瀞霊廷にある図書館は、非常に巨大だ。
建物自体もそうであるし、比例して中の蔵書も半端ではない。分類分けがされていようが、そこから必要とする本を発見することは、慣れていなければ非常に困難なことである。
「まあ、ひと月もすれば、さすがに要領はわかってくるけれど……」
「こんだけの本棚見ると、やる気は削がれるよね」
「……否定は、しない」
明らかに梯子を使わなければ取れないどころか背表紙すら見えないほどの巨大な本棚の並びを見ながら、真夜、夏梨、冬春は順に呟いた。
全隊共通の補充要員となってからひと月。三人は『呼び鈴』で鳴らされる『召喚証』に従って、呼ばれた隊もしくは霊術院に行き、任務を行っている。
今三人が同じ場所――図書館に集っているのは、同じ隊に呼ばれたからではない。原則として、一人以上を同時に一つの隊が呼ぶことはできないのだ。霊術院だけは、人数制限も時間制限もないのだが。
だから、それぞれ腰にぶらさげている召喚証に示された任務中の隊は別々だ。それでも同じタイミングで呼ばれ、同じ場所での仕事を任されたということはつまり、呼んだ側――隊長だか副隊長だか席官だかが、狙ったからに違いない。そしてこれは、珍しくなかった。ここ、図書館に置いての仕事については特に。
「これだけの中からの資料集めでは、一人じゃはかどらないに決まっているものね」
「あたしは六番隊だけど、今日は真夜姉は……、あ、今日も二番隊か」
「俺は四番隊だ。……さて、やるぞ」
冬春の声によって、三人は気を取り直して行動を開始した。まずは足元しかつけていなかった照明を全てつけるところからだ。資料集めに使うのはもっぱら地下の保管庫で、昼間でも光がないのである。
仮入隊を果たしたと言っても、三人に来る任務はほとんどが事務雑用だった。こうした資料集めから、掃除、洗濯、その他。遠征に連れて行かれても雑用のためにだったりする。ただし、上位席官以上に稽古や指南をしてもらえることは特権と言えた。補充要因は雑用係だが、特殊なために上位席官以上にその命令権がある。つまり隊長格の近くにいることが許可されており、その命令で動くのが義務なのだ。ただし、隊長格が部下にその権を預ければそこで働くこともあるが。
「あ……夏梨ちゃん……っ」
地下室にない資料を探しに一般蔵書の階に上がって来たとき、何やら苦しげに名前を呼ばれて、夏梨はメモから顔を上げた。そして知った顔を見つけてきょとんとする。
「雛森副隊長。……何してるんですか?」
いたのは、五番隊・副隊長の雛森だった。何やら、備えつけられた梯子と格闘している、ように見える。
巨大な棚に合わせて作られているため、当然図書室の梯子は大きい。バランスを崩すと倒れてしまうし、起こすのも一苦労だ。だから、使用するときは地道にずりずりと引っ張るのが一番確実なのだが、どうやら誤って梯子のバランスを崩してしまったらしい。雛森は全身で梯子を支えている。というか、押しつぶされかけている。
「た、助けて……」
言われるまでもなく、夏梨は急いで駆け寄ると横から梯子を押し戻す。今ばかりは丈夫に作られている梯子が憎いが、しばらく踏ん張っていると何とか梯子は本棚にその巨体を凭せ掛けて、事なきを得た。
「はー……びっくりしたぁ。ありがとう、夏梨ちゃん」
「びっくりしたのはこっちですよ……コレにならないように気をつけてって、雛森副隊長が教えてくれたのに」
「そうだったよね。夏梨ちゃんも慣れたからって気を抜いたらだめだよ?」
「すごい説得力あります……。ところで、何してるんですか?」
雛森が図書館をよく利用するのは聞いていたから休憩時間ならともかく、今は違う。すると雛森は困ったように苦笑して答えた。
「資料が少し欲しくて。誰かに頼むのも何だから、自分で来たところなの」
夏梨ちゃんたちも全員もう呼ばれてたみたいだし、と笑う雛森の五番隊は、現在隊長がいない。三番隊と九番隊、実質的に現在は十番隊もそうだが、隊長がいない分慌しさは他より上だ。
そのため、今は落ち着いているものの、最初のほうは補充要員はそれらの隊に呼ばれがちだった。だから、だいぶ打ち解けてはいる。特に夏梨は五番隊にはよく呼ばれていた。
しかし、今は六番隊に召喚されている夏梨としてはついでにやりましょうかとも言えない。だから少し考えて、一つ問いかけた。
「その資料って、今すぐに欲しいものなんですか?」
「え? うーん、そうだなあ……いくつかは、すぐに欲しいけど、それ以外は……」
「じゃあ、ロウ貸します。梯子代わりと荷物運びにでも使ってください。今いるものだけ見つかったら、あとは後回しで」
名を呼べば夏梨の足元をうろついていた子犬がいつもの鳴き声で応じて、雛森の足元に擦り寄る。そして姿を人ひとり運べるほどの大きさに変えた。
「え、でも……」
夏梨はいつも資料探しにはそれこそロウを梯子代わりと荷物運びに重宝している。自分で霊子の足場を作るより断然楽だし便利だからだ。それを知っている雛森はいくらか気後れしたように口ごもる。
そんな雛森に夏梨は言葉を重ねた。
「四時になったら、召喚してください。そしたら後はあたしが探します。……ここだけの話、六番隊って人使い荒いんです」
最後だけわざとらしく声をひそめて言えば、雛森は一瞬きょとんとして、それから意図を察したらしく、くすくすと笑った。そして同じくわざとらしくひそめた声で返す。
「ふふっ。……じゃあ、あたしが助けてあげましょう」
軽い冗談を交し合ってから、夏梨はロウに雛森の言うことを聞くよう言って聞かせた。もともと人懐っこい上に雛森には慣れているから、大丈夫だろう。
「そうだ、夏梨ちゃんももう知ってるよね。隊の再編成の話」
「え?」
資料探しに戻ろうとしたところでふと話を振られて、夏梨はきょとんとした視線を雛森に向けた。
護廷十三隊の大規模な再編成の話は、最近まことしやかに噂が流れる夏梨たちもよく知る話だ。おそらく次の春を待たずに近々行われるであろうと言われている。
何より夏梨たちにとっては、その再編成があって初めてようやく正式な入隊を果たすことができるのだから、関心がないわけがない。
「知ってますけど……」
「現世に行ってる先遣隊の人たちが戻って来て、落ち着いてからだから、まだもう少し先の話になると思うんだけど……考えておいてほしいの」
先遣隊。不意に出されたその言葉に、思わず反応する。――夏梨も知るその先遣隊は、もうじき任務を終了して戻って来るらしい。
戻って来る、と言える場所に今自分がいることがどこか不思議だけれど。
雛森からすっと真摯な目を向けられて、夏梨は思わず佇まいを正す。話の流れでこの次に何を言われるか、それは何となく予想できた。だからこそ、体が緊張する。
「あたしは、夏梨ちゃんに五番隊に来て欲しい」
真っ直ぐに向けられた言葉に、夏梨は思わず息を呑んだ。
雛森は真剣な表情を少し苦笑に崩して、続ける。
「……とか言って、あたしが五番隊から外されたら、笑えないんだけどね」
「……あ、の」
「あ、いいの! これはただのあたしの希望だから。最終的には夏梨ちゃんの行きたい隊に行けたらいいなって思うし。……でもきっと、夏梨ちゃんも水町さんも時任くんも、すごい競争率になると思うから」
きっと本格的に近くなったら、すごい勧誘来ると思うよ。
屈託なく雛森は笑って、もちろんあたしもねとさらりと付け加える。たまに垣間見えるこういうしっかりしたところは、今隊をまとめているだけはあるといつも思う。
少し迷ってから、夏梨は口を開いた。
「聞いても、いいですか? ……なんで、あたしを?」
それは純粋な疑問だった。確かに馴染みはあるし仲が悪いわけでもなくむしろ良い。けれどその程度は他の二人にしたって同じだと思うのだ。能力だって、夏梨は唯一始解を扱えるけれども、そういうものを雛森は求めるような気がしない。
すると雛森は少し目を細めて笑った。
「もちろん、隊に取って有益だからっていうのもあるよ。……ただ、個人的な理由を言うなら、夏梨ちゃんが、似てるから」
「似てるって……誰と?」
「十番隊の日番谷くん。幼馴染だって話はしたよね」
聞き覚えのあるその名は、仮入隊を果たしてからよく耳にする。彼のみならず、兄も他の知った名も。それらにいちいち反応していられるほど素直でもなかったし神経質でもない。少なくとも表には出さないほどの反応に留めておくことができる。
雛森は思い返すように少し目を伏せて続けた。
「元々そんなに笑うほうじゃなかったけど、死神になってから頑張って頑張って、ますます笑わなくなっちゃって。……夏梨ちゃんもそんなふうに、頑張り過ぎちゃうところ、あるから」
言ってしまってから、雛森は苦笑気味に「おせっかいかもしれないけど」と呟く。
「あたしも一緒に頑張りたいなって思ったの。……よかったら、考えてみてね」
にこりと可愛らしい笑みを残し、また後でと言って、雛森は踵を返した。それにロウが付いて行く。しばらく背中を見送っていた夏梨だったが、ふと手の中のメモの存在を思い出して、ようやく動き出した。
日番谷たちの帰還、正式な入隊。
また目まぐるしく、自分を取り巻く環境は変化するのだろう。存外この補充要員という立場も悪くなかったけれども。
そんなことを考えながら、夏梨はふと窓越しの空を見上げた。雲が多いが、清々しい青空が見える。その向こうに何があるか知ったことではないが、昔から空は境界線のようなものの気がしている。今いる場所と、違う場所との。
(冬獅郎たちが、帰って来る)
少し前から話題になっているから、本当にもうすぐ帰って来るのかもしれない。
否が応にも会うだろう。そしたらどんな顔をするんだろうか。
それを思っても、自分でも意外なほど感情は揺れなかった。以前はあの霊圧らしきものを感じただけで、揺れていたのに。これは進歩なのか、たぶんそうだ。
兄や日番谷に、いつまでも寄りかかってはいられない。――今度は彼らを守れるように。
(……とりあえず会ったら怒るだろうから、逃げるか)
ひとまずの方向性を考えておいて、夏梨は仕事を再開させた。
***
月日が流れるのは早い。日番谷がそんならしくもないことを考えたのは、日々目まぐるしく変わりつづける人の世に長くいたせいだろう。
どれだけ見た目が同じに見えようが、存在している時間が異なる。それは、人間と死神という境界線を持つ限り付き纏う現実だ。
最初はただの木々の集まりであっても、長い年月をかけて立派になる山のように、死神の外見は死神として各々の成長が終わったときで、ほぼ時を止める。だからこそ伸びしろのある若い死神たちは一見人間と同じく成長を続けるのだ。――日番谷もまだ、その段階にいる。
もっとも、成熟した死神たちもゆるやかに歳を重ねるようだが、正直なところそのあたりがどう作用しているのか、実際に過ごしてみなければわからない。死神と言えど、所詮霊子の構成物だ。ともすればどうとでもなるのだろう。
「うわー久しぶりですねえ、瀞霊廷。こんなに離れたのなんて初めてですよ」
「こんな非常事態がそうそうあってたまるか」
感慨深げな乱菊の感想をあっさりと一言で切り返し、日番谷は穿界門を背に、横に列を成して並んだ面子を見渡した。
「……全員無事にいるな。では、これで現世派遣任務は終了とする。各自、隊にもどって報告しろ」
それにそれぞれの返事が返り、各々一言置いて自分の隊へと散じて行った。日番谷はそれを見送り、浅く息を吐く。
日番谷ばかりはこのまま隊に戻ることはできない。まずは総隊長への報告だ。それから留守の分の報告書をもらって、現状の確認などもしなければならない。そしてその後、おそらくとんでもない量が溜まっているだろう隊務を片付ける。
考えただけで、ため息が出そうになった。だが隣から乱菊が「あ」と声をあげたことで遮られる。どうしたと訊ねようとして、訊ねる前にその原因がわかった。
「わー! ひっつんたちだー!!」
と、やかましいほどの声量とものすごい速さで走ってくる人影がある。それが誰だか一目でわかって、日番谷は思わずその名を呟いた。
「草鹿やちる……」
「帰って来るってホントだったんだねえ! あたしね、今追いかけっこしてるの!」
楽しそうな、まるで無邪気な笑みで言われると、注意する気もなくなる。そもそもやちるが走り回っているのはいつものことだ。だから「そうかよ」と呆れた表情で返して、ふとやちるがその手に握っているものに目を留めた。
「何持ってんだ」
「これ? かーくんの髪紐!」
「なんでそんなもんを……」
おそらくやちる命名の誰だかわからないあだ名は聞き流すことにして、その手にある、グラデーションのかかった緑の組紐に橙色の飾り玉がついた髪紐を見た。この持ち主はたぶん、これを人質に強制的に追いかけっこをさせられているのだろう。少し同情する。
そして、その持ち主が現れたのは次の瞬間だった。
「捕まえたァ!!」
気配を完全に絶って、唐突にがっしとやちるの肩を掴んだその人物は、若干肩を上下させながらも、逃すまいとやちるを自分のほうへぐいと引き寄せる。
「あははっ! かーくん速ーい! もう来ちゃったの?」
「ていうか十一番隊の人にあたし襲うように頼んだでしょ! 丸腰だし死ぬかと思ったんだけど!?」
「大丈夫だよ、生きてるよ?」
「そういう問題じゃなくてさ!」
やいやいと日番谷たちをまるで蚊帳の外にしてやちると言い合うのは、二の腕ほどまであるまっすぐな黒髪に、同じ色をした目の死覇装姿の少女だ。
その少女に見覚えがありすぎて、日番谷の思考は一時中断した。
――そんな、まさか。
かろうじて動く思考の片隅が、全力で目の前の光景を否定して、浮かんだ仮説を突き崩す。それでも、どうしても、目の前にいる少女を日番谷は知っていた。
「……げ。冬獅郎と乱菊さんだ。帰って来たの?」
こちらの葛藤を知ってか知らずか、少女は見事なほどに何でもないふうに言ってのけた。というかむしろあからさまに嫌そうな顔に見えるのは気のせいか。
瞬間、日番谷の思考回路が、彼のみならず隣にいた乱菊の思考回路も含めて、仕事を放棄する。完全に理解が追いつかないまま、しかし目の前で少女とやちるは話を進めた。
「あれ? かーくん、ひっつんたちと知り合い?」
「まあね。……で! 捕まえたんだから、髪紐!」
「えー、今のはなしだよ! というわけで、えいっ」
可愛らしい掛け声と共にやちるはあっさり瞬歩を駆使して姿を消した。あ、と少女が呟いたときにはもう遅い。
「あ、待てこらっ!」
少女が同じく瞬歩でその後を追おうとするのを見て取って――日番谷は思わず、その首根っこに手を伸ばした。
そしてその場から、少女と日番谷の姿が消える。
「……なに?」
残された乱菊はしばらく呆然としたまま混乱を持て余し、ついには頭を抱えて、通りがかった吉良に発見されるまで立ち尽くすはめになったのだった。
番外編「まつりのまえに」に補充要員システムについて詳しく書いてあります←
[2010.12.07 初出 高宮圭]