彼女は言った。
―― 一分の滞りもなく、お前の生は進むであろう。大きな危機もなく、変化もなく、あらかじめ定まった宿命と、理に従順なままに。
彼は思わず、表情を失った。面倒なこの世を穏便に渡るために身に着けた当たり障りのない笑みすら、浮かべる余裕を奪われた。
その表情を見て、彼女は切なそうに目を細めた。
―― 愛しい子。
そして、酷く綺麗な笑みで、ささやいた。
―― 愛しい我が子。お前の未来に、幸多からんことを。
それを最後の言葉にして、彼女は永久の眠りについた。
遺された一人の息子は、それきり動かぬ母を前に、心を決めた。
母の遺した平穏無事な自分の未来に抗うことを、決めた。
***
(……痛い)
言葉を声にもできないほどの意識で、彼は目を覚ました。半覚醒でぼんやりとした頭がはっきりとしていくに従って、体中を苛む痛みに堪え切れずうめく。
何が起きたのか、まだ思考に足らない頭がゆっくりと回り出して、目覚める前に見ていた夢が、瞼の裏を過ぎった。
(――はは、うえ)
「ナツル!!」
夢から強引に引き剥がすような声に、ナツルは一気に意識を覚醒させた。その途端に襲った息も詰まるような激痛に、反射的にうめく。
「よし、意識戻った。これなら何とか……ナツル、聞こえる? あたし誰だかわかる?」
覗き込んで来た小さな人影に、視線をやる。本当は声だけでわかっていたけれど、その姿は間違いなくナツルのよく知るそれだった。
「チビ……ちゃん……、あれ、僕……」
「質問は後。とりあえず今は一番痛いところ教えて」
「……右の、腹」
言うと、チビちゃんこと夏梨は、躊躇いなくおそらく血まみれだろうその部分に触れた。そして裂かれた服の間から傷を確認すると、不安げな口調で「内臓まで行ってないといいんだけど」と呟く。そして手早く布を巻きつけると(どうやら、自分の制服を破ったらしい、彼女の制服の袖はなくなっていた)、鬼道を施す。
断続的に続く痛みの中でそれを眺めながら、ナツルは何がどうしてこうなっているのか、ぼんやりと考えてみた。
得体の知れないひずみを、夏梨が撃退した。それにほっとして、彼女のとんでもない隠し技に笑った。それは覚えている。それから、そうだ。突然足元がなくなったのだ。そして四人して、落ちた。
穴の中は、最初何もないかに思われた。けれどしばらく落ちるうちに骸骨の漂う不気味な空間に達した。そしてその骸骨たちは襲ってきたのだ。落ち続ける四人めがけて。
夏梨とナツルは丸腰、冬春と真夜も疲弊していて、まともにやりあえるはずもない。落ちる勢いに任せてそこをなんとか切り抜け、そしてようやく底に辿り着いた。落ちただけではあるが。
そこは見たことも聞いたこともない空間で、どこだろうと思った――そこで記憶が途切れている。
となればこの傷はあのとき、骸骨たちにやられたものなのだろう。
ナツルはいまいち自由のきかない体を感じながら、夏梨に問いかけた。
「チビ、ちゃん。もしかして僕……死にそう?」
「……何嬉しそうに言ってんだ、バカ。残念ながらこれくらいじゃ死なないよ。あたしの応急処置でも何とかなる」
ものすごく不機嫌に返されたが、ナツルはこみ上げる笑いを抑えることができなかった。笑うと傷に響いたし、夏梨が余計に厳しい顔になるのが見えたけれど、気にしない。
「だって嬉しいんだもん。そっかぁ、僕、死にそうなんだ……。へええ、なるほど。こういうのも、ありかな」
「何とち狂ったこと言ってんの。死にたかったとか言ったら、蹴り飛ばすよ」
「言わないよ。生きてることも、嬉しいからね」
くすくすと笑いながらきっぱり言えば、夏梨は怪訝そうな顔になったが、治療に専念しなおすように傷に視線を戻した。
少しずつではあるが、痛みが引いてきている。大したものだな、と思いながら、ナツルは少し視線を動かした。すると延々と続く白と黒の模様が見えた。まるで鯨幕が張り巡らされたような様子で、ここがやはり見たことも聞いたこともない場所だということを理解する。
「……二人は?」
かすれた問いを漏らせば、夏梨が顔を上げて、ナツルを見た。その目を見て、ナツルは笑う。
「その顔ってことは、無事なんだね。冬春も真夜も」
「冬春と真夜姉は、ここがどうなってるか見に行った。二人はほとんど怪我してないよ。あんたが一番重症」
そう言った夏梨は、また傷に視線を戻しながら何でもない口調で言った。
「二人とも心配してたよ、あんたのこと。冬春なんか、表情なくても心配だってわかる顔してた。……何があったか知らないけど、ちゃんとお礼くらい言っときなよ。名前呼ぶくらいには、仲いいんだろ」
「……口が滑ったかな。呼んでた? 僕」
「冬春もね」
ずっと気づかなかったの、と呆れたような口ぶりで返す夏梨に、ナツルはしばらく沈黙した。そして、自分の傷の手当ての様子を見て、ぽそりと訊ねる。
「手当て、あとどれくらいかかる?」
「まともに動きたいなら、三十分は我慢しな」
治療系の鬼道は得意じゃない、と言う夏梨に、ナツルは「のんびりでいいから」と笑って見せた。
「じゃあその間、僕の昔話でも聞いててよ」
―― あるところにね、母親がとても大好きな男の子がいたんだ。まあ、僕なんだけどね。
その母親は、その子から見ても変わった人だった。どれくらい変って、右も左もわからないくらいの子供を
まず遊郭に連れて行って一から十まで教えるような、そういう変な人でね。
……え、遊郭って何って、それはまあ、真夜辺りに訊いてごらん。僕から聞いたって言わないようにね?
ともかく、母上は変わった人だったよ。どうにもならない状況をわざと作って、それをどうにかするのが好きだった。
つまらないことがとにかく嫌いでねえ。面白いものが何より好きなんだ。
僕に似てるって、そうかな? 僕はまだ謙虚なほうだよ。自覚あるもん。
でも、そんな母上の職業って、何だったと思う? 占い師だよ、占い師!
あれだけ面白い物好きな母上が、一番嫌いそうな職業だよね。事実大嫌いって言ってたっけ。
それも並じゃなくて百発百中の、尸魂界一の占い師とまで言われちゃってて。言われるたび八つ当たりに出かけてた。
それでもやってたのは、家業だからだよ。うちの伝統。
でも、だから母上は一人息子の僕のことだけは占わなかった。好きにしろって言ってくれてね。
だから僕は、霊術院に入ったんだ。何でって、僕にまるで死神の才能がなかったから。……ちょっと違うな。
『僕は死神になれない』と信じてたから。ありえない道に行ってみようと思ってね。
冬春と真夜に会ったのは、このときだよ。六年前。同じ一年で、組は違ったんだけど。
そのとき僕は、落ちこぼれだったからねえ。色んなコネでとりあえず入学しただけだったし。
でさ、あんまりやる気がなさすぎて、冬春に怒られたんだよね。
びっくりしたよー。突然出てきたと思ったら、「やる気がないなら出て行け!」て、吹っ飛ばされたの。
僕はそのとき冬春の顔も知らなかったんだけどね、僕ってば有名人だったから。問題児で。
で、すっごい大喧嘩。
そのときなんだけどね。僕うっかり冬春に勝っちゃったわけ。
もうなんか、どっちも「アレ?」って感じだよね。あれは面白かったなあ。
まあそんなこんなで、僕に実は死神の能力あるってわかったんだけどさ。
僕はあんまり気にしなかったんだけど、冬春とか周りが気にしてねえ。
いつの間にか一組で、いつの間にか三年になってた。面白かったからいいかって思ってたんだけどね。
「……あんたってずっと、そのノリで今まで生きて来たんだ」
心底呆れ果てたように呟いた夏梨に、ナツルはにっこりと笑った。
「じゃなきゃ僕じゃないでしょ?」
ようやく口がいつもの調子で回るようになってきたらしい。治療のおかげだ。
ナツルは続けた。
「三年の冬だったな。母上がね、襲われたんだ」
夏梨が驚いて、こちらを見たのがわかる。
「あの人は弱くなかったよ。見たことはないけど、きっと僕よりは強かった。――でも、母上は負けを『選んだ』」
「選んだ?」
「そう。それが、自分の占いになかったことだったから。自分が負けることで、占を変えることを望んだ」
「そんな……っ」
「バカなことだと思う? でも母上は、それを切望したんだ。……そして僕にも、それを望んだよ」
ナツルは自分のものではないようにずっしりと重い腕を、少し持ち上げる。そしてその手を、胸に置いた。
胸に手を置いて、そのものの先を見る。それが母親のスタイルだった。
「……母上は最後の最後に、僕を占った。結果は、とても平凡なものだったよ。あの人が嫌いな、ね」
「平凡、って……」
「簡単に言えばこうさ。『淀みも危機も、何事もない、平穏無事な人生でしょう』ってね。――ね、つまらないでしょう。これじゃあ母上じゃなくても、変えてやろうって思うよね」
すると夏梨は、言う言葉を見失った様子で口を開けたままナツルを見つめた。
そしてしばらくそのまま黙った後、長々とため息をつく。
「……じゃあ、あんたが三回も三年生やってたのって、まさか」
あえて先を言わなかった夏梨に、ナツルはにっこりと笑って見せた。
「明らかに淀んでるじゃない? 人生的に」
「――淀んで腐りかけているのはお前の頭だ」
淡々とした声に明らかな憤りをにじませて唐突に口を挟んだそれに、ナツルは頭を上向かせて応じた。
視界に逆さまに入った三つの姿はどれも疲れ切った様子に見えるが、それでも合った視線の先にある瞳は、しっかりとナツルを睨んでいる。
「わあ、いつからいたの? 立ち聞きとか、趣味悪いなあ」
などとナツルが茶化すと、ナツルを睨みつけていた冬春がずんずんという足音でも聞こえて来そうな有様で、頭の上まで来る。その後ろに真夜が立ち、「冬春の得意技、忘れたかしら」としとやかに笑って見せた。
「ああ、そういえば結界得意だったっけ? にしたって立ち聞きはどうかな……」
「お前の思考は、妙なところで短絡すぎる」
ナツルの非難を聞き流して、冬春は低く言った。
「俺は、向上心のない者が嫌いだ」
「知ってるよ、だから三年前、僕と絶交したんでしょ」
「絶交って……」
聞いていた夏梨が子供か、とどこか呆れ返った視線でぼそりと呟いたが、二人とも聞かなかったことにしたように顔を背ける。
「『一生進級しない』と言ったのはお前だ」
「違うよ、『状況が変わるまで今のところ一生進級する予定はない』って言ったんだ」
同じだろう、という突っ込みは、もはやする意味がない気がして、夏梨も真夜も黙っていた。
ナツルの口ぶりを見ていると、どうやらもうそろそろ治療も終えていいだろうと判断して、夏梨は術を解いた。そして、立ち上がる。
「真夜姉、結局ここ、どうなってた?」
「そうね、そこまで広くはないわ。ずっとこの白黒模様が続いていて、一つだけ大きな建物がある。それに霊術院の穿界門に似た門があったんだけれど……」
「じゃあ、見てみよう。さっきと同じ手が使えそうならやってみるし。……じゃ、話ついたら追いついて来てよ」
夏梨は冬春とナツルを振り返って言う。すると二人が揃って不本意そうな顔になった。
「別に、今さらこいつと話など……」
「あるんじゃないの、そのひねくれバカがわざわざそんな思い出話したんだから。真夜姉、行こ」
「ええ、行きましょうか。ナツル、冬春。あなたたちはそのひねくれた頭と頑固な頭を少しほぐしてから来なさいな」
いいわね、と真夜は綺麗に笑って、夏梨と連れ立って歩いていった。
それを無言で見送りながら、冬春とナツルの二人は意図せず同時にため息をついたのだった。
[2010.08.19 初出 高宮圭]