Vox

-ライト・ラリー-

32 : ふたたびのこと



 ――わけがわからない、絶望的なまでに理解ができない。

 こんな気分になったのは、いつぶりだろう。
 日番谷は瞬歩を駆使しながらそんな気分を持て余して、半ば反射で捕獲した『ここにいるはずのない人物』を確かめるように、握っている拳の力を強くする。
 握ったのは白と黒。死神だけが着ることを許される、死覇装のその襟首。
 瞬歩を終えて止まった途端、慣性の法則で前方へつんのめった捕獲物を手加減なく引っ張って、ぐりんと強引にこちらへ向き直させた。するとそれ――少女は、遠慮なく非難の声をあげる。
「いったぁ……ちょっと、何すんだよ!」
 ぎゃんと喚いたその顔は、非常に不満そうだ。まあ、無理やり瞬歩を阻んで強引に捕まえたわけだから、そこそこ負担はあったろう。けれど今は、そんなことはどうでもいい。
「お前……ッ」
 言葉が喉でつっかえた。訊きたいことが多すぎて、何から吐き出していいかわからない。結局言うべきことを見失って、日番谷は記憶にあるものより少しだけ印象の変わった少女の顔を、またまじまじと見る。
 すると、少女は笑った。珍しく動揺をあらわにしてしまっている日番谷の顔を見て、さもおかしそうに。

「なにユウレイでも見たような顔してんの? 冬獅郎」

 ――夏梨は笑った。目の前で、触れた距離で、屈託なく日番谷の名を呼んだ。
 そして、存在することを証明するように、日番谷が捕まえている夏梨の腕にある日番谷の手に、ぴたぴたと触れて見せる。
「よ、久しぶり」
 あっさりと。ごくなんでもないように、ちょっと引っ越してしばらく会っていなかっただけかのような口ぶりで、夏梨は言ってのける。
 けれど、いくらそんな口ぶりでも、そうでないことは言うまでもなく明白だ。それは日番谷の記憶が否応なく証明している。――最後に夏梨の顔を見た記憶は、嫌に白い死に顔だった。
「……てめえは……!」
 日番谷はいつもよりも低い声で言葉を搾り出す。能天気な挨拶と、記憶の死に顔と。それぞれはまるで重ならず、そこから生まれたのは驚きも困惑もどうでもよくなるほどの、憤りだ。
 けれどそれは爆発する直前に、冷水を浴びせられることになった。

「ごめん」

 ぎゅうと小さな手が日番谷の袂を握っている。ぽつりと頼りない声で言われた謝罪は、もう一度繰り返された。
「ごめん」
 急激に、頭が冷えるのが感じられた。夏梨が何について謝っているのか、それは問うまでもない。
 先程まで笑っていた顔は表情を消して、俯いている。袂をつかんだ手は離すまいとするように指先が白くなるまで力が込められていた。
 記憶にあるより伸びた黒髪が、風に揺らされて日番谷の眼下で踊る。
 日番谷はしばらく夏梨を見つめてから、長いため息をついた。今肺にある酸素を全て吐ききるつもりの長いため息で、せりあがった憤りを押し流すように。
 それから日番谷はふと手を伸ばして、風になぶられる黒髪を一束、がしっと掴んだ。遠慮なく掴んだので、「いたたたた!」と声があがったのは当然だろう。
「ちょ、何すん……」
「黒崎夏梨」
 言葉を遮って、名を呼ぶ。その名を口にするのは随分久しぶりだった。きょとんとした瞳と視線がぶつかって、日番谷は仏頂面の自覚をしっかり持ったまま言った。
「お前が本当に謝らなきゃならねえのは、俺じゃない」
 澄んだ黒の瞳が一瞬丸く見開かれて、それから頷くのに合わせて伏せられる。彼女もそれは痛いほどわかっているのだろう。だから、それ以上そこについて言葉は重ねなかった。
「夏梨」
 呼べば、今度はしっかりと視線が応えた。
 袂を掴まれている感触と、掴んでいる髪の感触と。それらは紛うことなき本物で、彼女が身につけている死覇装も、現世にいるときよりも格段に上昇しているその霊圧も、本物だ。
「死神になったんだな」
 現世で彼女が死んでから約半年。普通ならば到底信じられる代物ではない。けれど現実として今目の前には、死神の夏梨がいる。
 一護が断言した通り、おそらくは一護が思うよりも早く。
「うん」
 頷いた夏梨は、記憶にあるより大人びた笑顔で日番谷を見返した。同時にゆっくりと袂から手が離されて、日番谷も髪から手を引く。
 訊きたいことは山ほどあった。夏梨もそれは同じはずだ。けれど今はそれを問おうとは思わなかった。その考えを読んだように、夏梨は「ちゃんと話す」と言った。それに日番谷は「聞く」と端的に返して、確約は成された。今はそれで十分だ。
 ごう、と風が鳴いた。足元の草原も波を打って、夏空の雲を押し流す。
 高く青い空を何ともなしに二人して見上げて、もう一度視線を戻せば、そのタイミングが全く同じだった。
 冬獅郎、と変わらぬ調子で名前を呼んで、夏梨は言った。

「おかえり」


 出会いはまた、夏の日の午後。




***




「なんで『夏祭り』って夏祭りって言うんだろ」
 ふと動きを止めて、ぽつりと夏梨が漏らした疑問に、真夜も同じく動きを止めてきょとんとした。
 夏梨が言っている夏祭りとは、つい今しがた終わった霊術院恒例行事のことだ。
 呼び名こそ夏祭り、ではあるが、内容に夏祭りらしいところなど微塵もない。
「夏だからでしょう?」
 真夜が当然というふうに答えれば、夏梨はまだ納得のいかない顔で「だって半月もすれば秋のほうが近いよ」と呟く。
「それに、お盆辺りにちゃんと普通の『夏祭り』はあったし」
「ああ……花火が綺麗だったわね。夏梨が浴衣を着てくれなかった夏祭り……」
 ぼそりと恨めしそうに呟かれて、夏梨はぎくりとする。
「仕方ないじゃん、すぐ仕事あったんだし。真夜姉も冬春もでしょ」
「そうなのよ……だから私はあの夏祭りを半分夏祭りと認めていないの。花火、出店、浴衣! 夏祭り三大要素の一つが欠けてしまったんだもの!」
 無念そうに拳を握る真夜に夏梨は半ば呆れた視線を送りつつ、作業に戻った。作業――真夜と二人して進めているそれは、すなわち着替えである。
 久方ぶりに着た霊術院の制服から、ようやく着慣れて来た死覇装に着替えているのだ。
「にしても、ナツルってあんな強かったんだね」
 ふとつい先程の『夏祭り』を思い出し、夏梨は肩をすくめた。
 ――霊術院恒例の夏祭りとは、四人一組で挑む院をあげたチーム勝ち抜き戦のことだ。
 夏梨は言うまでもなくナツル、冬春、真夜の三人とチームを組み、ものの見事に優勝した。約半分は顔ぶれを見て不戦勝を差し出して行ったのだけれども。全く骨のない奴らだ。一年でまともに戦って来たのは蛮原のチームくらいのものだろう。そういう気概があるから、夏梨は蛮原を嫌いにはなれない。
 その蛮原を情け容赦なく、且つ笑顔でこてんぱんにしたのが、ナツルである。というより、その一戦以外でも今回の祭りではナツルがやけにやる気だった。
 真夜は死覇装に帯を結びながら朗らかに笑う。
「ナツルはね、気分屋だから仕方がないわ。今回は特にやる気があったみたいだし。……あの子はやる気のときとそうじゃないときの落差が激しいの」
 激しすぎだろう、と思わないでもないが、そもそも今まで進級しなかったその理由を思えば、ナツルだしな、という言葉で納得できてしまえてため息が出る。

「……やる気と言えば、今回はあなた、やけに上の空だったわね」

 ふと自分に話題が変えられて、思わず夏梨はぎくりとした。上の空、だったつもりはないが、時折他のことを考えていたことは事実だったからだ。
 夏梨より一足早く着替えを終えた真夜が背を向けた後ろで首を傾げているのが気配でわかる。
 真夜は聡い。ナツルや冬春もそうだが、同性ということもあってか、彼女はよく夏梨の考えを察してくれる。
 それがありがたいことも多いが、たまに痛いこともある。今回は後者だった。
「……ばれた?」
 ばつが悪そうに首だけで振り向けば、自分の髪を梳いて結わえ直しながら真夜が綺麗に笑う。
「女の観察眼を舐めてはいけないわ」
「恐れ入りマス。……いや、まあ大したことじゃないんだけどね」
「なあに? ……恋の話?」
「あたしが?」
「ないわよね」
 くすくすと茶化すように真夜は笑って見せる。わかってるなら言うなよ、と夏梨は眉をひそめたが、すぐにため息で流した。
 それで、と真夜が視線で促して来るので、夏梨は少し逡巡してから口を開いた。
「……あたしの霊圧、何か変じゃない?」
「変?」
「そう。落ち着かないっていうか、ぶれてるっていうか。何かいまいち言うこと聞かなくて」
「それで今日は控えめだったの?」
「まあ……うん」
 頷くと、真夜はしばらく霊圧を探るように目を閉じて黙った。そして少しの沈黙を挟んでから「本当ね」と呟く。
「探らないとわからない程度ではあるけれど……安定していない感じかしら。霊圧の乱れは体調や感情の乱れが大体原因だけれど、心当たりはない? ひどく驚いたことがあったとか」

 驚いたこと、と考えて思い至ったことは――先日の再会。
 現世で文字通り死に別れた彼にもう一度会えた。あんな再会の仕方をするとは思っていなかったが、それでも帰って来ることがわかっていた以上、そこまでの驚きはなかったけれども。
 あの後、今日までの三日間。日番谷を始めとする現世で知った顔には会っていない。夏祭りのおかげで霊術院に入り浸りだったからだ。
 驚いたと言えば夏梨よりは、相手のほうだろう。何せ死んだと思っていた夏梨がちゃっかり死神になっていたのだから。
 鳩が豆鉄砲を食らったよりも驚いたようなあの表情を思い出して、思わず夏梨は口元を緩めた。
「夏梨?」
「あ、ああ、ごめん。……いや、驚いたことは特には。会いたかった奴には、会えたけどさ」
 真夜は理解できない、というような表情をますます訝しげに変えて見せたが、夏梨はふと自分が口にした言葉にきょとりと瞬いて、思考に耽る。
 あいたかった。
 その言葉がさらりと口に出てきたことが不思議だった。会いたかった、のだろうか。自分は。最初の頃はいざ知らず、最近はそう思うことはほとんどなかった。
(……会いたかった、のか。あたし)
 ぼんやり新鮮な気分でそんなことを考えて、夏梨は我知らず笑みを浮かべた。
 その笑みに、真夜が驚いたように少しだけ目を丸くしたことには、気づかなかった。


「チビちゃん、真夜。着替え終わった?」
 ちょうど会話に区切りがついた頃、ひょこりと顔を覗かせたのは現院生筆頭のナツルだった。
 一応、彼が院生の全指揮権を持っている。素行をよく知る者にしてみれば不安なところも多いが、今のところ問題なくその任を努めていた。
「ちょっとナツル。そういうことは入って来る前に訊きなさいな」
「ああ、ごめんごめん」
 まったくそんな気もなさそうに笑って謝って、ナツルは遠慮なく部屋に踏み入っている。
 真夜は既に着替えを終えていたし、夏梨もあとは髪を結い直すだけになってはいたので、実質問題はなかったのだけれど。
 ナツルは相変わらず何を気にする様子もなく、すっと夏梨に近づくと、真夜の手にあった夏梨の髪紐(大概いつも真夜に結ってもらっている)を抜き取って、当然のように夏梨の髪を結い始めた。別にいつもしたがるというわけでもないので、彼の気分屋が発揮されているようだ。
 真夜と夏梨は顔を見合わせると、そんな同じ思考の末にため息をついて苦笑した。
 そこでナツルがふと思い出したように「そういえば」と声をあげる。
「さっき冬春に聞いたんだけど、調べてた件、ようやく情報掴んだって」
 不意に話を持ち出されて一瞬何のことか理解できなかったが、次に名前を出されてピンときた。

「『永落人』のこと」

 永落人。それは、先日の『ひずみ』が巻き起こした一件で、不可思議な空間に落ちたときにで会った者だ。白と黒の空間の中で、搭の中に閉じこもった姿も声も知らぬその正体を、冬春は合間を見つけて調べていた。
 夏梨たちも気になるところではあったから、視線でナツルに続きを促す。
「そんなに多くがわかったわけじゃないけど、――少なくとも永落人は、三百年以上あそこにいる」
「……三百年?」
「霊術院の記録書を遡ってて、三百年前のものに名前があったらしい。当時は、穿界門の開錠を誤って、あの空間へ行ったみたいだけど。そのときも出口を教えたみたいだよ。搭のことは書いてなかったらしいから、もしかしたら当事は搭はなかったのかもしれない」
 要するに、どうやら三百年前にも穿界門の操作を誤ってあの空間に落ちてしまった霊術院の生徒たちがいたらしい。その記録を冬春は見つけたようだが、結局あの永落人というのが何者なのかは全くわかっていないままだ。
 三百年、ということは藍染たちが動き出す前だ。それに関連したものかと憶測をしていたが、それも違うらしい。
 そもそも、夏梨にしてみれば何百年という単位そのものがピンとこない。ここではだいぶあっさりと何百年、何千年という単位を聞くが、まだなかなか現実味を伴わない。
 結局はもやもやとした疑問を残したままの永落人の情報に頭をがしがしと掻いて、夏梨は考えを振り切った。

「とりあえず考えるの、あとにしよう。……お腹すいたよ」



***



 己の指の形も見えぬほどの闇の中で、彼は白く浮かび上がったひとつの名をなぞる。

 彼の搭に刻まれた名前は、多くはない。今までにたった一つきりだ。
 それはそうだ。彼がいるこの地は普通ならば『誰も訪れることができない』。仮に訪れることができても、搭の中の強固な守りの闇に隠れた彼の存在に気づくことは、ほとんどできないだろう。

 今までにここに訪れたイレギュラーは二つだ。

 一つ目のとき、彼はまだ搭に入ってはいなかった。この白と黒の空間がまさしく檻だった。けれど一つ目のイレギュラーがこの空間に迷い込んでから、彼は搭に入った。
 そして二つ目。
 堅いはずのその守りを破り、彼から脱出口を聞き出して行った者たちがいる。そして彼の『依り代』ともなれる名を無防備にも残して行った、愚かな子供が。
 闇に浮かぶその名前を掌に掴み取って、彼は薄く笑った。

「黒崎、夏梨」

 眩しい白が、彼の目を灼く。
 頑強なはずの搭が、脆くも崩れた。

 永落人はひとつの名前を手に、永久の牢獄から抜け出した。





[2011.04.19 初出 高宮圭]