闇と得体の知れない不気味さを持ったそれは間違いなくあのひずみだ。
「な……っ」
四人は息をのんだ。だが一瞬の判断ののちに、ユウイチや村長を庇ってそこから離れる。すると次の瞬きで、その場の地面が抉られた。
「なんだ、あれ……」
呟く夏梨に答えてくれるはずもなく、小さなひずみは音もなく空を動く。そして再び夏梨たちにその小さな、しかし狂暴なあぎとを開く。
「追って来たと?」
村長を抱えて避難させた冬春が夏梨の隣で怪訝そうに呟いた。
「大きさが違うわ」
「そのうち大きくなるのかもしれない。……となれば、このままここにいては村や動けない院生が呑まれる」
「じゃあ……」
「僕らが囮になるしかなさそうだねえ」
真夜の言葉にあっさり続けて、ナツルは夏梨を見て笑った。
「もうチビちゃん、やる気でしょ?」
既に傍らに漆黒の狼を呼び寄せている夏梨は、億劫そうにため息をつく。「もう、さっきみたいなハッタリ、きかないからね」と念を押した。
『君たち! 聞こえているのかい、いったい何を……』
無線から叫ぶのは、声からしておそらく浮竹だった。その声に冬春が淡々と答える。
「しばらく、時間を稼ぎます。その間に救援を頂ければ幸いです」
彼はこんなときまで礼儀正しい。夏梨は思わずそれに苦笑して「大丈夫だよ」と無線に声をかけた。
「さっきと同じやつなら、時間くらい稼げると思う。……あたしの相棒がいるから」
夏梨は、寄り添うロウの頭を片手で引き寄せる。浮竹が声色を変えた。
『待ちなさい、夏梨くん! 君はまさかあれを試す気かい?』
それに夏梨は答えなかった。その代わり、不敵に口の端を持ち上げる。
小さなひずみが、もうひとつ空に顔を覗かした。どうやら少しずつ増えていくと見てよさそうだ。
ぐずぐずしている時間はない。夏梨は他の三人に目配せして、避難させるときに繋いだままだったユウイチの手を離した。
「お、お姉ちゃん、何するの?」
「大丈夫だよ。一兄みたいに護廷十三隊に喧嘩売るほどのバカやるわけじゃないから。あんたは家に戻りなよ」
いいね、と繰り返してその手に無線を押し付け、夏梨たちは走り出した。
小さなひずみがそれを追う。いくつか増えた。そしてそれらは繋がりあって大きさを増す。
走る夏梨に、ナツルが何気ない口調で訊いた。
「勝算は?」
「なきにしもあらず」
「それは、頼もしい。……ところで、もう一ついい?」
ナツルは脇腹を庇いつつ、自分を『乗せている』ものを見下ろす。
「断界にいるときもだったけど、何で僕、この犬っぽいのに乗せられてるの? これ何?」
「あたしの相棒をこれって言わないでくれない? それに、その傷で走れんの」
「……ロウって子犬だったよね」
ナツルの困惑に、夏梨は一言で答えた。
「伸縮自在」
村から十分離れた何もない野原で、四人は足を止めた。
そしてそのとき初めて、背後を振り返る。
ずいぶん遠くなった村のほうに、多くの人影が見えた。どうやら救護か救援がかけてつけてくれたようだ。
だが、それより目前に迫ったものに、四人は声もなく、ただぞわりと鳥肌を立たせる。
――まずい。
そう思ったのは、おそらく四人ともだ。
空では小さなひずみが寄り集まって、大きなひずみを構築しようとしていた。最終段階のように、一度その凶悪な姿を空に隠す。
――動けない。
蛇に睨まれた蛙のごとく硬直する体を感じて、夏梨は焦りを募らせた。体が動かないせいか、頭が余計に回る。余計な想像をしてしまう。
頭の上でばきばきと陶器が割れるような音がした。
聞き覚えのあるその音に、どくりと鼓動が波打つのがわかる。
ガラスを無理やりへし折るような、みしみしという悲鳴じみた音と共に、割れていく音がする。
ぎこちない動作で空を振り仰ぎ、夏梨は再び、その瞳に空の裂け目を映した。
底なしの闇、あるいは無限の空虚をたたえ、満たされることのない渇望に喘ぐ化け物が、そこにいる。
うそ、と誰かが呟いた。自分だったのかもしれない。わからない。
ただ一つわかるのは、ここにはもはや逃げ場はないという事実だけだった。
[2010.08.17 初出 高宮圭]