白の襦袢に腕を通す。
死んだら、時間が止まると思っていた。
だって、毎日のように見る幽霊たちは、どれだけ時間が変わってもその姿を変えることはなかった。でたらめだらけの心霊番組でひとつだけ本当だったことは、幽霊が死んだときそのままの姿でいるということくらいだと、そんなふうに思っていた。
けれど、どうやらそれが違うようだということを、夏梨は死んでから知った。
襟元に入り込んだ髪を持ち上げて、背中に流す。
髪を伸ばすのが嫌いだった。理由は単純で、面倒だったから。でも、それなら遊子のようにショートカットにしてしまえばもっと楽なのに、それをせずにいつも顎あたりまで伸ばした髪形を保っていたのは、なけなしの乙女心だったかもしれない。女らしく見られたいなんて思ったことはついぞないけれど、それでも男子と間違われるのはどうしても嫌だった。
黒の衣に腕を通す。
同じく黒の袴をはけば、全身真っ黒になってしまった。
仕上げに、白の帯を締める。それから、軽く手櫛を髪に通した。
必要以上、伸ばすつもりなんかなかった。なのに。
顔の横に落ちてきた髪に指を絡めてみる。
ずいぶん、髪が伸びた。
それが少し、嬉しい気がする。
***
――ひずみが発端となった怒涛の一日のあと、最もそれに振り回された霊術院の院生四人は丸一日眠り込んだ。ナツル以外外傷はほとんどなかったが、霊力的な疲弊が激しかったらしい。
目を覚ましては眠ることを何度か繰り返し、その間に百目鬼やその他に事情を聞かれてその次の一日を過ごした。
そしてその翌日、四人は物音にほとんど同じタイミングで目を覚ますことになった。
どうやらいつの間にか四人一部屋にまとめられたらしく、ベッドが二つずつ壁にそって横に並んで置かれている。その部屋の中央にその二人はいた。
息が止まるかと思った。
冬春たちから夏梨がそんな告白を聞いたのは後になってからだったが、夏梨もそれなりに驚いた。
何しろ目の前に、総隊長と卯ノ花隊長が立っていたのだ。病人を労わってか霊圧はしっかり閉じてあるものの、院生は普通滅多に目にかかれぬ人物である。
総隊長の弟子として教えられた夏梨は別として、他の三人はたいそう驚いた。
「おはようございます。少し驚かせてしまいましたね。少しお話をしに来ただけですから、そう緊張せずに」
やんわりと卯ノ花は微笑んで、動きを止めたままの四人にしずしずと歩み寄ると、一つずつ包みを渡した。
四人の中で一番早く我に返った夏梨は、その包みを受け取って、改めて卯ノ花をと総隊長を見た。その視線に応えるように総隊長は口を開く。
「まずは、適格な判断で院生を守ってくれたこと、そして無事に帰って来てくれたことに感謝しよう。体の具合はどうじゃ」
「――は、い。もう、だいぶよくなりました」
驚きを声の硬さに残しながらもしっかりとした返答を返したのは冬春だ。さすが、院生筆頭としてやってきただけはある。
総隊長はそれに目を細めて、「ならば、よい」と柔らかい声で言った。それから再び表情を引き締めて続ける。
「儂が今日ここに来たのは、お前たち四人の今後についての隊首会の決定を伝えるためじゃ」
「隊首会……!?」
隊首会と言えば、護廷十三隊内で行われる会議として最も大きなものであり、四十六室が機能していない今、瀞霊廷の最高議会とも言えるだろう。まさかそれに自分たちのことがあげられるとは思ってもいなかった冬春たちは驚くというよりおののくような素振りで繰り返す。
隊長格の者と割と近しい夏梨はそこまで驚くこともなかったが、表情を硬くした。
「渡した包みを開けて見てください」
卯ノ花が優しい声音で促す。それに従って、四人は渡された包みを開けた。そして今度こそ、全員が目を丸くする。
「これ……っ」
思わずばっと顔を上げた夏梨と同じく、他の三人も中央に立つ二人を見つめた。
総隊長は構わず続ける。
「時任冬春、水町真夜、御堂ナツル、黒崎夏梨。以上四人のこのたびの働き、少なからず十三隊の助けになろうものであると判断された。――よって、六回生の三名は現時点を持って仮卒業とし、護廷十三隊の補欠要員として仮入隊をしてもらうこととする。また、御堂ナツルは仮卒業は認められぬが、六回生に進級、時任冬春の代理として霊術院筆頭生に任ずる。来春に行われる卒業試験を合格するまでこの扱いを持続し、御堂以外の三名は正式入隊が決定されるまで、護廷十三隊と霊術院双方に所属するものとする」
全員が、その意味を把握しきるまでわずかな沈黙があり、やがて一様に信じがたいと言った言葉にならぬ声がもれた。
「ま……待ってください、総隊長。それは、あまりに急です」
やっとのことで混乱を押さえ込み、冬春が言葉を途切れさせながら言うと、総隊長は何食わぬ顔で「お前には以前から入隊の話があったはずじゃろう」と言う。
「それとこれとは……だいたい、隊と院の双方に所属するなど聞いたことがありません」
「そうでもない。ごく少数だが、これまでにも前例はある。……お前たちはどちらにも『いるべき』と判断されたのじゃ。ただし、必要とあらば院生の務めを果たしてもらうが、基本的に護廷十三隊の補欠要員としての仕事を優先してもらう。……御堂も、本来ならば同じくの扱いだったはずじゃが、いかんせん留年が問題視されてのう」
ナツルは総隊長からの視線を受け止めると、ふと苦笑して肩をすくめた。
「構いませんよ。……ろくに進級もせずに卒業しては、親類が黙っていませんから。むしろ、好都合です」
ご存知でしょう、とにっこりしたいつもの食えない笑みを浮かべるナツルが言う意味を、総隊長は正しく受け止めたらしい。夏梨はよくわからなかったが、冬春や真夜も理解したようだった。
「確かに、急な話ではある。じゃが、人手不足の今じゃ。力を貸してほしい」
言葉を切ると、総隊長は「以上じゃ」と杖をひとつ鳴らした。コン、というよく響く音で幕引きがされたように、総隊長は静かな足音で四人の部屋を去っていった。
残った卯ノ花が、相変わらず落ち着いた声で補足をする。
「御堂さん以外の三人は、これより護廷十三隊所属となります。ですが、所属の隊はあってないものです。……あなたたちは全ての隊に所属し、その時々に任じられる隊の任務をしていただきます」
正式な入隊は、今後行われる予定の大幅な隊の再編成時に行われる、と卯ノ花は伝えた。
夏梨たちは半ばぽかんとしてそれを聞く。
「あなたたちは今から、包みにある服を着て、まず初めに任務を行う隊の隊長のところへ行って指示を受けてください。案内は四番隊の隊士がしますから、着替えが終わったら、四番隊の門前へ。そこで任務を行う隊をお知らせします」
それでは、とやわらかく笑って、卯ノ花は部屋をあとにした。
残された四人はしばらく沈黙する。
何ともいえぬ沈黙を破ったのは、ナツルの能天気にも聞こえる声だった。
「なーんか、大変なことになったねえ、君たち」
「……君たちって、あなたもでしょう。ナツル」
「僕は楽に進級して楽になんか院で一番偉い生徒になっただけだもん。君たちは仮入隊の補欠要員っていうけど……それってつまり、『全隊共通ナンデモ雑用係』ってことでしょ」
ナツルはからからと笑って、頑張ってね、などと言う。冬春が何か言い返そうとしたようだったが、言われてみればその通りかもしれないと思い直したのか、結局何も言わずに長いため息に変えた。
「……死覇装」
ぽつりとした呟きをこぼしたのは、夏梨だった。
卯ノ花から渡された包み。そこに入っていたのは、死覇装だった。それを取り出して、眺める。
死覇装。そんな名称も知らなかった頃。それでも夏梨はこれを知っていた。兄が、日番谷が、死神たちが着ていた『黒い着物』。これは夏梨にとって、何よりわかりやすい、死神の証だった。
これを、着るのだ。――着られるのだ。
そう思うと、何か頭がぼうっとした。
そして今更、思い知る。
――あたしは、こんなにも。
(死神に、なりたかったんだ)
死覇装を抱きしめて、夏梨は膝に顔を埋めた。
「チビちゃん?」
不思議そうに向かいからナツルが呼びかける声をしばらく無視して、間を置いてから、顔を上げる。
それと同時にベッドの周りにあるカーテンを引いた。カーテンの向こうから重ねられる声をことごとく聞き流しながら、夏梨は今着ている寝巻き着をするりと脱いだ。
――白の襦袢に腕を通す。
襟元に入り込んだ髪を持ち上げて、背中に流す。
黒の衣に腕を通す。
同じく黒の袴をはけば、全身真っ黒になってしまった。
仕上げに、白の帯を締める。それから、軽く手櫛を髪に通した。
必要以上、伸ばすつもりなんかなかった。なのに。
顔の横に落ちてきた髪に指を絡めてみる。
ずいぶん、髪が伸びた。
それが少し、嬉しい気がする。
そして、カーテンを開く。すると向かいに変わらずのナツルが見えた。あちらは着替え終えた夏梨をどこかきょとんとした風情の表情でいる。
夏梨はそんな彼に勝気な笑みを向けた。
「じゃああたし、先に行くから」
「え」
「あんたは頑張って、留年したぶん取り戻しなよ。……もう留まる気もないんだろ?」
するとナツルは少し驚いた顔になった。それを見届けて、夏梨はベッドから降りる。
「行こう、冬春、真夜姉。せっかくのチャンス、逃す手はないでしょ」
夏梨が促すと、まだ戸惑いを残していた二人も、これがまたとない機会であるということを自覚したらしい。綺麗な笑みを浮かべた真夜がまずカーテンを引いて、冬春もそれに習う。
ナツルが渡されたのは院の制服を新調したものらしく、それと並んだ筆頭代行を証明する腕章を持ち上げて、ナツルも黙ってカーテンを引いた。
閉められた三つのカーテンを眺めながら、夏梨はぼんやりと、しかし確かな変化を感じる。
このカーテンが開くとき、今までとは違う時間が始まるのだ。――仮にも死神として。あるいは院生として、新たな立場を得る。
それは待ち焦がれたもののようでもあり、一抹の寂しさを感じるもののようでもあった。
夏梨は静かに窓辺に歩み寄ると、そこから見える空を見上げる。
春に始まった霊術院での日々は、突き抜けるような青の空が広がる夏のある日に、終わりを告げた。
三章・終
[2010.08.22 初出 高宮圭]