Vox

-ユース・ラッシュ-

28 : そうぐうすること



 その建物は、ちょうどこの不可思議な空間の中央にあるようだった。
 無機質な石造りで、これの壁面もすべて白黒の縦縞である。そこにまるで保護色になっているようにして、門があった。
「これ、穿界門なの?」
 霊術院にあったものとは形も何も違うそれに夏梨は首を傾げる。だが真夜ははっきり頷いた。
「たぶん、間違いないはずよ。霊錠がかかっていたもの」
「れいじょう、って?」
「霊錠というのは貴族とかがその家専用の穿界門を閉じておくために使う不可視の鍵なの。その家の者しか開けられないようになっているのよ」
「へえ……」
 すごいね、と言いながら夏梨は門に手を伸ばして、そして引く。
「……真夜姉、開いちゃったんだけど」
「だから言ったじゃない、『かかっていた』ってね。私、霊錠開けは得意なのよ」
 にっこりと真夜は笑う。その笑顔に夏梨は少し顔を引きつらせた。
 真夜の家は呉服屋のはずだ。だというのになぜそんなスキルを持ち合わせているのか。そういえば、真夜は特に暗器の扱いが上手い。とても器用なのだ。
「……」
 深く考えないことにして、夏梨は門を開ける。
 するとその先に、空間はなかった。あるのは白で塗りつぶした壁だけだ。それを見て、夏梨は門を閉じた。
「夏梨?」
「この門は、だめかな。何かよくわかんない術式かかってるみたい。奥の壁にびっしり何か彫られてる」
 見て、と門の前からどいて場所を渡すと、真夜もそれを見た。そして眉をひそめる。
「本当ね。……でも、何のためかしら」
 しかしその答えは考えてもわかるものではない。結局真夜と夏梨は冬春たちのところに戻ろうということになって、門を閉じかけた。
 けれどそこで、夏梨はふと門の中の壁に変化を見つける。
「……待って、真夜姉。これ」
 くい、と真夜の袖を引く。そして真夜もそこを覗き込んで、きょとんとした。
「なにかしら、これ」
 術式の彫られた白い壁には、反対色の黒の文字が少しずつ浮かび上がってきていた。まるで、その奥にいる誰かが書いているかのように。
 二人は思わずその文字をじっと見つめた。やがて、文が完成する。
 夏梨と真夜は、思わずそれを声に出して読んだ。意図せず、声が重なる。
 壁には、こうあった。

「『ぼくは、永落人です』……?」

 えいらくじん、と読むのだろうか。聞いたことのない響きに、二人は顔を見合わせた。
「中に、誰かいるのかしら」
「そうとしか思えないよね、これ……。聞こえてるのかな?」
『きこえています』
「……聞こえているみたいね」
 文字は、しばらくすると勝手に消えていく。中で消しているのか、それはわからないが、どうやら中に何者かがいるのは確かなようだった。
 永落人は続ける。
『きみたちが門をあけてくれたから、聞こえています。誰ですか、迷子ですか』
「迷子……まあ、あながち間違いじゃないよね」
「私たちは院生です。何だかよくわからないけれど、穴に落ちてここに来たの。あなたは、出方を知っておられます?」
 すると少し間を空けて、答えが書かれた。
『はい』
 思わず目を疑った。
 こんなにあっさり、今の状況を打破するきっかけを見つけられるとは思っていなかったのだ。
「その方法は?」
 意気込んで真夜が訊ねる。示された答えは、とても簡単なものだった。
『この建物の真上に、出口』
 夏梨と真夜はそれを読んで、同時に上を見上げた。どこまでも続いていそうな空間に見えたが、意外にも近いところに場違いな障子戸があった。ただし天井と同じ色で、言われなければ気づかなかったろう。
 一度近くまで行って戸を確認し、しばらく話し合ってから、結局この出口を試してみようという結論を出した。
 真夜はとりあえず冬春とナツルを呼んで来ると言って、もと来た道を戻る。
 夏梨はその場に残っておくことにした。
 あの出口は本当なのだろうか。それはまだわからない。だが、夏梨たちを陥れて永落人にメリットがあるとも思えない。
「……あんたは、ここから出れないの?」
 時間潰しがてら、夏梨は口を開いた。
『はい』
「出たいでしょ、この空間の出口も知ってるんだから」
『いいえ』
 示される文字は単調だ。字面だけでは、相手がどんな顔をしているのかわからない。だが、どうやら永落人はここから出る気はないらしい。その理由を問うたが、答えはなかった。
「……まあ、いいや。なんでこんなとこにいるのか知らないけど、出る気になったら手伝うよ。今回のお礼で」
 どうやってここに来たかもよくわかんないんだけど、と夏梨が自分の言葉にため息をつくと、また文字が浮かび上がった。
『そちらで、何が』
 問われて、夏梨は回答に少し困る。今何が起こっているのか、それを正しく知っているわけではない。だから確実なところだけを答えることにした。
「戦争の名残が、消えてない」
 空間のひび、それによる虚、ひびの修復、ゆえの多忙。それらが先の戦争のせいで引き起こされたことだということは総隊長から聞いている。それ以外、今回のひずみがどういう関係があるのかは定かではない。けれど。
「……なんか、嫌な感じがする」
 ただの勘にすぎないが、なんとなく、これで終わる気がしない。これから事がどう発展するか、それはわからないけれど、少なくともあのひずみはまた現れるはずだ。
 すると永落人はしばらく黙って、それから『壁に名前を』と書いた。
「名前?」
『ぼくがここから出るときに力を貸してくれるなら、ぼくも力を貸します』
 お礼に力を貸すと言ったのに、それじゃあきりがない。そう思ったが、言う前に夏梨は視界に戻ってきた真夜と連れられて来る冬春とナツルを認めた。
「……わかった。あたしは夏梨だよ。黒崎夏梨。字はこうね」
 永落人の望むまま、壁に名前をなぞる。しばらくして文字は消え、それを見届けて、夏梨は踵を返した。
「それじゃ、ありがとね」

 返事を確認することなく、夏梨は真夜たちに合流すべく走り出す。
 その背後で、音もなく壁に文字が綴られていた。

『野望、潰えず』


***


「で、その得体の知れない永落人とかを信じるわけだ?」
「じゃあ他に何か手があるのかしら。ないでしょう」
「……危険かもしれないが、試す価値はある」
 夏梨が合流すると、どうやら説明と説得がちょうど終わったところらしかった。
 ナツルがなんとなく納得できないという顔をしているが、結局永落人の示した方法以外ないというのも事実である。
「いいじゃん。ナツル、予想外好きでしょ?」
「今のところ、君だけで十分なんだけどなあ……」
 などとぼやきながら、四人は天井に隠れるようにして存在する障子戸を開けた。
 そしてその先を見て、思わず沈黙する。
 戸の向こうには、何か見覚えのある景色があったのだ。

「また断界、走るわけだ……嫌になるね」

 さすがに疲れた口調で呟かれたナツルの文句を、誰も咎めはしなかった。
 それでも脱出路はこれしかない。

 腹をくくって、夏梨たちは本日二度目となる断界に足を踏み入れた。
 そして走る。
 四人とも相応の疲労を抱えていた。おかげでともすれば足元を拘流にすくわれそうになる有様だ。だが、捕らえられてはここまで生き延びたその甲斐がなくなる。
「今度は落とし穴とか、ないでしょうね」
「拘突も、ごめんだ」
 軽いトラウマを覚えつつ、四人は走るスピードを上げる。
 そしてようやく、出口が見えた。
「出るよ!」
 夏梨が叫んで、四人はやっとの思いで断界を飛び出す。
 今度は落下することもなく、見覚えのある景色に見覚えのある顔が出てすぐ見えた。
 しっかりと整備された広い通路に、瓦屋根。現世育ちの夏梨からすれば古めかしくも見えるその風景は、しかし今では馴染みがある。
「か……えって、きたあ……」
 ぜいぜいと息を切らしながら、気が抜けて夏梨は思わず座り込む。走ったあとすぐに座るのはよくないとは知っていたが、今はとりあえず体を休めたくて仕方がない。
 ナツルたちも同じく座り込んで、しまいには四人とも道にそのまま寝転がってしまう。
 そして寝転がってからようやく、四人が出てきた場所――瀞霊廷の正規の穿界門の前でぽかんとした間抜け面のまま突っ立っている知り合いに声をかけた。
「無事だったんだ、蛮原……ただいま……」
 すると、やっとのことで蛮原は我に返ったらしい。ふるふると震えだし、しばらくしてから、

「あァアァ――――!!!!」

 何やら絶叫して、突風が起こるほどの勢いで駆け去っていった。
 それを夏梨たちはぽかんとして見送って、
「とりあえず、誰か呼んで来てくれるかな……」
「……というか、今の絶叫で、誰か来るんじゃないか」
 その冬春の予測通りか、それとも穿界門が開いたことを知ってか、しばらくして生き残った院の生徒たちや四番隊の大群が押し寄せ、夏梨たちは速やかに救護所に収容されたのだった。
 疲れ果てた四人はすぐさま気を失うように眠り込んだ。――その間に行われた隊首会やその決定など、もちろん知る由もない。

 そうしてようやく、彼らの長い一日は幕を下ろした。




霊錠*れいじょう=オリジナル設定
[2010.08.20 初出 高宮圭]